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安岡章太郎 15の対話(1997


三浦朱門、曽根綾子、遠藤周作、島尾敏雄、そして安岡章太郎 ―― 第三の新人にはキリスト教徒が多い(たんなる偶然か?)。

生涯、信仰や神の問題を描いた遠藤周作のような信者だけではなく、「プロテスタントとカソリックの違いも知らなかった。マリアに対する信仰にしても、プロテスタントは崇めず、カソリックはマリアを拝むと最近知った。それで自分がカソリック教徒でよかったと思ったくらいだ」と告白する安岡章太郎のような作家も居る。三浦朱門は「遠藤みたいなやつでも洗礼を受けられるんだったら、おれの方がよっぽど洗礼を受けられると思って入りました(202)」と嘯いた。

遠藤 ―― なぜ洗礼を受けたかということは思想じゃない。無意識というのは嫌な言葉ですが、とにかく思想を超えたもっと大きなもので、何もいえない。だから、「空が青かったからです」でもいい。

安岡 ―― なぜキリスト教だったのか、他の宗教じゃダメだったのか? と問われれば、はっきりとしたことは言えない。理屈じゃ説明つかない。


遠藤 ―― 正確に説明するなんてことは、不可能だと思いますよ。

信仰と真相、本音と建前、割り切れない感情 ―― ひずみや屈折、衝突との相克は作家の幅や葛藤となり、作品に奥行きをもたらす。





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安岡章太郎 15の対話(1997 要約
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【 遠藤周作/宗教と風土 】
●信徒だからこその苦悩~ 矛盾や対立という実際的な経験 203
安岡 ―― 遠藤はふだんはバカみたいなことばかりいっている粗野な人物であるにもかかわらず、ある一点に来ると、ストーリーというか思想の展開ができるんですよ。
( 中略 )
遠藤 ―― 僕の場合は思想などという高尚なものじゃなかった。子供のときから実生活の中で異文化体験をさせられて、恥ずかしい思い、それから、戦争中だから屈辱的な思いをさせられました。自分の日本人としての肉体とこの宗教や異文化体験が合わなかった。うちの母親はカリカリの信者だから、その間に入って、コマネズミのように走り回っていたわけです。だから、思想に見えるかもしれないけれども、僕自身にとっては、実際的な経験なんです。はじめからキリスト教が身についていたかといったら、とんでもなかった。身につかないから長い間ハアハア言っていた。そういう矛盾とか対立は、当時はまだわかってもらえないから、みんなから、たびたびお叱りを受けました。

●水が具える普遍的な宗教性 218
遠藤 ―― 水に対するイメージと宗教は非常に密接な関係があって、水に吸収される。あるいは水をかけるというのは、ヒンズー教、仏教、神道、キリスト教、どの宗教にもある。


【 大江健三郎/歴史小説の新手法 】
●小説とは何か ~判然としない何かから芽吹くもの 265
安岡 ―― われわれが考えてきた小説というのは、当然、十九世紀的小説であるわけですが、そうでなくてもいいんじゃないかという気が、非常にしていますね。ぼくは、戦争中に文学を始めたものですから、自分自身の世界、自分なりの宇宙を自分でつくるということが、唯一の逃げ道だったわけね。あるいは自分の生きる唯一の目標であり得たわけです。だから、出発点で架空の世界というものを非常に信じたわけですよ。
大江 ―― はい。
安岡 ―― だけど、いまでもその信念は変わらないつもりですが、たとえばバルザック的な小説を書かなきゃいけないということはないんだというふうに、だんだん思うようになったな。
じゃあ、何が小説かといったら、ぼくは、ひと頃、文体が小説だと思っていたわけね。(随筆、学術論文、小説とは文体が違う ―― )いまはちょっと違うことを考えている。
大江 ―― どういう?
安岡 ―― 結局、何かを考える発想の根にあるものが、リクツで考えても判然としないもの、つまり(風景、一人の人間の顔……など)情緒的なものなんですね。

●小説の構造 266
大江 ―― 結局、小説の発想の最初にあるのはメタファー《暗喩》で、このメタファーを重ねるとシンボルになる。シンボルを物語化すると、神話になる。そのつながり、レベルの変化に重ねて、小説というものは、もともとメタファー的なものから出発して、大きい神話に至るとぼくは考えています。
また、メタファーは多義的で、言葉で一元化できないイメージから出発している。しかもメタファーの中に、その人間が宇宙についてどう考えているのかを、一瞬垣間見せるような力もある。そこで小説が力を持つ。

●核心との粘り強い揉み合いがあってこその短文 281
大江 ―― (英語は得意じゃないですが)原文を読むことが多くなってます。二年間はフォークナーの全集を読んでました。彼の文体は部分的に翻訳して引用しようとすると、曖昧なところが残るような書き方です。会話も色々なレベルの比喩も……。でも英語で読む限りは納得できるという感じがする。なぜかといえばフォークナーの声が聞こえるからではないかと。だから近年、カート・ヴォネガットなどを典型とする短いアフォリズムのような文章にヒントを得た、アメリカ文学の影響下にある日本の作家は、ちょっと危ないのではないかと思うのです。
安岡 ―― フォークナーの対照にあるようなヘミングウェイの文体は、短いセンテンスだった。彼は最初からそういうスタイルで書き始め、最後、(行き詰って)自殺したわけね。
大江 ―― ヴォネガットは年を取るにつれて文章が短くなってきているけれど、かならずしも短文ばかりではありません。大事なことは彼が「粘着力のある思考をする」という点です。ヴォネガット節の特徴である情緒的な面白さやドライな作用《テイスト》だけを借用するだけでは、おそらく基礎ができません。作家としてのやっていくために必須の長い文章で自分および表現する対象と格闘してゆく訓練も、成長のための基盤も作りえないだろうと。

●苦悩の時期に ~ちいさくまとまるな。風格を捉え、大きく描け 284
大江 ―― フィッツジェラルドは晩年のどうしようもなく苦しい時期、「あなたはいま非常に苦しいときだけれども、その経験を少しずつなしくずしに出すように書くな、全体として立派な小説を書け」といわれたりする。ドス・パソスにもそういうことをいわれたりしておりますが ―― これは日本の若い作家が小説を書いていく上で永い眼で見たヒントになるだろうと思います。


【 吉行淳之助/短編についての議論 ~現代で長編を描くということ 】
●短編を描くコツ ~抜けた茎は捨て、繋がりだけを書け 356
編集部 ―― 短編を書くときに、最初にきかっけとなるものはどのようなことでしょうか。
吉行 ―― 地面からちょっと出ている茎みたいなものを探すことからはじまる。それで見つけたと思うわけだ。次にその茎を引っ張ってみる。すると根がぜんぜんない場合があって、引っ張るとスポッと抜けてしまうことがある。
そのときには、それは捨ててしまう。
なにかサツマイモの茎を引っ張ったときみたいに、つぎつぎとイモが地下茎につながって出てくるときが、たまにある。そのごろごろ出てくるのをいちいち書かずに、ああ、これはごろごろ出てくる茎だなと思う。そして、その茎と最初にアタマを出しているイモだけを書く。そこだけ書いて、つぎつぎと出てくるサツマイモの存在を感じさせると、いい短編が出来ると思う。ところが、茎がスポッと抜けているにもかかわらず、その茎を何百枚も書いている人が多いんだよ。
見分けるには修練が要るんだろうな。
年季が入って、泣きが入って、初めてわかるようになる。
安岡 ―― 茎を全部引っ張って、洗いざらい天日の下へさらさなければならないということはあるんだけれどもね。そういうときは、おれ自身がなにを思って書いているかわからない。

●短編に冴える作家(日本人作家の資質) 392
安岡 ―― (つまらない短編というのは)どうしようもないねえ(笑)。しかし、野間弘なんか、大長編の時は、二葉亭風にいえばダラダラと牛のよだれ式に、およそシマリのない文章を書くんだが、これが短編になるとうまいんだよな。

●これは読む 421
特殊部落一千年史/(解放運動の歴史的名著 安岡さんレコメンド)

●己の差別感情を見つめる ~作家としての矜持と倫理
「差別」という感情は誰しも持っているものでしょう。そして、ここに自分たちが先祖代々差別してきた人たちがいて、それが自分たちと同じ日本人だということは理性的にはわかる。でも、実際に、それに直面したとき、ぼくらはどんな反応を起こすか。
何か自分の心の底に深い割れ目のようなものを感じるんじゃないかな。それを覗き込むことは恐ろしいことだけれど、ぼくはぞくぞくっとする。そして、同時にぼくは自分自身の中に冷たい、いやなものを感じる。ぼくはそういう自分を見据えて文学をやってきたつもりです。 429


2013_0511












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