和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

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G・Hの受難/リスペクトール 高橋都彦訳(1964発表)

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G・Hの受難 家族の絆 (ラテンアメリカの文学 (12))


ゴキブリの中性的な体になったわたし、とうとう自分の外に生を見ているので、結局、わたしから逃れない生を持ったわたし ―― わたしはゴキブリであり、自分の脚であり、自分の髪であり、漆喰壁のなかの最も白い光の部分なのだ ―― わたしは自分自身の恐ろしい断片の各々なのだ ―― わたしのなかの生は非常に執拗なので、蜥蜴のように断片がわたしから別れても相変わらず震え、動いているだろう。わたしは壁のなかに刻まれた静寂であり、最も昔の蝶が舞い、わたしの前に来る。いつもと同じ蝶。生まれてから死ぬまでを、それをわたしは心のなかで人間的と呼んでいる、そしてわたしは決して厳密には死なないだろう。
しかしこれは永遠の生ではなく、地獄の劫罰なのだ。
この静寂はなんと豪華なことか。何世紀もの積み重ねだ。それを眺めているのは、ゴキブリの静寂だ。世界がわたしのなかで自分を見つめている。すべてがすべてを見て、すべてが他者を生きている。この砂漠では物は物を知っている。物は物を非常によく知っているので、これを……もしもわたしが人間的な面で救われたいならば、これを赦しと呼ぼう。赦しそのものだ。赦しは生き物の特性のひとつなのだ。 54



まるで、物静かな女がちょっと呼ばれて、もの静かに刺繍を椅子の上に置き、立ち上がり、ひと言も口に出さずに ―― 自分の生活を投げ出し、刺繍や愛や、もう出来上がった心を見捨てて ―― ひと言も口に出さずにその女は落ち着き払って四つん這いになり、這い、穏やかな眼を輝かせて体を引き摺り始めたかのようだった。以前の生が彼女を呼び求め、彼女は行ったのだった。

近くから見るとゴキブリは非常に贅沢な物だ。黒い宝石を身に着けた婚約者。まったく稀で、唯一の標本のようだ。わたしは箪笥の扉でゴキブリの体を半分挟み、唯一の体を孤立させた。そこから現れていたのは、体の半分に過ぎなかった。残りは見えないが、巨大であるかもしれず、物や箪笥の陰で何千もの家に分けられていたかもしれない。しかしながらわたしは自分のものになった部分が欲しくなかった。家々の正面の陰で ―― あのくすんだ宝石が這って歩いているのだろうか? 58



仕事を始めるに当たって敢えて間違える危険を冒す必要があることを忘れないことだ。間違いは何度もわたしにとって目的達成のための途になったことを忘れないことだ。わたしの考えていたことがうまく行かなかったたびに、結局は突破口が出来た、そしてもしわたしに以前、勇気があれば、もうそこを通って中に入っていただろう。しかしいつも狂気と間違いが怖かったのだ。しかしながらわたしの間違いは真実への途にちがいなかった。間違う時にのみ、わたしは自分の知っていること、理解できることから脱け出せるからだ。もし「真実」がわたしの理解できることであれば、結局は、単にわたしの大きさ程度の小さな真実になるだろう。
真実はまさしく、わたしには到底理解できないことのなかになければならない。そして後に、わたしは後に自分を理解できるだろうか? 90



わたしたちは、魚が呼吸するのに水に潜るように、息をするのに深みに潜る必要のある動物なのだ。ただしわたしの深みは夜の空中だ。夜はわたしたちの潜在的な状態なのだ。そして非常に湿っているので植物がはえる。家々では、蟋蟀《こおろぎ》の声が一層はっきり聞こえるように、飛蝗《ばった》がほとんど葉に触れずにその上を歩けるようにと明りが消される ―― 夜には軽い不安が空気の空洞を通じて伝えられ、空《から》は輸送手段だ。 94

わたしが言っているのは、何も起こっていなかった時のことで、その何も起こっていないことをわたしたちは合間と呼んでいた。しかし、その合間はどのようなものだったのか?
それは、すべてがそれ自体で膨れ上がり、咲いている巨大な花だった。すっかり、大きくなり揺れるわたしの視覚だった。わたしの眺めていたものはすぐにわたしの視線に凝固し、わたしのものになった ―― しかし永遠の凝固ではなかった。もしも凝固した血の塊のようにそれを手で握り締めるならば、固まったものは指の間で再び血となって液化した。 99



ゴキブリとわたしは、わたしたちの生ける物質が自分たちよりも大きいので、ひどく自由なのだ。わたしたちは、わたし自身の生がわたしの体のなかにほんの少ししか入らず、わたしはそれを使うことができないために、ひどく自由なのだ。わたしの生はわたしよりも大地の方が多く用い、わたしは自分が「わたし」と呼んでいるものよりも大きいので、世界の生を知らなければ、自分自身を知らないだろう。世界のなかに少々感知できる地点を作るためにはゴキブリの群が必要だろう ―― しかしながら、たった一匹のゴキブリで、その警戒心=生だけで、そのたった一匹のゴキブリは世界なのだ。
わたしの魂のなかで最も到達できない部分全体、しかも自分のものでないもの ―― それが、もうわたしではないものとのわたしの境に接するもので、それにわたしは身を任せているのだ。( 中略 )わたしはむしろ自分自身のなかに存在しないものなのだ。 103



わたしは第一歩を踏み出したのだった。少なくとも、人間的だということは敏感になること、自然のオルガスムだということはもう知っていたからだ。そして、ただ自然に異常のある時のみ、他の存在が神であるのにわたしたちが神にならず、そうならずに神を見たいと思うことを。もしもわたしたちが神と同じくらい偉大であれば、神を見るのも悪くはないだろう。ゴキブリはわたしよりも偉大だ。なぜならば、ゴキブリの生はあれほど神に捧げられるので、ゴキブリは無限から生まれ、気づかれずに無限へと移り、決して跡切《とぎ》れないからだ。
わたしは最初の大きな一歩を踏み出したのだ。しかしわたしに何が起こったのか?
わたしは見たい誘惑、知りたい、感じたい誘惑に陥ったのだ。神の偉大さを求めたわたしの偉大さがわたしを地獄の偉大さに導いたのだ。わたしは悪魔的な狂喜に痙攣する以外には神の性格を理解することはできなかった。好奇心がわたしを安楽から追放した ―― そしてわたしは、悪くもよくもないのですべてよい無関心な神に出会い、無関心にそれ自身で破裂する物質の只中にいた。生は超人的な無関心の力を得つつあった。 106



一ミリの差は巨大で、この一ミリの空間は真実によってわたしを救うこともできるし、わたしの見たすべてを再びわたしから奪い取ることもできるからだ。危険だ。人は自分の感じることを大いに讃える。それは、感じるものをひどく憎むことに劣らず危険だ。
わたしは神に自分の地獄を捧げたのだった。そしてわたしの残忍さは、ほら、わたしの残忍さは突然、止んだのだった。そして突然、あの同じ砂漠は、楽園と呼ばれたもののさらに一層漠然とした輪郭を持っていた。ひとつの楽園の湿気。別なものではなく、あの同じ砂漠が。そしてわたしは、無から来る光に驚かされるように驚いていた。
わたしは、自分の経験したこと、あの、凄まじいほど貪欲な核心が愛と呼ばれるものだったことを理解していたのか? しかし ―― 中性的な愛なのか?
中性的な愛。中性的なものが息づいていた。わたしは一生、捜し求めていたものに辿り着こうとしていた。それは、最後の最後の正体であり、わたしが無表情なものと呼んだものだ。それは、写真に写ったわたしの眼にいつもあったものだった。無表情な喜び、悦びであることを知らない悦び ―― いつも粗雑な概念で出来ていたわたしお粗雑な人間性にはあまりに繊細な悦び。 111



「 ―― 熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるいので、お前を口から吐き出そう」聖ヨハネによる黙示録だった。 140




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MEMO
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わたし、と、あなたは違うのか。
違うといえるのは、なぜか。
ほんとうにちがうのか?
わたし、と、あなた、が違うとすれば、そのとき、世界は、どこに、どう位置しているのか。
わたし、と、ゴキブリは違うのか。
違う、というわたしよりも、神に捧げられている永遠の体現者のように見えるゴキブリのほうがずっと「生」的であり、中性的ではないか?
わたし、という隔絶は非中性であり、この「非」は世界からわたしを切り離し、上位であり外在である「神」を尊ばせ、意識させ、あざとく使役させる元凶ではないか?



昨日を追想すればそれが明日を生きることになっている
未来を思うと過去のどこかにつながる
いま、ここ、そこ、むこう ―― 混ざり合う
時間と肉体は分け隔てなくなる


わたし、あなた、存在の輪郭があいまいになる→文体


G・Hの受難を読むには、この作品用に発明(発見・衝突・邂逅)されたリスペクトールの思考・記述システムを、読み手がインストールする時間が必要


思考プロセスや分析・検討・叙述のシステムが、いわゆる「ふつう」や「文学的なフォーム」を超越している
おれが普段感じたり見たりする感情の流れ、分析や認識のフロウ、諸生理のメカニズムとは違うシステム・アングル・フロウがリスペクトールのこの作品に「内蔵されている、搭載されている、存在する」と想像するとき、「おれ」と「リスペクトール」との世界を見たり感じたり意味づける ―― そして、諦める感触(?)にギャップがあり、この空隙がポエジーの源泉になる。


リスペクトールの詩性は彼女のボキャブラリーやナラティブにあるというより、この「読み手」(日常的な思考プロセスを疑うことなく、社会性を刷り込まれてしまった=通俗的思考システムに馴れきって衰えたパーソナリティ)と、情理を確かめつつ「はじまりとして、たったひとりで生きている人間」という前提を汲み、ひとつの小説を書き上げようとしたリスペクトールとの圧倒的な差異を受けとらせるところ、その衝撃に揺さぶられる眩暈に拠る、と思う。このときの振動や戦慄にリスペクトールのポエジーは孕まれる。


彼女の、この小説への向き合い、立ち居はマッチョであるともいえるし、ヒロイックでもある。
「わたし」への拘泥 ―― こだわらなければ突破できない、のかもしれない。
(手放すという方法もあるだろうが)
「わたしはどうして生きているのか」という問いに含まれるナルシズム。
もちろん、リスペクトールはこの点における深い自覚と自戒を忘れなかっただろうが。


つづく ――

(女性、性、文体と思考の混ざり合い→欲望にも表現にも誠実であろうとすれば文学的なかっちりしたフォームにはとどまれず、あらゆる要素は混ざりあうしかない、実直だからこそ猥褻をおもわせる詩性、現代的な散文の試み ―― となればイェリネクが思い浮かぶ)












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