和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

黒髪ボブの三十路ピーターパンがWakayamaライフを着流しでスケッチ

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リトアニア関連のメモ

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リトアニア原翔(2007年初版)
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●自然
リトアニアに五つある国立公園の一つであるジェマティヤ国立公園を抜けるその道は樅の樹の林だった。
リトアニアがドイツの征服をまぬがれたのはリトアニアの森が深かったからだといわれている。 52


リトアニア批判
あるカフェの会話 ――
リトアニア人は市場経済が分かっていない。自由競争はお互いが切磋琢磨していくものなのに、彼らは潰し合いをやっている感じだ。リトアニアの工場や研究機関は老朽化している。労働者の質も決して良いとはいえない。食品もEUの品質規格に合わないものが多い。リトアニアは総じて誇りが高いから忠告してもなかなか聞き入れない。ソ連崩壊を早めたのは彼らの働きと自負心があるから、西側が彼らを援助するのは当然だと考えている。一九九六年一〇月までは共産党の政府だったが、それが経済的に遅れた理由だ。エストニアの民営化は四年も先行しているのに」が彼()の発言の主なところだった。 82

「リトアニアは変化したのか」
「変化は遅い。民営化は遅れている。共産党が実権を握っているから改革は進まない」
「リトアニアはバルト三国で最も閉鎖的だ。外国人に猜疑心をもっている。西側の国というものが分かっていない。大公国のときの記憶があっていまでも大国主義だ。リトアニアの大統領が訪米しようとしたとき、クリントンに時間がなくて、代わりの人が会うと返事をしたら、それなら行かないと言ったそうだ。西側が外交面や経済面で援助しているということが分かっていない。えらく無頓着で尊大な態度だ。大国と対応に向き合い威厳をもって折衝するのをリトアニア人は正しいことをしていると考えるんだ」 83


●リトアニアの原発事情 84
「小さい国にしては大企業があるでしょう。例えばイグナリナ原発とか。北東ヨーロッパに電力供給をするとか聞いたけど、需要に比して設備能力が大きすぎて困っているのではないかな」と私は質問する。

旧ソ連のコメコン分業体制は一か所での大量生産が常識だった。ハンガリーのイカルスのバス製造などはその代表例である。旧ソ連での先進地域であるバルト三国には大型工場が多く設置されていた。この原発もその一つでロシアの北西部への電力供給が目的で建設されている。
ソ連崩壊でその計画は変わり、いまはラトヴィア、ベラルーシ、カリーニングラードに送電しているだけと聞いた。

「リトアニアはポーランドへの供給を考えているが、まだ計画段階だ」と一人が言う。
「いや、ポーランドはいらないみたいだ。ヨーロッパはイグナリナを閉鎖したいんだ。ソ連型の原発は危険だから」と他の一人が言う。

これは後で調べたことだが、イグナリナはヴィリニュスの北一三〇キロのラトヴィアとベラルーシの近くにある発電所で、一九八三年と一九八七年に建設された二基の原発があって、その能力は一二二億六〇〇〇万kwhで、リトアニアの発電量の八〇パーセントを占める大設備である。核燃料はロシアから提供され、リトアニアはその対価としてカリーニングラードに送電している。そんな状況にあるから、経営状態は決して正常のものとはいえない。


●リトアニアとアメリカ 84
話題は次々と変わっていく。私は「観光客はどこからの人が多いか」と質問する。「アメリカ人が一番多い。だからだろう、リトアニアの若い人はアメリカの影響を強く受けている。リトアニアはヨーロッパにでなく、一挙にアメリカになってしまうかもしれない」とノルウェー人が答えた。
「マクドナルドなんか、大変な人気だからな。ヴィリニュスの店は開店した最初の二週間で一〇万人が集ったそうだ」


●一九三九年八月頃の東欧情勢  87
この時期、ドイツは東方に勢力圏を拡げようとしていた。安泰を図るポーランドはそうしたドイツと一九三九年四月に不可侵条約を結ぶ。しかし、ドイツはその四月に締結したばかりのポーランドとの不可侵条約を突然に破棄し、いがみ合いを続けていたソ連と八月二三日に不可侵条約を締結する。杉浦(千畝/日本のシンドラー。ユダヤ人にビザを発給した)さん赴任の五日前のことである。このドイツとソ連の不可侵条約には秘密議定書が付されていて、「ポーランド西部をドイツの勢力圏、東部をソ連の勢力圏とする」ことが定められていた。秘密裡でのポーランド分割である。
そして、杉浦さんが赴任して九日後の九月一日未明に、ドイツ軍は突然にポーランド国境を突破して電撃作戦を開始した。
九月二日にはワルシャワは四回の空襲を受け、三日にイギリスとフランスがドイツに宣戦を布告して第二次大戦が始まった。八日にワルシャワはドイツ軍に包囲され、ポーランド政府はルブリンに非難し、ポーランド軍はリトアニアやベラルーシへと退却していく。ドイツに遅れること一六日の九月十七日から東からソ連軍がポーランド領内のウクライナ人やベラルーシ人の保護を名目に侵入 ―― 九月二十七日にドイツ軍がワルシャワを占領。一七五万人の軍隊が壊滅したポーランドは降伏する。

九月二十八日にドイツとソ連はポーランド分割の協定を改定して、ポーランドでのドイツの領土を広げるのと引き換えに、ソ連がリトアニア全土を獲得する約束がなされた。ソ連は一〇月一〇日にリトアニアと相互援助条約を締結し、ヴィリニュスにリトアニアの主権を認めると宣言した。

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1939 八月二三日、独ソ不可侵条約がスターリン政権とヒトラー政権の間で締結。
スターリンとヒトラーの秘密取引。
モロトフ=リッペントロップ秘密議定書が結ばれ、二つの超強大国が一八世紀末と同じ手口でバルト三国とポーランドを分割した。
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●カウナスでのユダヤ人虐殺
カウナスでユダヤ人虐殺がおこなわれるようになったのは杉原さんが去って九か月後の一九四一年六月二五日からである。この虐殺はドイツ軍が侵攻してくる直前に始まっている。ラトヴィアでと同様にユダヤ人を嫌う現地人、ここではリトアニア人の手によってである。 98


●リトアニアとポーランド 154
他民族が共生する地域での民族間の感情はかなり複雑なようである。特にリトアニア人が最もこだわりをもつのが歴史的関係の最も深いポーランド人であるようだ。「ポーランド人は好きか」と質問すると「好きじゃない」と返事する人や「嫌いだ」と言い切る人はかなりいる。いずれにしても、「好きだ」と答える人は少ないようなのだ。
(1950年代以降の歴史もあり)一九二〇年一〇月九日にポーランド軍のルツィアン・ジェリゴフスキ将軍にヴィリニュスを占領された記憶が大きいのだ。ポーランドは一九二二年二月二〇日にはリトアニア併合を決議して、三月二十四日にポーランド国会はこれを批准した。リトアニアはポーランドと国交を断絶し、ポーランドは一九三九年までヴィリニュスの占拠を続けたのだ。ポーランドはその間の一九二五年にはローマ教皇に働きかけてヴィリニュス大聖堂をポーランドの教会組織に編入したりした。さらにポーランドはドイツがオーストリアを併合したときにリトアニア全土の併合をもくろんだりしたのだ。 153

一方、ポーランド人はリトアニア人とはまったく違った気持ちをリトアニアに対しておもっているようだ。ポーランド人はリトアニアの土地を「故郷」とみているという。リトアニアは長い間ポーランドの一部だった。そこでのポーランド人はリトアニア人と一体化していた。
十九世紀前半にはポーランド文化の中心地でもあった。多くのポーランドの知識人がヴィリニュス大学を卒業している。



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メカスの友人日記/ジョナス・メカス編 木下哲夫
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●チャーミング
(心臓の鼓動は)一、二、三、じゃなかったっけ? ( 中略 )そうか……自分の心臓がどう打つかなんてことは誰でも知っているとは限らないね……わたしの心臓はおかしいのかもしれない。これはワルツのリズムだな。 29


●映画への思い
わたしの隣に坐っていた人があの映画について厭味なことを言ったんだ。だからわたしは「白いスクリーンが気に入らないのかい?」と言ってやったら「あれ、映画というものはうごきじゃないの。映画はうごきだろう」ときた。もう何かいうのはよしたよ。救いがたいね。
今日はちょうどジャック・スミスの上映会を終えてきたところなんだが、ジャックは『ノー・プレジデント』を上映すると予告したんだ。前にもこの映画は何回かみせたことがあるけれども、その度にジャックは手を加えている。二度と同じものを上映することはない。さて、二〇〇人かそこらの人が坐っているところにジャックがやってきた。いつもの通りひどい遅刻だ。映写室に入ったことは入ったけれど、そこでもまだフィルムを繋いでいる。そしてやっと映画が始まる。ところが二〇〇人の観客は誰もが前回にみたのと寸分違わないものをみたがるんだ。しかしジャックの方は単に再編集したというだけではなくて、映写中も編集作業を続けている( 中略 )すると誰かが怒って立ち上がり、こんなふうに叫びはじめた。「前にみた時はすごくいい映画だったのに、いったいあの男は何をしているんだ。どうして傑作をブチ壊しにしなきゃならないんだ」。「失礼!」わたしはその男に向かって叫んだよ。「ジャック・スミスのような偉大なアーチストがここまで編集にやって来てきみたちのためにここで映画を作るなんてことは毎日起こることではないよ。幸運だと思わないのかい?」ところが男はキーキー鳴き続ける( 中略 )ジャックはその場で、二階の映写室でまったく夢中になって編集にかかりきりなんだ。観客のためにもっとよい映画にしようとして。本当に素晴らしい映画だったんだよ。 62


●子ども、未来
日記から 一九六六年五月七日
……子供時代に戻ろうとして努力を続けている……農場に……時々手が届く……過去に……
しかし真の目標は未来のはるか彼方にある。過去から解き放たれて。まだわたしを縛りつける。心情。心理。
ヨーコが言う。「日本の星占いによれば、あなたはわたしたちの中で誰より若い。あなたのことはしっかり面倒見てあげなくてはね」(ジョナス・メカス) 87 ●2


●夢
一九七一年九月一二日
親愛なるヨーコ・オノ、
金曜の晩、夢を見た。彫刻を作っている夢だ。彫刻は透明なガラスでできたわたし自身の等身大の姿で、とても薄いガラス製なので中は空洞になっている。内部は水で充たされ、そこには小さな金魚が何匹も泳いでいる。そこらじゅう金魚が泳いでいる。彫刻の頭にも、爪先にも、腹にも小指にも、どこを見ても金魚がいる。わたしはこの人物を見た、夢の中で、小さな金魚でいっぱいになって部屋に立つわたし自身のガラスの彫刻を見た。そして目覚めが訪れる。半ば夢うつつのまま、どうしてあんな彫刻をつくることができたのか思案した。どこから手をつけたらよいのか、どうしたらよいのか、わたしが知るはずもなかった。それからしばらくして、土曜日にきみの手紙が届いた。水の彫刻を出品しないかという誘いの手紙だ。偶然の一致にしても不思議な話だと考えた。きみの手紙の着く前の晩にこんな夢を見るなんて。夢に見たガラスと金魚の彫刻は決して現実のものになるなんてことはないだろうから、どのような夢だったかをこうして書きとめてきみに送ることにした。好きなように使ってもらってかまわない。
展覧会の成功を祈る ――
ジョナス・メカス 91


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●ジョージ・マチューナスとの思い出 ~子宮の中の胎児
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「些事の達人」 100
―― 手紙、楽譜、ニュース・レター
ジョージ・マチューナス
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一九四六年当時、わたしはリトアニア移民の青年詩人仲間三人とともにヴィースバーデンとカルーセルで『ズヴィルグシニアイ』という前衛的な小冊子を出版していた。売れるのは一〇冊あまりにすぎなかったが、もちろんわたしたちは世界を揺るがすつもりでいたのである。一六歳のマチューナスはこの小冊子の数少ない愛読者で、難民仲間の中でも風変わりな若者として知られていた。
時間的、空間的、心理的な距離が二人の間に生じたことも珍しくなかった。しかし、それは兄弟の間の距離であった。二人きりになると、わたしたちはフルクサスについて、リトアニアについて、そして映画について議論をたたかわせた。誰かがそこに割りこんで反論でもしようものなら、わたしたちは団結して強力な論陣を張った。一九六〇年頃のこと、わたしと弟が一文無しの窮状にあえいでいたとき、ジョージは最高級の輸入缶詰を数限りなくわたしたちに与えてくれた(高級輸入食料品店を開く予定だと偽って、サンプルとして送らせたのである)。そして後にジョージが住むところに困ったとき、わたしはウースター街八〇番地の地下を提供した。ジョージは最後の一〇年間、そこを拠点として家賃に頭を悩ませることなく活動に励んだのである。 101


・センス/ナンセンス1
『ナムジュン・パイクのための12のピアノ曲』
ジョージ・マチューナス作曲 1962年1月2日 
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第1曲 ピアノをステージ上に運びこませる  
第2曲 ピアノを調律する  
第3曲 オレンジの絵の具でピアノに模様を描く  
第4曲 鍵盤いっぱいの長さの棒を使って鍵盤すべてを一度に鳴らす  
第5曲 犬か猫(あるいは両方)をピアノの中に入れ、ショパンを弾く  
第6曲 調律用ねじ巻きで高い方から3本の弦を切れるまで巻き上げる  
第7曲 ピアノをピアノの上にのせる(一方は小さくてもよい)  
第8曲 ピアノを逆さまにして、共鳴箱の上に花を活けた花瓶を置く  
第9曲 聴衆に見えるようにしてピアノの絵を描く  
第10曲 『ピアノ曲10番』と書いて、それを聴衆に見せる  
第11曲 ピアノを洗い、ワックスをかけて磨き上げる  
第12曲 ピアノをステージの外に運び出させる 112


・センス/ナンセンス2
『無伴奏風船曲』(風船のための独奏曲) J.P.ウィルヘルムのために 
ジョージ・マチューナス作曲 1962年1月3日 
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風船をふくらませる 
風船か空気をゆっくり抜く 
手早く 
充分にふくらませた風船を両手で擦る 
手で風船を殴る 
ピンで風船に穴を開ける 112
●2


「十年後」 ―― 日記から 143
ジョナス・メカス
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一九七七年四月一六日
ジョージ、とるに足らないものに憑かれた男。
とるに足らないもの、儚いものとは、偉大なる芸術、権威としての芸術の対極に位置するものだ。少なくともジョージ自身の言葉や考えにしたがえばそういうことになる。ジョージがこうしたものにとり憑かれるようになったのは、戦争、ひいては難民としての体験のせいなのだろうか。とるに足らないもの、些細な事柄、人の目にも止まらないようなもの、押しつけがましさの少しもないもの。そうしたものに、ジョージは詩魂を求める。
これはつまり、徹底した幻滅を味わった男の、この地上には地理的にも肉体的にも確かに自分の血と呼べるものはないという事実を諦観とともに受け入れた男の選んだ姿勢なのだろう。
●2

・闘病1
一九七七年一一月一七日
(ジョージは)とても幸せそうだった。何が起ころうと、だいたいいつでも幸せそうな人間ではあるけれど。しかし医者の処方で、毎日モルヒネをのんでいると言う。苦痛に堪えられないう。胃の痛み。これで四ヶ月こんな調子が続いている。他にどうしようもない。すべて試してみた。
●2

・ナンセンス/センス3
日付なし
ジョージにとっては、ものごとの仕組みに工夫を凝らすことによってのみ世の中に対する人々の姿勢を変えることが可能であり、それゆえに有効性がある。すべては脆く、優しくなければならない。かれの「遊戯」や、組織には優しく接しなければならない。ジョージの作った組織の中で暮し、かれの遊戯に参加しようと思うのなら、普通の人間の野蛮で獣じみた、鈍重なふるまい(ジョージはこれを「象」のようなと呼ぶ)をやめる必要がある。もしジョージの組織に溶けこんで遊戯に加われるなら、その程度にまで自分を変えることができるのなら、その分だけ人に対して優しくなれる。 146


・闘病2
一九七八年二月三日
ジョージは言う、もう何も喉を通らない、痛みは堪えがたいと。

・闘病3
一九七八年二月四日
アルマスがリトアニアのパンを持ってやってきた。ジョージに電話して、パンを持って行こうかたずねたそうだ。ジョージはこのパンが大好物だった。ジョージは来ないでいいと応えたという。「食べられないんだ、もうパンを消化する力もない」と言ったという。そう聞いてわたしたちは皆すっかり意気消沈してしまった。可哀そうなジョージ。リトアニアのパンも食べられないようでは、本当に具合が悪いに違いない。アルマスはジョージと結婚についても話したらしい。なぜ今になって結婚する気になったのかとたずねたところ、「生きたいんだ、ほかにはなにも残っていない」という答えが返ってきたという。

・結婚、死、永遠の友
一九七八年二月一一日
ジョージから電話があった。今日、結婚したという。
ジョージはとうとう生と死の完璧な婚姻をなしとげようとしているように思える。そう言っていいだろう。忍び寄る死に気づくことと、死を受け入れることの間には大きな距離がある。しかしジョージはこれまでも死を背負った生を受けいれてきた(※「いれ」は漢字ではなくひらがな)。それこそフラクサスの精神の極致と呼ぶべきだろう。ジョージにとって、死は一生の友でもあった。今ではまったくの薬漬け、コルチゾン漬けなので、虫も刺さないとジョージは言う。刺した虫はその場で即死だそうだ。すでに一九六〇年に、医者はジョージに後二、三ヶ月の命だと宣言した。ところがどっこいジョージはこれまで生きながらえて、アートを続けている。
ジョージのアートは、かれの命が元手だった。 148

・寓話めいたエピソード
一九七八年三月一日
ふたりで地下鉄の方に向かって歩いていた。わたしは袋をぶら下げていた。ジョージははじめ嫌がったが、やがて諦めた、とても自分では持てない、そう言った。
「この次に生まれ変わる時には、何になるのかとても興味があるんだ」とジョージが言いだした。「ぼくは輪廻を信じているからね」。わたしはこう答えた。「何か合図をおくっておくれよ。サインでもいい。ドブチェンコの『大地』の中の老人みたいに……」
切符売り場にたどり着いた時に、電車がホームにはいってきた。
「駆け込むのは馬鹿げてるな」とジョージが言うので、ゆっくり行くことにした。

・闘病4
スローン・ケタリング病院から戻ってきたジョージは(ホリスの話しでは)ひどく力を落とした様子で、疲れ切っており、気分も沈んでいるようだった。診察の結果が期待とはまるで違っていたのだ。「うまくいっても六ヶ月の命だと言われた。それ以上は無理らしい。手術もしてくれない、無理だとさ。癌が方々に転移してしまっているからね」。今や残された六ヶ月をいかに過ごすのが最良か決断を迫られている、と言う。
一時間後、ジョージは立ち直った。わたしが帰宅したときには、上機嫌に戻り食欲旺盛で、気分もずっと良くなったと話していた。

・理想主義
一九七八年三月一一日
理想家というものがこの世に存在するとするなら、それは誰をおいてもジョージのはずだ。そして完璧な理想家にはつきものの大いなる欠陥が、ジョージにもある。ファナティックになりがちなことだ。ファナティックな理想主義(トロツキー、レーニン、スターリンを経験したわたしたちはよく知っていることだが)には、非人間的な要素、反ヒューマニズムが内包されている。かれなりの理想家としての思いをとげるために、百万単位で無垢の血が流れようと、決めたことはけっして忘れない。理想主義といっても現実との関わりが薄く抽象的で、機械的な面、幼稚な側面も持っている。ほんの少しでも曲げようとすれば、折れてしまう。ジョージはけっして自説を曲げようとはしない。 152

・遺言
日付なし
死んだあとは、三十八曲のモンテヴェルディの喪われたオペラを聴くのを本当に楽しみにしているとジョージは言う。そのためだけでも、死ぬ甲斐がある。作曲家ではモンテヴェルディが好きだ。
ジョージは底無しの食欲について話していた。今でも、これほどの病に冒されても、ジョージは依然として大飯喰らいだ。結婚式(わたしとホリスの)のあいだ、ジョージはフランシーヌ・キーリーの隣に坐ることにしたが、それはかのじょ(※ひらがな)が食欲旺盛だと見抜いたからなのだそうだ。いつもよりたくさん食べたいと思ったら、よく食べる人の隣に坐るに限るとジョージは言う。
遺言の中に、遺骨の灰はジョージ本人を型取った彫刻に納めるように指示しようかと思うと言う。通夜の折に、友人一同がその彫刻を中にして、輪になって坐ったらおかしい、そう考えたらしい。
広々とした場所、野原などに弱い質なのだという。草の葉を濡らす雨露を夢みることがある、と言っていた。

・死について1
一九七八年三月一五日
そしてシーモアのこともある。死の三日前だった、死を目前にしていると知りながら、その瞬間が今にも訪れるかもしれないと充分に承知しながら、新聞の切り抜きのゼロックス・コピーをとっていた。準備中だった膨大なD・W・グリフィスの伝記の材料にするために……
あの時、ゼロックスの機械の傍らに腰を下ろして休みながら、かれは何を考えていたのだろうか。「どうも腰を下ろさなくちゃいかんようだね」と言うかれに、わたしは「家に帰った方がいいと思うよ。とても具合が悪そうだから」と言った。シーモアは黙って床を見つめていた。その時は、癌だとは知らなかった。

わたしにはまだ経験がない、死を間近にするという経験が。死はいつでもわたしのまわりを巡りながら、わたしには手を伸ばしてこなかった。だからわたしは死をじかに体験したことがない。父の時は、死後五、六年経ってから知った。兄のポヴィラスは遠い土地で死んだ。届いた手紙に同封されてあった写真は埋葬の儀式を撮ったもので、時間的にも地理的にも距離があった。
あの時ジョージは何を考えていたのだろう。州北部の田舎の雪を踏みながら、心の奥底に眼を向けはかり知れない深みを見めつつ(※つ、なし)口を閉ざしたままのジョージのとならんで、わたしは雪の野を渡って車まで歩んだ。ジョージは車に乗りこみ、わたしは窓に身を寄せてこう言った。「また近いうちに、そう願いたいね」ジョージは顔を上げず、深みを見つめるばかりだった……

・警句《ジョーク》1
一九七八年四月二日
トマス・ヴィンクローヴァが『リトゥアヌス』一九七七年冬の第四号にこんなことを書いている。
ある日のリトアニアでのこと。ここで名前を明かすことは控えるが、同郷の文人とこんな話しになった。お互い信心深さとは縁がなくどちらかと言えば懐疑主義的だとしても、最後の審判の場面を想像して、そこに人間だけではなく国家や文学までもが召し出され宣告を言い渡される様を思い描くことがある。さて、リトアニア人がやってきたとすれば、こんなことを言うだろう。「わたしたちはリトアニア人でございます。なんとかこうして生きながらえて参りました。どうとなり、宣告を頂きましょうか」。すると神はこう答えるのだ。「よろしい、なるほどお前たちは生き延びた。そしてここまでやって来た。だからどうだというのだ? たとえば古のサマリア人たちは滅びたが、後の世にも残る成果を上げ、それによってかれらは今のお前たちを超える生命を得ているのだぞ」

トマス・ヴィンクローヴァの物語はそこで終わっている。その後はわたしが引き継ごう。

……そして神は手を上げた。「この者どもを連れてゆけ」とでも言うかのように。するとその時、鍵束を手にした老人が姿を現し、皺だらけの指を振りながら優しい声でこう言うのだ。「まだ懲りんのか、スタハーノフ君、神のふりをするのはもうよしたまえ。ロシアに帰るように言っただろう。こんなところで何をしておるのかね」。それから老人はリトアニア人たちの方を向いてこう言った。「哀れなスタハーノフよ。一生働きづめで通したせいか、今でも成果という物差しですべてを計ろうとする。あの男は罰を受けたが、生きることの本当の意味を決して悟ることはない。誰も他人に目を光らせることなく、他人の成果を云々することもない暮らし……わずかな日々の行いや喜びが大切にされる暮らしのな。なんとも哀れな忙しがり屋のサマリア人たち! ただやみくもに働き続けて、その成果に神が一片の価値でも認めるかのように信じこみ、莫大な血を流したのだ……帰りたまえ、リトアニア人たちよ。家に帰りたまえ。故郷の谷へ、村へ戻りなさい。きみたちは自由の身だ、きみたちを監視する者はない。社会的な成果が取り沙汰される時代は終わったのだ。これからの一千年は、一個の人として、小っぽけな人間として、とるに足らない存在として生きればよい。そして神の耳に、きみたちの歌を聴かせてやってくれ。地上を騒がす、隊列を組んでの行列などが神を喜ばすことは決してないのだからね……」 聖ペテロはこのようにリトアニア人に語った……

・警句《ジョーク》2 ~天国への階段
ジョージはいつまでもリトアニア人であり続けるだろう。かれが考案したフラクサスの活動の多くは、リトアニアの民族風習に根ざす遊びや、子供時分の遊戯の記憶にヒントを得ている。しかしジョージはアメリカ国籍のリトアニア人たちを忌み嫌う。アメリカのリトアニア人社会はジョージを好ましからざる人物として放逐した。かれのフラクサスを通じた活動は、リトアニア人社会からも、ともに無視されている。ジョージはかれらにとっては変人であり、狂人にしか見えない。
レオナス・レタスとニカ・ニリウナスの二人は、今世紀最高の詩人たちに比肩しうる。リトアニア語が読める人なんてどこにもいないって? お生憎様……西洋、そして東洋にも、誰一人としてかれらの詩を読める人間がいないのが事実だとしても、かれらの価値はいささかも揺るがない。詩は詩である。だからリトアニア国家は天国に入れるかどうかを気に病むことなどないのだ。そのためにスタハーノフを呼んでくる必要もない。玄関にはジョージが待ちかまえていて、きっと中に入れてくれるだろう。 155

・死について2
一九七八年五月九日
親愛なるジョナス
今日の午後、ジョージは息をひきとりました。ニジョールからたぶん電話があるでしょう。
わたしたちはテリーのビルの一〇階にいます。
では、
ホリスとウーナ 160

・闘病5
一九七八年五月一一日
ソーホーを散歩しようということになった。気分を鎮めるために。歩いて、歩き抜いて、たかぶる気持ちを抑えようとしたのだ。素晴らしい人間だった。苦しみの最中にも、ジョージは苦しみを他人には見せようとはせず、自分の部屋に篭もってベッドで海老のように身をよじり、一人で苦しみに堪えていたのだ。子宮の中の胎児の姿勢をとると、痛みが和らぐのだと言いながら。 163


・お別れの手紙
息子の友だちに捧げるお別れの言葉(たもさんの悼辞と一緒にクロペ化)
レオカディジャ・マチューナス
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ジョージを愛して下さった皆さん、今日ここにいらした方々、それからいらっしゃれなかった方々にもお礼を申し上げます。ここクイーンズに足をはこび、最後のお別れをして下さった皆さんとは、ジョージは愛する音楽を通じて、あなた方一人一人のお心にふれ、あなた方のおそばに身をおくことができました。
あの子は自分のために何かをするということは決してなく、友だちの成功、喜ぶ顔を見るのを楽しみにしていました。自分のためには何一つとして費やすことなく、修道僧のように暮らしていました。なぜもっとましなベッドを買わないのか、気持ちの良い家具を買わないのかとたずねると、決まって「後で、後で、今は忙しいんだ。さしあたり、音楽と鉢植えの植物があれば満足なんだよ」と答えるのが常でした。ジョージの喜びは、家族にも等しい友だちであるあなた方と、何事も分かち合うことにあったのです。
ときにはわたしからも離れてゆくことがありました。わたしといればいくらかは快適に日々が送れたでしょうが、それも安楽な暮らしなどに気を逸らされることなく、また自分のアイデアや作品を誰かに認めてもらおうなどという考えをおこさずに、一人きりで仕事に励みたいと考えてのことだったのでしょう。あの子の仕事は、もっぱら自分自身の手で作りあげられることが多かったのですから。そこまで身を捧げなくともよいのではないかと悩んだこともしばしばでしたが、あの子には他の生き方はできなかったのです。今ではあの子の仕事は宝となりました。
メカス兄弟のお二人方には、あの子の支えとなり、よくあの子のために尽くして下さったことにお礼を申し上げます。ジャマイカに滞在した折、ジョージはバーバラ・ムーアさんのことをよく話しておりました。姉のように面倒を見てくださり、優しいお心遣いを頂いたことをあの子はことのほか喜んでおりました。ピーターさんがお友だちの集まりの折に写真を撮り、素晴らしい思い出を残すためにどれほどの時間を割いてくださったか、そのこともジョージが話してくれました。ジョージの口からは皆さんのお名前をたくさん聞いたというのに、今では思い出せないものもあります。あなた方の成功をどんなにジョージは喜んでいたか、農場に訪ねてくださったことをどんなにありがたく思っていたか、あの子のためにあなた方がしてくださったこと、ジョージの考え通りに計らってくださったことにどれほどあの子が感謝していたか、わたしはよく存じております。これほど多くの皆さんがあの子を愛してくださったと知って、わたしはとても幸せです。ほんとうに、どうもありがとうございました。

 「わたしのために嘆かないでおくれ
  わたしはただ扉の向こうに一歩出ただけ
  そこには明るい夜明けが待つ
  苦痛は二度とわたしを訪れることなく
  悲しみも消え失せる」 163


・言葉と映像
「何語にしろ、生まれつきそのことばを使っているのでなければ、ものを書くことはできない。だから文章を通じて本当に自分の気持ちを伝えることが僕にはできないんだ。けれども映画で使われるのはイメージだし、それなら書きことばにこだわらなくても戦争中に自分自身をふくめて大勢の人々の身の上に起こった出来事を大声で訴えることができると思った」
(ウォーホール自伝『POPism』に書かれた、ウォーホールによるメカスの言葉の回想) 221

・ヴィータウタス・ランズベルギス(※1)
ランズベルジスは音楽研究家で、音楽に関する本を何冊か出版している。優れたピアニストでもあって、『リトアニアへの旅の追憶』の中でこのランズベルジスの弾くチウリニウスのピアノ曲を使った。そのうえに、ランズベルジスはジョージ・マーチューナスとは一緒に学校に通った仲なんだ。 225

世界中の国をすべて人口二百万人以下に分割してしまえば、核戦争だのなんだのという下らない問題はいっぺんに解決する。 225


(※1)
ヴィータウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis、1932年10月18日 - )は、リトアニアの政治家。
リトアニア独立革命を指導。独立後、共和国の国会議長として、リトアニアの元首となった。音楽学者でもある。

・人物
1932年、ソ連併合前のリトアニアのカウナスに生まれる。(1940年リトアニアはソ連に併合される。)1955年にリトアニア音楽学校音楽科を卒業し、1968年に音楽博士の学位を取得。1952年から1990年まで音楽理論と作曲を教える。さまざまな分野にわたる 10 の著作がある。同郷のジョージ・マチューナスが創設したフルクサスにも参加している。1978年から1990年まで、リトアニア音楽アカデミーで教鞭をとる。近代リトアニアの代表的作曲家ミカロユス・チュルリョーニスの研究者として知られる。
父は建築家のヴィータウタス・ランズベルギス・ジャンカルニス、息子はマルチアーティストのヴィータウタス・V・ランズベルギス。
1988年に発足したリトアニア独立運動組織サユディスの創設に加わり、これを契機に政治の世界に入る。1990年の選挙でサユディスが勝利するとリトアニア共和国最高会議(国会)議長に就任し、ソ連憲法上の共和国指導者となる。(首相には同じくサユディスのカジミラ・プルンスキエネが就任。)在職期間は1990年の3月から、次の選挙の1992年11月。その間、リトアニアはソビエト連邦の構成共和国の先陣を切って、ソビエト連邦との交渉により独立国家としての地位を回復する。1990年3月、ソ連に対し独立宣言。当初ソビエト連邦(ゴルバチョフ政権)はリトアニアを実力で封じ込めようとしたが失敗した。そのため、他の共和国もこれに続いて独立を宣言する。アイスランドがリトアニアの独立を承認した最初の国であり、ランズベルギスはリトアニアが「40年にわたる外国による占領」から独立を回復することについて十分な支援を行わないアメリカ合衆国やイギリスなどの西側主要国を批判した[1]。ランズベルギスはまたミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦を民主化しようとしている見方に強い疑念を示した。1991年9月、ソ連政府はリトアニア独立を承認し、名実ともに独立を達成した。
1993年に新党祖国同盟を結成する。新党は1996年の議会選挙(定数141)で得票率 40 % で 70 議席を確保し、ランズベルギスは再び1996年から2000年まで議会議長を務める。しかし1997年に出馬した大統領選挙では第 1 回投票で 15.9 % の得票の 3 位に終わる。決選投票では第 1 回投票で 2 位で現職のヴァルダス・アダムクスを支持し、アダムクスは大統領に選出される。2000年の議会選挙で祖国同盟は得票率 8.6 % で 9 議席にとどまった。2004年6月13日の欧州議会議員選挙(リトアニアの定数は13)でランズベルギスは祖国同盟公認候補として当選、ランズベルギスは欧州議会の委員会および事務局のあるブリュッセルに事務所を構える。同年10月10日行われたリトアニア議会選挙では祖国同盟は得票率 14.6 % で 25 議席確保した。

・ロシアとの軋轢
ランズベルギスは、ロシア連邦(大統領制時代のロシア)がバルト諸国に対してどんな影響力を行使することについても厳しく批判している。あらゆる機会をとらえては、ロシア連邦のバルト諸国に対する行動への疑念を国内外のマスメディアや欧州議会関係の会合で表明している。
ロシアは、帝国時代も共産党時代も現代(大統領制時代)も、バルト諸国を経済的政治的に支配する意図を捨てておらず、元KGBのエージェントなどを用いた諜報活動でこれを行おうとしていると、ランズベルギスは考えている。又、ウラジーミル・プーチンなどKGBの残党がロシア連邦の政界で大手を揮い、ソビエト連邦の国歌が復活するなど、ロシアで共産党時代への「逆コース」が進行している事も警戒している。そのため、ランズベルギスは、リトアニアや他のEU新規加盟国に対して「東からの脅威は終わっていない」と述べ、ロシアへの警戒を緩めてはならないと主張している。





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弔辞 
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8月の2日にあなたの訃報(ふほう)に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。

終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。

その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。

あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。

いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。

私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかしいまお礼を言わさしていただきます。

赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。

私もあなたの数多くの作品のひとつです。

合掌。


平成20年8月7日
森田一義






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