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カフカノート/高橋悠治(2011




カフカノート高橋悠治(2011
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クリナメン(偶然のわずかな偏り) 118

●詩について(死について)
パフォーマーは、ことばを空中にきざみこむペンとなって、よみ、うたい、舞う。どこでもない場所、いつでもない時。薄明かりとわずかな音。書くこと、書き続けること、細部にこだわりながら後切れることば、響き、動き。意味を持つ前の書く身体の身振りであり、意味や解釈ではなく、理解できなくても、あるいは、理解しようとするかわりに、ただ、限界線を引いて切り取ることば。とくにアフォリズムは、語源の通り、地平を限ることで、一般論や哲学や、まして教訓ではないだろう。それを書いた手の、そのときの状況に即して、行為の地平を限定すること。ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くからきこえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、目の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片と断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。 114

●馬の首もなくなって
「もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって」(カフカ「インディアンになる望み」) 111


ただ一方向に直線的にすすんでいるわけでもなく、立ち止まり振り返り曲がるだけでなく、以前のどこかの地点に戻ってやりなおすこともあるだろうが、さかのぼってそこからまたすすむ場合は、同じ道をおなじようにすすむのではなく、今まで見えなかった脇道に曲がってそこからちがう方向にすすむこともあり、循環するのは同じ水ではないばかりか、おなじ水路でもないかもしれない。何回も曲がっていくうちにどこへ行くのかもわからなくなり、すすんでいるのかもどっているのかもわからない。古典的な主題も動機の展開も変奏もなく、偶然の出会いから逸脱をかさねて主体も対象もないうごきそのものになっていく。これがエピクロス的クリナメンとオードポイエーシス的自己創出を重ねあわせた運動、カフカ的に言えば落ちながら跡を曳くうごきということになるだろう。階段を転げ落ちていくオドラーデック。
脈絡のないように選んだ断片からさきに書き抜き ―― 「何もない、ことばを横切ってくる光の名残」「だんなさま、どちらへお出かけで?」「知らない、ただ行く、出ていく。どこまでも行く、そうすれば目的地に着く」「目的がおありで?」「ある、言ったはずだ、“出ていく”のが目的」「食料ももたないで」「いらない、長い旅だ、途中で何もなければ飢え死にだ。もっていても助からない。幸いこれこそ果てしない旅だ」「長い、長い未完成のものの列」「ひとことだけ。願いだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きていて、待っているしるしだけ。願いはいらない、呼吸だけ、呼吸はいらない身振りだけ、身振りはいらない思うだけ、思いもなく静に眠るだけ」こうしてまた書いている。 106

カフカの文章
カフカの文章は、入眠幻覚のように、書こうとする意志を鎮めて、心身が脱力したときにあらわれるイメージやことばを捉えて、芭蕉がいうように「もののひかり消えぬうちに書き留める」作業が俳句に完結するのではなく、うごきだしたことばが停まるまでひきのばされ、停まりそうになる時には、うごきがそれ自体をコマの緖のように鞭打っても先へ先へと逃げていく。落ちかかってくるものに対しては、まず避ける、それからすこしづつ近づいていく、触れてたしかめる、最後に受け入れる、という複雑な経路、まがりくねった慎重な対応の軌跡が生まれるだろう。

だが、カフカはかなりの速度で書いている。一九九一年の手稿版でも見られるように、段落は長いし、普通は分割するようなセンテンスも、コンマを打つだけで先を急ぐ。話す速度で書こうとしているようだ。最近の史的批判版では手稿そのものが写真版になっているようだが、その筆跡を見ていると、もしかするとこれは近代の速度なのか ―― 飛行機、未来派、戦争、ファシズム、ダダ、ロボット、ロケット、大虐殺、加速度で転げ落ちる文明に巻き込まれながら、エッシャーのメビウス的階段を這い回る虫のように登れば登るほどじつは落ちている、息を切らしたバスター・キートンの石の顔がヨーゼフ・Kの顔と二重写しになって、ではこれは不条理な運命に巻き込まれた人間の悲劇なのか、または( 中略 ―― 自縄自縛の喜劇か)それともほとんど書かれた人物と密着しながらその側ではなく「世界の側」に立つことばで追いつめていく判決文なのか、おそらくそのどれでもありうるし、だがどれとも言い切れない、ことばを紙に書いている、文字通りペンで紙の表面をひっかきながら、ペンはひっかからずに流れるインクの跡を残しながらうごいていく、それについていく手と、そのことばで書かれた限りで姿を見せ、紙から手が離れた跡は失踪する主体は、一人称で書かれていても書いている手とおなじではない。書かれた人物が経験するできごと、物語も、書いている手の動きの影にすぎないとするならば、書く手の感じていることばの手触り、手が書く言葉を通して聞こえてくるだれのものでもない声の途切れない響きの変化が、鏡のこちら側にある作者の存在で、といっても、それは作者の生活や経験や知識というより、それらの堆積が環境となってある時あるリズムと抑揚のあいまいな輪郭がうごきだし、それをことばとして聞き出し、聞き出したことばがことばを呼ぶうちにそれらの関係がつくられ、その網目の中でうごきまわるエネルギーがめぐりながら関係を複雑にしていき、共鳴によってことばの揺らぎが大きくなり、拡散して、こんどはその拡散するエネルギーそのものが、ある境界のなかでそれ自体を抑制する方向に向かい、やがてそれ以上の推進力を失って収束に向かう、このプロセスは一回性のもので、二度とおなじようには起こらない。書かれたことばやそこに見え隠れする人物や物語は、創造プロセスの痕跡、外側から観察され、さまざまに解釈されるてがかりにすぎないが、そのプロセスは、意味や解釈、分析などではなくて、別な身体がなぞる声の線によってずれをもった別な振動となった共振が読む側に波及する。

●声の速度 ―― 波及/到達までの時間
聞こえてくる声の速度とそれを書く手の速度、書かれたノートを読みあげる速度はみんなちがうし、読みあげる場合はその空間によってさまざまになるが、内部の声から文字、ふたたび声になって劇場空間へと移るにつれて速度は遅くなっていく。そこに音楽がからみつき、別な身体のしぐさを見る時間が加われば、もっと遅くなるだろう。しかも紙の上の文字とちがって読み返すことはできない。声も音もしぐさも近くされた時にはもう過ぎ去り、消えている。「ことばを横切る光の名残」があるだけ。劇場という遅延装置delayのなかで夢のなかの声は過去へと飛び去っていく。 102















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