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小説) 無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス 木村榮一訳(2012)

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無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス 木村榮一訳(2012)
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●扉の言葉
今では雪になっている母に

●夢見れば殺し屋 77
あの夜は何が起こったのか理解しようとした ―― ラジオから流れてくるニュースにじっと耳を澄ましていた ―― せいで、なかなか寝付けなかった。おかげで、眠り込んだとたんにテロ事件の夢を見たが、夢に出てきたのは一度も訪れたことのないダラスでもなければ(あの町は映画でも目にしたことがないのだから、夢に出てくるはずもなかった)、映画館でもなかった。場所はオリェーロスの通りで、夢を見ている部屋からケネディ大統領に銃で狙いをつけていたのはぼく自身だった。

●顎で世界を支えるよりも辛いこと 103
彼は、時間の重みに耐えるというのは、時に顎で世界を支えるよりも辛いことだと教えてくれたのだが、すでにこの世界にいない本人はそのことを知るはずもなかった。 

●死ぬまで回り続けるはずのメリー・ゴーランド 204
アルバムを、あるいは同じことだが時間の糸を、手繰っていくと、記憶がそのときどきの状況をよみがえらせる。一九六四年の夏といえば、ぼくがさまざまな色彩が存在することを知り、それとともにあちこち動き回るようになった頃だが、それからオリェロースの町を出て行くまでの間に記憶は大きく膨れ上がり、少しずつ広がりと深みを増しはじめた。色彩がそれらをもたらしてくれたのではなく、ぼくがそれだけ成長して、それまでとは違った目でものを見るようになったせいだ。その年まで、ぼくにとって生活というものは、共通点もなければストーリー性もなく、バラバラのまま並んでいる絵葉書のようなものでしかなかった。しかし、満九歳になったあの年から時間が流れはじめて、生活は大きく変化する、というか、時間のリズムと、ぐるぐる回りながらイメージを汲み上げる水汲み水車のリズムに合わせて、いろいろな出来事が継続的に起こるようになった。( 中略 )あれ以来一度も止まらず、ぼくが死ぬまで回り続けるはずのメリー・ゴーランドにほかならなかった。

●写真 236
写真、より正確には人物を写した写真は、静止しているが、写真の静止した画像がすべて同じだというわけではない。中にはじっと動かず無表情なので、死んでいるように見える者もいれば、逆に静止しているのに命にあふれている者もいる。そういった写真に写っている人たちは、まるでそこから抜け出したがっていて、外側から誰かが手を差し伸べてくれるのを待っているように思われる。


―― 木村さん、あとがきから
●ジグソー・パズルスタイルで書かれた作品 254 
通常の小説形式を用いると、時代を設定し、中心的な人物を創造しなければならない。物語を時系列に沿って進行させ、人物の造型、性格づけといったことを行わなければならないが、そうすると、今度は町と人々の姿を描くことがきわめてむずかしくなってくる。つまり、一九五七年から一九六九年までのオリェーロスの町とそこに生きていた人たちの姿を全体として描こうとすれば、通常の小説形式ではどうしてもうまくいかない。
そこで、作者が考え出した仕掛けが写真なのである。一枚一枚の写真、あるいはそこからつむぎ出される物語の一つひとつが、言ってみればジグソー・パズルのピースになっている。




スケッチ ――

ページを開いてパッと目に入ったエピグラフのような「いまでは雪になっている母に」の挿句でもうダメだった。

おれが母の死に弱いからじゃない。なにせおれのかーちゃんは死んでない。死んでないっていうか妹よりおれより健脚でくたびれ知らず……呑みまくる酒も内臓にとってダメージにはならずタフ、「雪」どころか雨でも風でもなく、真夏の太陽もしくは真昼の月、それも満月 ―― 「肝臓なんていいかげんボロボロだろうね、わっはっは」って吠えながら毎晩酔っ払ってる(らしい! 伝え聞くところによると)。

「いまでは雪になっている母に」は白く刺さった。母親の死というドラマにくわえ、さきに読んだリャマサーレス『狼たちの月』の重要なモチーフである「雪」のイメージが甦り、痛ましく孤独で救いなく、つぎつぎに仲間が撃たれ流血しボロボロになりながら斃れていく悲惨な話でありながら美しい、汚れやよどみのない、ノイズや甘え、これみよがしな訴えのないストイックな物語 ―― 『狼たちの月』の「雪」が崩れ、雪崩、あっけなく飲み込まれた心が山肌を転げ落ちる。落下の速度と意識のなかで流れる涙の雫の落ちるのとが同時、それで母はどこにいたんだ? 隣で酔っ払ってるわけじゃないのに? 鑑みる間もなく落涙はつららになる ―― 逆さの角、透き通っていて冷たい棘、大地を狙う氷 ―― つららの先端からしたたるそれを露と呼ぼう、記憶の露。

(人間は語る、喋る。ときに小説を書くけれど、それって誰に対して?なぜ? どこに向けて? 記憶、過去、つながり ―― 言葉があるから書こうとする? 理由はいくつもあるだろうし人によって違ってて、おなじ人であれ時に因果は入り乱れるだろう)

あるかどうかわからない何枚もの写真、あったかどうかわからない出来事や事件、居たかどうかわからない人間達の生や死 ―― 作者は時の付いたスナップ写真を代わる代わる見つめながら回想していく、という体の『無声映画のシーン』の構成、その効き目と印象は木村榮一先生の解説に詳しい。

雪になっているとはどういうことなのか?
雪は溶けてしまう。溶けて終う。
その雪であるっていうのは?
死んで雪になる。
死んだだけじゃなく雪に変わり、そして溶けて消えるのか。
もういちど消えるっていうの?

『無声映画のシーン』を読んだ印象は長編と違い、それじゃ短篇集に通じるかというとそれとも異なり、連作や連句に近いかもしれない……ここからは箇条書きでいく。

 ・ある時代から時代までを断片で語り起こしていく(蘇生)
 ・断片、フラグメンツ、分割→シーン
 ・あるストーリーが展開する、というわけじゃないので長編と違う
 ・場所と時代、つうじる人物はあっても、その描写や語りが目的/動機じゃないっぽい
 ・ある歴史・場所・空間に同時に存在する人間や出来事を断片からあぶりだし、タペストリーにしていく映画『スモーク』とも違ってる。
 ・群像を描きたいんでもないっぽい
 ・対象は外になく、語り主の内面や自歴にあるっぽい
 ・記憶の主、保持者
 ・一人称的な小説、私小説っぽい
 ・しかし、リャマサーレスはこの作品を「フィクションだ」と断ったらしい
 ・この「フィクション」とは何を言ってる?
 ・過去の語りにつきまとう捏造・虚像・創作の属性と、はなっから作り話をやる場合のフィクショナルなモードと
 ・記憶や過去、意識や他者、体験や感覚を「言葉に興す/移す/喩える」ことへの危うさ、欺瞞、注意を意識している人は信用できる
 ・写真が一枚ずつめくられる=章立ての構成=無声映画を見る/体験する/立ち会う語り手の声はナレーション的なアングルだったっけ?
 ・無性映画のナレーション、写真のキャプション、過去と記憶を述べていく声、その鼓動や息遣いのバイブレーション

2016_07


●LINKS --- フリオ・リャマサーレス
『無声映画のシーン』
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-156.html

『黄色い雨』
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-157.html

『狼たちの月』
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-158.html


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