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象/レイモンド・カーヴァー



象/レイモンド・カーヴァー
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『引越し』
どうしてかわからないが、そのとき僕は、父が母に対して優しく語りかけるときなんかに(つまり酔っぱらってないときなんかにということだが)時々使っていた親密な呼び掛けの言葉をふと思い出す。それはずっと昔、僕がまだ小さな子供だった頃のことだった。でもその言葉を聞くと僕は気分が良くなり、ほっとしたものだった。そして未来に希望を抱くことができた。 34

『誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が』
「それはテレビのニュースでちょっと見たな」とアイリスは言う。「でもそのときは六人だか八人だかの患者に付けられた装置のプラグを外した看護婦のことがメインのニュースだったんだ。看護婦がいったい何本のプラグを外したか、まだ正確にはわからないんだ。彼女はまず自分の母親のプラグを外したんだけれど、それだけじゃなくて、他の人の分もどんどん外していったんだ。おすそわけみたいに ―― 」 57

――
「おすそわけみたい」に呼吸器のプラグを外していくなんてゾッとするし、この上なく的確な言葉。

『メヌード』
モリーと僕が一緒に成長していたころ、彼女は間違いなく僕の一部であり、僕はまた彼女の一部であった。僕らは愛し合った。それは運命だった。そのときは僕だって運命の存在を信じていた。ただ事実をそのまま述べているだけだ。僕にはもう何もなくなってしまった。そして僕は何も持たぬままに生きていかなくてはならない。運命なんてものはそこにはない。これといって意味もないことがただ次々に起こるだけだ。衝動に駆られるままに、誤謬をかさねていく。そのへんの世間一般の人々と同じように。
アマンダはどうか? 僕は彼女を信じたい。彼女の心に救いを求めたい。でも僕に出会ったとき、彼女はただ誰かを求めていたのだ。 107

『使い走り』
彼は感情を表に出すタイプの人間ではなかった。しかしチェーホフの死が迫っていることが彼にはわかっていた。医師としてできる限りのことをしなくてはならない。いかに乏しい命とはいえ、チェーホフはそれにしがみついているのだ。シュヴェーラー医師は注射器の準備をし、カンフル剤の皮下注射をおこなった。心臓の動きを活発化するためだが、その注射も役には立たなかった。もう何をしたところで無益なのだ。それでも、酸素吸入器を持ってこさせましょうと医師はオリガに言った。そのとき突然チェーホフが目を覚まして、意識をはっきりと取り戻し、静かにこう言った。「そんなことをしても無駄さ。それが着く頃には私はもう死体になっているよ」(中略)
(シュヴェーラー医師は)受話器を取って、それを耳にあて、指示通りに操作した。やっと誰かが電話に出ると、シュヴェーラー医師はホテルにある一番上等のシャンパンを持ってくるようにと命じた。「グラスは幾つお持ちしましょう」と相手が尋ねた。「三つだ!」と医師は受話器に向かって怒鳴った。「大急ぎでだ。わかったか」それはまさしく直観に導かれた稀な瞬間のひとつというべきだが、そういう事実は後になると往々にして見過ごされてしまいがちである。それはあまりにも当を得た行為だったので、それ以外の選択肢が存在したなんて思えなくなってしまうからである。
(中略 ―― 時刻は明け方近く。仮眠中だった若いボーイが虚ろな表情でシャンパンとグラスを持参し、医師に渡す)
医師は入念に(何をやるにしても、彼はつねに入念だった)瓶のコルクを抜く作業に取り掛かった。できるかぎり祝祭的なポンという音を小さくするように努力しながら、栓を抜いた。三つのグラスに酒を注ぎ、それからいつもの癖で、瓶にコルクで栓をした。そしてベッドにシャンパンのグラスを運んだ。オリガは握っていたチェーホフの手をちょっとのあいだ放した。彼女は後に書いているが、その手は指が焼けてしまうそうなほど熱かった。彼女は彼の頭の下にもうひとつ枕をはさんだ。そして冷やかなシャンパンのグラスを夫の手のひらに押しつけ、指がその柄をつかむのを確かめた。チェーホフとオリガとシュヴェーラー医師、彼らは顔を見合わせた。彼らはグラスを触れ合わせなかった。乾杯の辞もなかった。だいたい何に対して乾杯すればいいのだ? 死を祝してか? チェーホフは残った力を振り絞ってこう言った。「シャンパンを飲むなど実に久し振りのことだな」と。彼は唇にグラスを運んで飲んだ。ちょっと後でオリガはその空になったグラスを夫の手から取り、ベッドサイドのテーブルの上に置いた。チェーホフは体を横に向けた。目を閉じて、溜め息をついた。その一分後に彼の呼吸は止まった。 211~

――
カーヴァーとチェーホフの関係については、巻末で村上さんが詳しく紹介しているけど、末期がん(カーヴァーは治ると信じてたみたいだが)を煩った終末期、自身をチェーホフに重ねていたという事情をふまえてこの短編を読むと、ベッドに横たわり意識を失っているシーンも、人生の最後にシャンパンで乾杯する場面も、ちょっと気がふれそうなほどの迫真を感じる。

●解題/村上春樹
(カーヴァーが死んだあと、彼の部屋でマーク・ストランドの詩集を手にとったら、カーヴァーが)僕に向かって例のもそもそとした声でこう語りかけているように思えた。「いいかい、僕が死んだことを不在ととって哀しんだりしないでくれ。そんなことは必要じゃないんだ。むしろ僕が野原の中にいるときには、僕の方が野原の不在だったんだ。僕が物事を崩していたんだ。わかるだろう?」 234

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短編小説でどの作家が好き?って聞かれたら、イーユン・リーとレイモンド・カーヴァー。ほかにいる?て聞きなおすだろう。
いや、聞きなおしはしない。ほかにもすごい短編小説家はいる。いっぱいいる。でも、カヴァーは別格なんだよな。という観想はこのさきずっと変わらないだろう。
……な? そうだよな? 未来のおれ。

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