バガボンド和歌山

ARTICLE PAGE

日本人は何を考えてきたのか 第6回 「大正デモクラシーと中国・朝鮮」

------------------------
ざっくりまとめ
------------------------

ETV 2013/01/05 1:45~(再放送)
日本人は何を考えてきたのか 第6回
「大正デモクラシーと中国・朝鮮」
~姜 尚中が韓国に行く~

------------------------
吉野作造と石橋湛山
------------------------

日露戦争から第一次世界大戦を経て一等国になった日本。
大正デモクラシーから民族自決の流れへ。

「民本主義」の吉野作造
湛山は「小日本主義」を唱えた
「植民地を棄てろ」
戦後は中国との国交正常化に命をかけた

姜「日本が教えてこなかった、日本人であり日本の歴史。もうひとつの日本を知る旅」

 ―― 

吉野は植民地化される朝鮮と、どう向き合った?

吉野作造
明治11年、宮城県生まれ
帝国大学政治学の教授になる。

時代は大正デモクラシー
(日本が日露戦争を経て、満州、韓国を併合した。中国では孫文主導の辛亥革命)

吉野は民本主義を主張する。


民本主義「人民のための、人民による政治」

 ―― 

大正5年 民本主義の論文
明治憲法の枠内で民主化を求めた。

姜「吉野は植民地支配の目標について“植民の自治力を喚起し、作り上げること”とした」

 ―― 

韓国の優秀な学生が高い教育を求めて東京大学に来た。彼らが吉野と交流。
学生の一人が書いている。
「吉野先生はあたらしい思想(進歩的)と幅広い学識を持ち、韓国人にも公正に接するので人気が高い」
韓国の学生は「国がなくなった。苦悩していた」と省みた。

植民地となった韓国では寺内(総督)をはじめとした日本人による「武断統治」が行われる。
それまで植民地政策に賛同していた吉野は留学生の声を利き、韓国で実情を視察。
政策に疑問を呈するようになる。
「人民が虐げられている」
帰国後も韓国人留学と交流を続ける。

 ―― 

1914-1918 第一次世界大戦。
のちアメリカ大統領の署名で「民族自決(各民族に独立・自治権を)」をすすめる宣誓宣言が出される。
吉野が「朝鮮統治策」を提唱。

東京で2.8独立宣言

 ―― 

日本国内で韓国の独立を助けようという機運が高まる。これは吉野と交流していた留学生を中心にした集まりだった。

韓国で3.1独立宣言

運動は朝鮮全土に広がる。

日本政府は武力鎮圧に乗り出す。
死傷者も多数。

吉野は学生たちの声に耳を傾ける。
知識人と学生との集まりを主催する。

吉野「今度の暴動が起こってから、識者たちの態度が頑なで、自己反省がない。それがどれだけ外交的な失敗を招いたか……」

吉野はしたの三つを求める声明を新聞にだす。
・同化政策放棄
・朝鮮人の差別の撤廃
・言論の自由

騒乱に困惑した日本政府は鎮圧にやっき。
吉野の主張も一部認められる。

吉野の教え子、金雨英が新聞に書いた国家存在の理由
「実定的(法律的な観点)ではなく、倫理的な問題」

 ―― 

法律は日本が支配している状況。韓国には自治が認められず。
吉野は倫理観に根ざした韓国の主体性、独立の必要とその権利を訴えた。

大正12年 1923 関東大震災

 ―― 

朝鮮人が放火したなどと流言が飛び交い、おおくの朝鮮人が殺される。
「手に手に棒などを持って、殺してしまえ! となる。苦々しきこと、かぎりなし」
殺害された朝鮮人の数、政府調査が231人。
しかし吉野が調べた数値では2631人だった(政府圧力によって公表できず)。

満州事変
吉野「自衛権の発動とする政府見解には無理があるが、はじまってしまったものは仕方ない」

S8年 1933 55歳で吉野は亡くなる。


吉野はどういう人物だったのか?

韓国の大学教授
「二律背反、相互矛盾。帝国主義の時代、吉野はその限界は超えられなかった。しかし人間的な交流、朝鮮人に対する物心両面の支援は、あたたかいものだった。あの時代にまれだった。これらは相当貴重なことで、現代の日朝関係のベースになるのではないか」

久留米大学の日本人教授
「彼は「四海同朋主義」を言い、これは民族自立を認めるという立場だったが、植民地政策など国家間の政治や外交については、日本の帝国主義に依拠している」

京都大学の教授
「はじめ吉野は日本の帝国主義について「解放。向上。平和」を進める政策であると理解していた。しかしその後、戦争に対する意識が変化してくる。日本に来た留学生との交流のなかからも様々な刺激をうけ、考えが変わってくる」

東洋英和女子学院の教授
「「民族自決」にあらわれているように、国家観、民族観、政治や独立感における世界潮流の変化が、吉野の考えに影響を及ぼし、変化した。しかし、彼の曖昧な部分、民族自決をいっておきながら、日本の植民地主義は批判しないなどの矛盾は残る。この点については、より徹底的に「民族自決主義」を打ち出した石橋湛山とは違う」

「吉野と交流し、韓国独立を目指した学生や志士たちは、のちの韓国では「親日派」としてくくられ、植民地政策への協力者と批判された。私は、この批判は極端だと思っている。彼らにしても、本物の憂国のナショナリストだったはずです」


――――――――――――――――
石橋湛山
――――――――――――――――

植民地 ―― 満州、台湾、朝鮮を廃棄すべきと主張。

------------------------
幼少期~学生時代
------------------------
法主だった父の薫陶と寺での宗教的な生活。

明治17(1884) 麻布生まれ
父が日蓮宗の法主で、一歳の湛山を連れて山梨の寺にあがる。寺暮らしが始まる。

28年、湛山は中学生。山梨で暮らしている。
日清戦争の頃。
従軍した住職に手紙を書いた。
「生きて帰ってください」
反戦争が滲む手紙。
「醜国」という文字が見える。

中学時代、大島校長との出会い。
札幌農学校(現北海道大学)でクラーク(ボーイズビーアンビシャス)に教えられた人物が、大島校長だった。
彼の存在による開放的で自立的な校風。

石橋は早稲田大学の哲学科に進学。
ドイツ流が主流のとき、彼が学んだのはイギリスやフランスの自由主義の哲学だった。
 →プラグマティズム(日常生活と思想、哲学の連携や連動を模索し、実践する主義)
のち、経済学に傾倒。
スミスからミルまで。
原書で徹底的に学ぶ。

姜「ベースを徹底的に叩き込み、発展や応用していくというのは湛山のベーシック、基本的な姿勢だったのではないか。その萌芽がすでに学生時代に見て取れる」

東洋経済新聞に入社。
主幹だった人物の「小日本主義」哲学を租借することでパーソナリティが形成された。


――――――――――――――――
 ―― 東洋経済新聞が提唱した「小日本主義」とは、経済合理主義であり、平和関係、および互恵的発展論だった。
――――――――――――――――


1914 第一次世界大戦

大正4年 1915
日本がチンタオを奪取

石橋は「鉄や石はある。人間が足らない」といって植民地主義を一蹴した。
「人間を育ててよい物を作る。そして、作った物を貿易によって送り出すことを経済の根幹とすべき。よって戦争や摩擦がさけられない植民地支配や戦争は放棄、平和をベースにした自由経済を目指さなくてはならない。さらには、ここには国の小ささが有利に働く。小回りが利いてひとまとまりになりやすく、スピーディに動けるのだ。 
大日本主義は長く継続できない。資金が尽き、敵が増えることは明白。もしいつまでも大日本主義をやっていたら、回りは敵だらけだ。アジア諸国から憎しみを受け、後戻りできなくなっているときに後悔しても遅い ―― 」

石橋は東洋経済新聞の主幹になる。
だが、時代は皇国、国威掲揚と戦争へと突き進む。

昭和12 1937 中国と全面戦争
昭和16 1941 太平洋戦争開戦
次男和彦が太平洋で戦死、25歳だった。

言論封殺の風潮だけでなく、物質的にも紙の配給が少なくなり、出版が苦しくなる。
拠点を東北に移し、書いた。

石橋も身の危険があり、当局の圧力や発禁などにも晒される。戦局が厳しくなるにつれ、表立った発言は出来なくなるものの、行間には戦争反対、植民地主義への批判が滲んだ。


昭和20(1945) 8.15 敗戦。
------------------------
石橋は翌日に社説をしたためた。
「日本が進むべきは平和。いまは手をこまねいている時ではない。領土を失い、設備も乏しく、回復にも時間がかかるだろう。しかし悪しきものは潰えた。今後、いかなる悪条件の下にあろうと、更正日本の前途は洋々である。ここに祝辞を記す ―― 」

 ―― 

●私擬憲法
(識者だけではなく、さまざまな立場から起こされた憲法の草案。たくさん出版された)

・憲法についての血脈
吉野作造~植木枝盛(えもり)(日本の主権は日本国にあり、日本国に住む人民が保有すると書いた)~GHQに憲法草案を持っていった憲法学者の鈴木安蔵(植木につよい影響を受けた人物)

姜「国家を考え、その存在を規定する憲法に熱いものを篭めようとした人たちのホットなラインが見える」

吉田内閣、石橋は大蔵大臣。

昭和25 1950 朝鮮戦争

昭和31年 通産大臣を経て、岸信介を破り、自民党総裁=首相となる。
「日中関係の再構築は、東洋の安定および世界平和へとつながる。アメリカのいうとおりではいけないし、アメリカも自分の言い分を日本に押し付けるようでは困る」

記者時代からの持論をベースに自主外交、積極経済政策を掲げた。
国交がなかった中国との貿易を国民に訴えた。

昭和32年(1957) 脳梗塞。
65日で内閣が解散。
親米派の岸が総理大臣になり、中国が反発する政策を打ち出す。

体調が回復した石橋は中国との関係回復に命をかける。
「日米共同声明は中国を矛先にしている。中国としては不満だし、不安だ」
「アメリカは中国の共産主義が不気味だという。言い争いをしても仕方が無いのではないか? 我々は冷戦の氷塊を解凍していくことにあると考えている」

石橋はアメリカ主導でもなく、共産主義でもない第3原理を模索していた。

女子大教授
「(戦後)変節した人間が多い中、政治家になっても信念を貫いた連続性が彼のパーソナリティを証明している。しかし冷戦時代になり、彼の実践哲学が崩れてしまった。なんの有益もない、無駄で馬鹿馬鹿しい対立構造・米ソの硬直/対立関係が動かしがたいものとして地上を分断した。どちらに与するも、いっさいの発展が無い。平和ではない。石橋はここで一度挫折したが、のち「日中米ソ平和同盟」の提唱へと発展していく」

「日米安保についても、湛山はもっと日本のあり方を、選択肢を広げようとしたんじゃないか。吉野と石橋のあり方からは、日本および日本国民への愛を通じて、アジア全般への立ち位置の等しい関係性への想像力が感じられる。この点についても、いま彼らを見つめ、再評評価する意義がある」

「東西和合 世界 一家 春 ―― 」
(石橋が書いた書の文句)

日中国交正常化の一年後、88歳で亡くなる。


関連記事
スポンサーサイト
大正デモクラシー吉野作造石橋湛山姜尚中民本主義孫文辛亥革命

Comments 0

Leave a reply