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小説の経験/大江健三郎(1994  (要約


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小説の経験/大江健三郎
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●「知」からはみ出し、逆行する物語への逸脱
もともと「知」の思考の不得手な人間でした( 中略 ―― 高校生の頃など)「知の達人」たちの思考の水際立った展開に、幼い嘆息をもらしたものだ。
理科系の問題を考えていても、数式を解いていても ―― 物語のふくらみをあたえてしまわずにいられない。
僕の小説家としての生活は、そうした性癖の人間の、「知」の思考からはみ出してしまう・時には逆行してしまいさえする、物語に向けての逸脱が基本をなしている。 8

●夢見るような逸脱こそ、もっとも幸せな時
いま、しめくくりの始まりの年齢に立って考えることは、自分としての「知」の思考がいくらかでも結実を示したとすれば、具体的な小説や詩にそくして、若い時からのなじみの、夢見るような逸脱によく身をまかせえた時だということだ。そのような時が、自分の生のもっとも幸せな時であったとも、すでにある確信をこめていいうる気がする。 10

●小説 ―― 文体の想像力と効能 86
たとえば「泣いている娘がいる」と説明すれば、概念的な知覚としては了解可能ですが、それ以上にしっかりと時間をかけて、小説はどのように泣いている娘なのかを示すのです。この過程を通じて、光景が明視されることになる。眺めが具体的に確実になるのです。あたかも目の前で女優が演技するのを見るように。知覚を難しくし、長引かせることの効果です。

●アイデンティティ問題に付随する三つの問い 268
アイデンティティーという外来語を日本文学の現場の言葉に置き換えると、次のような定義がなお生きているはずなのだ ――
1.われわれは(自分は)どこから来たか?
2.どこへ行くか?
3.そしていま、どこにいるのか?

●エンデ『モモ』について 286
エンデは『モモ』において、ファンタジーの土台をなす仕掛けを、あざといほど念入りに造型する。話を聞く能力にすぐれた少女、時間泥棒、灰色の男たち、亀。少女を深い知にみちびく老人。これらを組み合わせると、まさにファンタジーそのものの世界が出現するが、それは同時に、読者の生きている現実世界と測り合う、堅固な転換装置をそなえているものである。

●日本文学が時代遅れに陥る悪寒 298
文芸誌の一般的な傾向は、多年積みかさなる赤字にもかかわらず、純文学の質の確保と、その上での革新のために努力を続けるものなのである。
しかし、わが国の純文学の未来は明るく開かれているだろうか?
純文学がエンターテインメントの小説と質において別であることは疑いえないが、それでいてわが国の純文学は、しばしば狭く貧しく、とくに将来への方向性があいまいである。
(ヨーロッパ、アメリカ、アジア圏 ―― )二十一世紀文学の展望が地球規模でひらかれてゆくにつれ、日本文学は ―― 徹底的な自己検討と革新なしでは ―― 、先進的な文学潮流の二流である以前に、こうした周縁からの新文学の勢いに取り残されるだろう。それは二十一世紀の世界におけるこの国の文化の、致命的な立ち遅れのモデルをすらなすのではないか? その恐ろしい予感とともに時評を閉じて、自分の小説の畑を耕しに戻るものだ。

2013_0521















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