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闇の中から来た女/ハメット 船戸与一・訳(1933/1991)



闇の中から来た女/ハメット 船戸与一・訳(1933/1991)

●冒頭(導入、兆し、象徴のパート) 19
第一章 飛ぶ女

右の足首がいきなり捻れ、そのままそこに倒れこんだ。風がやけに強かった。南のほうから丘の斜面を吹きおりてくる突風が鞭打つように道端の樹々の梢を震わせる。思わず叫び顫わせる。思わず叫び声が喉を押し開けた。風がスカーフをむしり取り、薄暗がりのなかにさらっていった。石ころだらけの道に両手をついて、ゆっくりと上半身を起こしにかかり、体をひねってそのしたで勝手に曲がっている右脚をそっと伸ばしてみた。

●運命の火炎に正面から照らされ、性根(ナイフ)で煤(災い)をこそげ落とす男
暖炉の炎に照らされてるその男は椅子から立とうともしなかった。ナイフの刃先でブライア・パイプの内側にこびりついている煤をこそげ落としつづけた。 23

●主人公の告白 ―― 小市民は無視されるか、虐げられていた 80
「わかってないんだ、あんたにはわかりはしないさ」ブラジルは抑揚のない声でそう言ってくるりと背を向けた。その体が機械じかけの人形みたいな足取りで玄関に向かっていった。「このまえブタ箱にぶちこまれたときだってそうだった。酒場で酔っ払い同士の乱闘になったんだよ。瓶だの何だのを振りまわす騒ぎになったあげく、男がひとり死んだ。だれも寄ってたかってこのおれに罪をなすりつけた。おれの言いぶんなんてまるで聞いちゃもらえなかったんだよ」

●主人公とヒロインの逃走/闘争 ―― 一蓮托生の西洋と米国 82
「ブタ箱で臭い飯を食うのはもうまっぴらだ! ここをでよう。今晩、ここにいたら、おれは完全に狂っちまう」
「そうね、ふたりで逃げましょう」
「あんたのコートがいるな」
「靴のヒールを折ってくれる?」



・「あんたのコートがいるな」
ヒロインのルイーズは冒頭にあるように暗がりで転び、服がボロボロ。しかもフォーマルな装い(この衣装と衣装の破れは、彼女が象徴するヨーロッパの現状を知らせる)。
服を借りなきゃならないということで、主人公は友人の家を訪れ、そこを舞台に第2章が大きく動く。次章への導入、エネルギーになっている。

・「靴のヒールを折ってくれる?」
かかとの高いヒールじゃ逃げられない→女、見栄、富など、ハイヒールが象徴するものとの決別が宣言される一言。ブラジルの乾いた声にシンクロし、ハードボイルド感を高める効果。ただ、ルイーズは自分で折らない。ヒールをブラジルに渡し(たのか、声だけでリクエストしたか)、折らせる。背後にある主従関係。女であり、西洋であり、傷ついており、美しいルイーズは、ブラジルに「ヒールを折って」と依頼できる立場。優位性。孤高で自律性に富み、暴力もいとわない男性を主に据えながら、ヒロインがさらに上位に坐る(ハードな男性が自らマリアを拝する)という構図・関係性もハードボイルドの特徴。


●「第二章 追われるふたり」の冒頭 83

眼を開けたときにはもう夜が明けていた。
フロントガラスや風よけに打ちつけていた雨はすでに熄み、ワイパーも止まってる。ルイーズはそのままの姿勢で運転席に視線を向けた。ブラジルは浅くゆったりそこに座っていた。右手をステアリングにかけ、膝においた左手の指には煙草が挟まれてる。血の気の少ない顔は穏やかで疲れも感じさせなかった。眼はしっかりと道路の前方を見据えてる。



第一章の冒頭は暗闇における女性の転倒であり、そこからアメリカの片田舎で煮え湯を飲まされているムショ帰りの男性との出会いと事件の発生、コンビ結成までが描かれた。
第二章の幕開けは「夜明け」だ。
雨は熄み、ワイパーも止め、穏やかで直線的にすすむ車の中で、ルイーズは姿勢正しく前方を向いている。
第一章と第二章のコントラスト。物語は転調し、ふたりの攻勢がはじまりそうな予感、疾走感を湛える、ストーリーの出足。
ただ、そんな軽快な幕開けからわずか2ページ先に、こんなシーンが挿される。


●兆し 85
「何がどうなるのかわかるまで、どっかに身を潜めていようと思う」
「気分がよくなったみたいね、あなたも」
「あのときはどうかしてたんだ」
ルイーズは照れたような笑いを見せるブラジルの手の甲をやさしく叩いた。しばらくはどちらも無言だった。フロントガラスの向こうの道路はくねくねと蛇行してる。ルーズはそのアスファルトを眺めながら訊いた。
「さっき言ってたお友だちのところへ行くの?」
「そのつもりだ」
このとき制服警官ふたりを乗せた黒っぽいクーペが前方に現れた。それがすれちがった。ルイーズは思わずブラジルに眼を向けた。



快調だった道行に警官を乗せた車が現れる。このシーンでは関わりなくすれ違って終わるが車の色は黒だし、それは不吉さの塊だ。白い未来のキャンパスに怖気を感じさせる黒点が沁み、読んでいても消えない。
それからもう一つ、ルイーズが見つめる道路、これが「くねくねと蛇行」している。ここには彼女の不安だけでなく、困難な道行きが暗示されている。
チャンドラーの文体は簡潔だけれど情報量は膨大だ。
『マルタの鷹』のような傑作に比べたら、この作品は文体のパワーや構成の妙、テーマを書き上げる凄みが物足りないが、それでも、ちょっとした仕草や描写に核心や背景を託す、チャンドラー一流の技術が盛り込まれていて飽きない。


●映画『イージー・ライダー』のイントロ・予言みたいなセリフ 86
「おれはね、こうやって外にいるとべつにどうってことないんだよ。壁に囲まれてるとおかしくなるけど」



飛び出せた人間、飛び出そうとした人間、飛び出せなかった人間 ―― この本を『イージー・ライダー』やケルアック『路上』と平行して読むのも面白いかも。
また、どこかロードムービーっぽさがあるのは、全三章の冒頭がおしなべて道・道路・路上を舞台にしている効果だろう。
道 ―― アメリカ人のヨーロッパに対する憧れが根底にあるのか、つまり白人種として「地続きであるように」という願望がトレースされているのか。あるいは、アメリカとヨーロッパの接続に挫折するだとか、主人公の願望が道半ばで頓挫したり、男女・貧富・上下のような関係性、その深い亀裂や断絶といったアメリカ社会の諸現実を、小説内によりクリアに描きだすため、チャンドラーは「道」を多用したのか?
もちろん道は命運や定め、宿命を象徴する。章の冒頭を書いているとき、自然と浮かんできたという事実もあるだろう。
第三章の書き出しはこうだ。


●「第三章 笑う女」の冒頭 143
ダッシュボードの時計の針は九時近くを指していた。あたりは真っ暗だった。ヘッドライトが照らしだすアスファルトの路面しか見えない。ルイーズはそうやって青いセダンで運ばれていた。



爽快に車を走らせるカップルはもういない。ヒロインはヒーローから剥がれ、別たれ、ふたたび暗中にある。自分を買ったアメリカ人の金持ち・権力者のもとに連れ戻されている最中だ。それも警察のような社会権力の車に、だ。この皮肉、いやリアリズム。











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