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ETV 日本人は何を考えてきたのか 第5回「東と西をつなぐ~内村鑑三と新渡戸稲造~」


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ざっくりしたまとめ
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ETV 1/5 0:15~(再放送)
日本人は何を考えてきたのか 
第5回「東と西をつなぐ~内村鑑三新渡戸稲造~」

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新渡戸と内村は札幌農学校(現・北海道大学)の同期。
新渡戸は総合成績一位。
英語だけは内村がずっと一位だった。

内村
「英語を学ぶことで日本を相対化した見方が出来るようになった」


●新渡戸
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1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日
日本の農学者・教育者・倫理哲学者。
国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。
日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
東京女子大学初代学長。



大学内のキリスト教布教に飛び込む。
(実家が貿易業?)
ナイフ、マッチ……
「西洋のものがあるなら、まず我が家に入った」

戊辰戦争に出征した親世代が
「悔しい。お前らは負けるな」と繰り返し聞かせた。


●内村
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1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)
日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。



大学でのキリスト教誓約をためらう。
父が儒教教育に熱心な人物だった。
(高校までに地元の神社、神道の各タブーを研究するなど、突き詰めるタイプ)
しかし、大学関係者の押しによって誓約に署名する。
(一度信仰すれば猛烈に勉強し、研究した)

23歳 農商務省に務める。
キリスト教の本質を知りたい
1884年(明治17)
省を辞めて渡米。
しかし希望を打ち砕ける。
たとえば街角ですりを見たときのこと。
「異教国と同じく、すりが居るぞ」

先天的な障害児を集めた施設でスタッフとして働く。
食事から生活、排泄まで。
クリスチャンとして「すべての子供は神の子」。
ジャップと蔑まれながら献身的に働いた。
しかし、身の回りの人たちは奉仕の一年で働いている。
「私は利己心によってここにいる……」
信仰と人生とのギャップに挟まれる。

留学。
ジュリアス・シーリー(学長)との出会い。
「こころのなかばかり見てはいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ己にしか関心を持たない。十字架の上から君を見る、イエスを仰ぎ見るんだ」
神と一対一で向き合う。他になにもいらない……
内村は心の平安を感じた。
律法ではなく、神への理想を見る。

~新渡戸
東京大学。
太平洋の橋になりたい。
アメリカのボルチモアへ。ジョージ・ホプキンス大学。歴史政治学。

自らの信仰をあらためようとキリスト教の教会を訪ねる。
「各派の教会に行ったが、装飾が立派過ぎて、新約全書にある宗教とは別物……」

ある日、まずしい建物を見つける。
そこはホームウッド集会所、クエーカー教徒の教会だった。
平等、質素、平和。
説教する演壇はない。賛美歌もない。指導者がいない。
信者は誰もが等しく、発言も自由にできる。
「すこぶる僕の気に入った」
愛妻とも出会った。
対立があろうとそこは人間だ、対話によって「相互理解」が成立するはずという信念。

1891 明治24年 札幌農学校の教授に迎えられた。
『武士道』をアメリカで出版。
「義、勇気、名誉」など日本の道徳を説いた。





~内村
『代表的日本人』という本を日本で出版(英語)。
西郷隆盛、二宮尊徳、日蓮など五人。
彼らの生涯を描きながら、正義や質素などの日本人の人生観、道徳観を説いた。





日本史の研究家(アメリカの教授)
「彼らは外を見て、文化や言語を学び、そういった経験や技術をもって、日本人を捉えなおし、外国へ発信した点に凄さがある」


キリスト教はアメリカで栄えたけれど、この国では末期症状。日本こそ本当のイエスキリストの考えが浸透し、本物のキリスト教が育つ土壌だ。
新渡戸と内村の共通した理念。


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内村の半生
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不敬事件』(※1)
第一高等中学校(現東京大学)で英語を教えていた。
倫理講堂。
教育勅語が教壇にあった。
内村だけが捧杯しなかった。
罷免される。

当時、教育スタッフにキリスト教が三人いた。
二人は欠席。内村は出席した。(彼らしい、と説明していた教授が話していた)
生徒のなかにも応じなかった人がいたが、彼は同僚に責められ、新聞にも「乱臣賊子、不忠の臣」と書き立てられる。

当時の観念 ――
天皇が国の主という国家のあり方。
「国体を教えなさい。教育は国家のためであって、人々のためじゃない」という教育観。

生活が困窮。
理想は粉みじんにされ、存在としても奈落に突き落とされた。
それも、愛していた国、育った国によって、その権力によって。
絶望する。
二度の自殺未遂も。

内村の看病をしていた奥さんが亡くなる。

「私はどうしてこうまで責められたのか。私の信仰が? 間違っていたのか?」

「目出度き結果」と自嘲する。

無教会」という新しい信仰の形態。
今井館聖書講堂(目黒区)
キリスト教を誨えつつ、新聞記事を取り上げて解説を行うなど、話す場所を作った。

1894 明治27年 日清戦争
内村はこれを「正義の戦争」と解釈し「義争」とした。
しかし戦争の犠牲になった人々や被害、日本が清から多額の賠償金をせしめたことなどがあり「海賊まがいの戦争に変じた」と書いた。
「戦争は殺人。すべての戦争に反対する。戦争絶対廃止論者である」
内村は「ジャーナリスト」としての存在感もあり、アクティブでタイムリーな話題についてアクチュアルに反応し、出版した。だから間違いも多々あったが、それについてはきっちり認め、また書いて発表した。
(勇気のある人。これは変節ではなく「実験(実人生の経験)をもってアップデートしていった結果」)
宗教者であり、キリスト教の言葉も盛り込む原稿だったが、観念に陥らず批判については対案も欠かさなかった。(科学的なパーソナリティが具わっていた)

明治37年(1904年)日露戦争
当時の国家予算、7年分の戦費を費やした。
5万5千人死亡。14万人負傷。
「これで僅かの自由も憲法も、煙となって消えてしまう。人は食料のかわりに硝煙を食い、鎌や鍬にかわってサーベルをかるだろう」

日本が帝国主義化を進める。
1910 明治43 韓国を併合。
(のち35年にわたって半島を支配する)

「日本のキリスト教徒のなかでも、朝鮮が日本になってよかったとする人間が多かったなか、内村は強制的な併合として批判、朝鮮人民にも同情的な眼差しを向けていたはず」(韓国の大学教授の話し)

『デンマルク国の話し』内村
「国の大なるも、決して誇るに足らない。外に広がろうとするんじゃなく、内を耕すべき」
個人の自由や浩平を重んじる国が先進国だ、というアジテーション。

小国論 ―― 文化と文化、文明と文明との仲立ちを主とすべき。これは小さな国にしか出来ない仕事。

「日本の自然が悪化している」という自然観もあった。
北大在籍時、鮭の生態を論文化し、山を保持しなければならないと結論付けている。生粋のナチュラリストであり、人類の外から人を見る死生観に貫かれている。
「エネルギーは光線にも、波にも、風にもあります。これをすべて用いれたら、エネルギーは無限です」

1925/6の日記
私が書いたデンマルク国が契機となって、韓国に1億60000万本の樹木が植えられることとなって、うれしく思う。

内村
「私を模倣してはならない。真似るなら、私の独立を模倣しなさい」
権力から独立した存在を重んじた。
「個人主義を重んじ、利己主義を排斥する」

―― スタジオに呼ばれてた教授
「内村さんには前世でもなく、来世でもなく、「後世」というくくりで時代を見て、先を読む資質があった」

昭和5年、69歳。内村が死去。


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新渡戸の半生
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台湾糖務局長(砂糖の入手)として赴任。
植民地主義を推し進めたという批判もある。
新渡戸は「植民は大事なこと」と考えた。
「遅れた文明をあたらしくすることが、ひいては植民地を豊かにすることにつながる」
しかし、と彼はいう。
「そこは日本ではない。国外の土地であるし、反感も受ける。何よりも植民の利益を重んじなければならない」

日本が国際連盟に加入。
日本は新渡戸を委員に任命した。
のち「国際連盟の星」と謳われるまでに活躍する。



当時、ばらばらだった各国の民間団体にアプローチし、
産業、貿易、州境、芸術、医療、乗馬、政治……活動の内容やメンバーによって、国境を越えたつながりに再編成した。
312の団体が書類に記載されている。
新渡戸は自分の脚で団体を回りカウンセリングした。
日本人・アジア人という存在が利いた。欧米に偏らなかった。

『知的協力委員会』
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戦争を回避するための会議を主催。
アインシュタイン、キュリー夫人などにオファー。
12人のメンバー。
第二次世界大戦後、ユネスコに引き継がれていく。

「ある人は、どうして戦争がやめられる? という。しかし、あったものは、起こさなくできる。奴隷制度や封建制度にしても、今日の国際国家にはなくなった」

帰国。

s6年 1931n 満州事変
軍部の暴走を政府も追従。

「松山事件」

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オフレコとして話したことが翌日の新聞に掲載。
「朝起きると暗い気持ちになる。わが国を滅ぼすのは共産党か軍閥。どちらが怖いか? いまでは軍閥と応えなければならない」
国中が新渡戸を「非国民」と糾弾、軍関係者も激怒し「自決を求める」という声明が出される。自宅前に爆発物が置かれたこともあったという。
新渡戸は謝罪に追い込まれる。

当時一緒に暮してた(12歳)、お孫さんのおばあさんのはなし
「それなら堂々と殺されよう、といって玄関に出ていってしまう人だった。お弟子が止めた。祖父はいつも祈りに支えられていた。わたしは書斎が好きだった。ある日、こっそり書斎に入ると、グランパはいない……のではなくて、ひっそり祈っていた。いちばん偉い人だと尊敬していた(つよい人だと思っていた)けど、あのグランパがこんなにも真剣に重々しく祈ってるんだと……」

新渡戸は夫人を伴なって、日本への偏見を収める活動を続ける。

s8年 1933 日本が国際連盟を脱退。

s8年 71歳。 カナダで客死。

恵泉学園(女子高)新渡戸の弟子が創始者
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「好奇心を出発点で他国を知り、理解し、いいところがわかるようになる。そのときには、少女たちの視野が広がって、いろんな国の人たちと手を繋ぎ、戦争をする関係はありえないと考えるに至る、そういう教育観をもって女子教育にあたった。家庭に入って子供たちに伝えてくれるだろうと。
婦人が世界の情勢を考えるようにならなければ戦争はなくならないだろう」

新渡戸
「夢こそ、きたるべき時代の魁 ―― 」

新渡戸と内村の弟子が、日本の近代教育の基礎を創った。
関係者の7、8割が二人の弟子だった。
たとえば東京大学の総長、矢内原忠雄はこういった。
「私は新渡戸を父、内村を母とし ―― 」

新渡戸稲造が最後に書いた言葉。
「ビューティフル」


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(※2)不敬事件
詳細は「内村鑑三不敬事件」を参照
1890年(明治23年)から、植村正久の一番町教会の長老木村駿吉の推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。

内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会
1891年(明治24年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっていたので、代わりに木下駿吉が行った。
しかし、マスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。内村は流感で病床にあり意識不明だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。
妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。2ヶ月の病臥の後に、妻かずは4月19日に死去した。
不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。 1892年1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。
1892年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。
千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。
1892年のクリスマスに京都の旧岡崎藩士の判事の岡田透の娘、内村静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。1893年になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。
この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。

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めめ
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内村鑑三 新渡戸稲造 札幌農学校 北海道大学 戊辰戦争 儒教教育 武士道 倫理哲学者 日本銀行券 肖像 不敬事件 教育勅語 罷免 無教会 知的協力委員会 アインシュタイン キュリー夫人 ユネスコ 小国論 デンマルク国の話し 国際連盟の星 松山事件




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