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「伝える」ことと「伝わる」こと/中井久夫(2011)



(以下、意訳)------------------------------------

●統合失調症患者の一般的な特徴
患者はほぼ悲観論者で、一時的現象を永久に続くと考えがち。
さらには予測された未来の事態をあたかも現在であるかのごとくに感受し苦悩する特性を持つ。 20

●統合失調症患者の回復過程
統合失調症患者の回復過程は、多くの偶然と絡みあって現実の軌道が決まる。これは台風の進路と同じだ。治療者は患者の周辺に発生する偶発事に気をつけ、その活用を心掛ける必要がある。
また、長期予後はしばしば偶発事の活用(ひらたくいえば“運”)に大きく左右される。 21


「焦燥(あせり)」と「余裕(ゆとり)」
 ~「予めtoo latEである」「いくら先手を打ってもそれはやはり手遅れである」という無意識
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これらのことばは初診時にも聞かれて、治療への合意の契機となる。高度の精神運動性興奮を示している病者への語りかけのいとぐちにもなりうる。再発の反復に疲れている病者の気持ちを汲む時の鍵言葉の一つでもある。( 中略 )そして一般に、治療目標の設定を可能にするものである。 74

たとえば、退院要求をたえまなく行う病者に「それはあせりからだろうか、それともゆとりが生まれてきたからだろうか」と問う ――  74

冷たい対人距離を固守しつづけて、よもや焦燥感と縁があると思えない病者に、八年目にたずねたところ、
「自分はあせりの塊であることに甘んじているのです」と答えた ――  75

治療者にむかって主張する行動の無謀性を衝けば烈しく反論する病者も、その行動が「あせり」によるものであることを認めるには全然やぶさかではなかった。 75

いく人かの破瓜病者は「自分はふり返ってみると、生まれた時からゆとりがなかったような気がします」と語っている。
「先生、ゆとりって何でしょう。私はそれを感じたことがない」
私はこの場合、「それが君の中に生まれた時、きっと、ああこれだな、と判るでしょう」と答える他なかった。 76

病者が何よりもまず自分が陥って抜け出せず、言動を左右させられているのは「あせり」によるものであり、灼けつくほどに求めて得られないものが「ゆとり」である。 76

わが国にも、「茶の湯」に代表されるような「余裕の文化」が存在したが、それは急速に生命更新力を失いつつある文化であるようにみえる。
これは必ずしも西欧的近代化のみを契機としないかもしれない。豊臣秀吉によって強制的に小家族化されて以来、江戸時代の初期すでに、商家の家訓にみるごとく、「勉めざめれば三代にして滅ぶ」という、家計の小規模性と浮沈の急速性にもとづく家族的危機感が出現し、江戸時代の後半に至って「努力すればとにかくその家、その村だけは一、二代のうちに立て直しが可能である」という認識が次第に一般化して明治に承け継がれた。貨幣経済の浸透を背景に、勤勉と工夫の通俗理論は江戸時代を通じて「余裕の文化」を堀りくずして行ったとみられる。 79

『焦燥感の正体 ~世界を平和なままにとどめておきたい』 81~
統合失調症患者に顕著な“極大の焦り” ――サリヴァンはこう語る。
「切迫焦燥感は一体何についての促迫だろうか。……それはどうも安全保障感への希求が汎化・宇宙化したもののように思われる。
 統合失調症患者の切迫焦燥感は全面的なもので、明晰な思考の対象になりえないのである。思考よりも現実感覚のほうが強烈だ。恐怖の際に出現する、遁走への促しと酷似してはいるが、それにはない「何かをやりたい」という促しが統合失調者にはある……
 この感覚は結局「何かをしなければ」→「何かを考えなければ」→「しおおせなければ」に帰着する。
 統合失調者を集めて「このあせり(切迫焦燥感)は何にむかってのあせりだろう」とたずねてみるならば、二、三人中一人は「人間である状態に戻りたいとこれでも少しは思っているのです。それは否応なしにぜひともやらなければならないことではないでしょうか」と語るだろう。
 要するに、この切迫焦燥感は……世界を平和なままにとどめておきたい……ということである」 81

神経症者の“あせり” 85
しかし、一般に神経症者に関しては「余裕」と「焦燥」の線上で考えるのは単純に過ぎる。
彼らもあせるが「ゆとり」を珠玉のごときものとして希求しないところは統合失調症者とははっきり違う。
神経症者はさし当たり生きてゆくだけの「ゆとり」は持ち合わせていると感じているようだ。強迫症者は例外のようにみえるが、彼らがあせって求めるのは、覚知性を痙攣的に高めることによって不確実性を追放することである。
サリヴァンの定式を使えば安全保障感の希求という点で統合失調症者と共通であろうが、むき出しのfEEling of urgEncyではない。
つまり、「遅すぎる」 ――
より正確には「予めtoo latEである」「いくら先手を打ってもそれはやはり手遅れである」という超現的切迫感はない。あれば、統合失調症にむかう失調を起こしつつあるとみるべきだろう。

伝染する「あせり」 86
この種のあせりは周囲の人間に伝染《うつ》る。
とくに良心的な医師、気遣う親が巻き込まれやすい。
(ただ、治療におけるこの種の「感染」は相互作用で、治療医の心の問題が病者に投影され、顕在化する事例も多い)

――

『治療過程で気にしておくこと』 89
病者の側に余裕感が兆しはじめた時は治療上非常に重要な時期であって、これからなお長い治療の道のりを通ってゆかなければならず、とくに、挿間的に噴き上げてくる病者の「あせり」や、基底音のようにいつも存在する家族の焦燥に対処してゆかなければならない。
この時にあたって治療者が余裕感を持ちつづけ、病者をある微妙な距離を置いたいたわりの気持ちで注意を向けつづけることが重要なのである。
病者は、たとえ人が幻の仕事といおうとも、実際“大仕事”をした後のような気持ちでいる。徒労感もあり困惑感もあるのが通常である。
治療者の余裕感も、むろん伝染力があり、治療的な重要性がある。いかに献身的であろうと焦燥に身を任せるならば、治療は実を結びにくいだろう。焦りを自覚する治療者は、悪性の逆転移状態に陥ってはいないか、あるいは患者を手段として自己の何らかの無意識的欲求を満たそうとしていないか、みずからに問うべきだ。

――

あっという間に底をつく余裕感 90
予め「ゆとりが生まれたら、すぐ使いたくなるものだ」と告げておくことが必要だと思う。
焦燥と交代で余裕が出現すればよいが、そうはいかない。
寛解過程においては、ようやく生まれたひよわな余裕感を患者は性急に使いつくしてしまおうとしがちである。
ある場合にはあまりに長い焦燥憾の後に生まれた余裕感の一種の過大評価、おそらく「フワリとした誇大感」と表裏一体をなす過大評価である。
ある場合には、治療に対する抵抗として出現するようにみえる。
「あせりを自覚する程のゆとり」が生まれてから、「ゆとりを手許においておける程のゆとり」に至るまでの道程はいかに長いことだろう。
一般的に寛解家庭は、「あせり」と「ゆとり」がかなり弁証法的な関係を示しつつ、次第に奥行きの深い「ゆとり」となってゆく過程である。

余裕感の中で憩えるように 96
私は患者に治療目標の設定を、「あなたが何かをしてもよいが、何かをしなければならないとは感じないだけのゆとりをもてるところ、何かになってもよいが、ならなくてもよいだけのゆとりのあるところまで、お互いに努力するということと思うが、いかがでしょうか」という意味を話して行う。「それからはあなたの自由である」とも。

“ゆがみ”は転移する 110
老練な指圧師の子息(彼も指圧師)がいった。
「“ノイローゼ”の患者は全身の筋肉のやわらかさがたえず予想を裏切るもので、いわば暗闇で石ころだらけの道を歩くように非常に疲労する。われわれの職業は短命であるが、一般に患者の身体のゆがみを“もらって”しまうからだといわれている」


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『話をするコツ』
・最初と最後は現実的な話題になるようにする(幻想・情緒過多・深層心理についての話でおわらないように)
・相手の反応を見ながら、そっとすすめる。相手が浮かない顔をしているのに、「これは良いこと」と割り切ってすすめると、時におかしなことになる。まず、相手との間が円滑にいくように、相手の意向を察するよう努める。 270
・超覚醒状態においては、結論や断定、断言的なことを言わない(あー、うー、しかし……で、まあ、それなら、それはどうだろうなあ)
・どちらかが睡眠不足なら深刻な話は避ける
・五分以内で日常レベルの精神状態に戻れること
・自由に注意をただよわせつつ、ほぼ遺漏なく現実的行為が遂行できる状態にあること

●有意義な面接には回数的な限度がある 123
古い統計には、大体四〇回前後とある。毎回意味深い面接であるというのも現実的ではないし、つねに深い面接が治療によいかといえば、それもわからない。浅い面接も患者・治療者関係の永続のために必要だと思うことさえある。実際には、一組の患者・治療者について四〇回もの有意義な面接をやりとおす工夫のほうが必要かもしれない。

●治療のコツ 123
病勢は一般に停滞している時はなかなか動かず、動くときはあれよあれよという感じで動くものであるから、今「現状維持力」が優勢であるか「変化力」が優勢であるかを頭に置くこと、前者から後者、後者から前者への変化の徴候を見落とさないことである。
停滞時は、苦痛や悩み、身体的失調の軽減を望む。そして「この停滞には必然性があるのでは」と考える。たとえば自然治癒の発生である。
変化の時期は積極的なアプローチが可能だが、それでも「安パイ」を置き、さらに安全保障証を発行する。旅行ならば、途中で引き返してよいという選択肢を示し、さらには、途中で引き返せるというのは精神健康への感覚が向上した証である旨、本人にも、家族にも伝えておくのである。

変化力が優勢の場合には、変化を実りあるものにすることが目標になる。その場合には、変化を加速するより減速すること、一つのことだけを始めること(二つ以上を同時にやり始めないこと)、成功か失敗かではなく実践的精神でことを行い、ことの成否にかかわらず、とにかく一つの経験を積んだとしてそれをさらに検討すればよい。 125

●停滞は悪ではない 125
精神病院に長く勤務すると停滞は悪であり変化は善であるという固定観念が生まれやすい。しかし、人間は日々そう進歩するものではないし、非病者は「停滞」しているほうが普通である。

●一極集中は危うい
仕事の成否に自尊心を置くな。趣味のない人は神経学でも眼科学でもよいから、もう一つの医学分科に習熟しなさい ―― フロム・ライヒマン 128

仕事一本の人は、日本の「働き文化」では高く評価されるけれど、精神衛生が良いとは言えない。胃潰瘍になったり、うつ病になったり、最後に「老人ボケ」になる確率が高い。総じて人生の後半にリスクがある。三十歳の後半あたりで「仕事一本槍」の生き方を多少変えるチャンスにめぐり合わせた人は幸せである。 200

●統合失調症の危機 153
統合失調症の危機にあっては、世界は意味を失い、逆に意味を押し付けてくる。より正確に言えばl、世界はもはや意味されるもの(シニフィエ)でなく、意味するもの(シニフィアン)と化する。机の上に置かれたマッチの空き箱は「お前がちっぽけで空っぽだ」ということ意味している(象徴ではなく、直ちに意味している)。世界は彼を追いつめる。彼には逃げ場がない。

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「伝える」ことと「伝わること」
 ~無償の育児を通じて 259
人間と人間との間の伝達、つまりコミュニケーションには、意図的に「伝える」場合と「伝わる」場合とがある。
人間の成長の上では、「伝える」ほうが先である。お母さんのおなかの中にいる時、胎児は、もう、お母さんの動きに反応している。お母さんが不安になって脈が速くなると、胎児の脈も速くなる。母親の不安は「伝わってしまう」ので、お母さんが伝えまいと思っても無理である。もちろん、母親の安心も鼓動を通じて伝わている。
「伝える」ほうはどうかといえば、どうやら生後三ヶ月までは、あかんぼうは確かに微笑しているのだが、母親が愛情を「伝え」ようと微笑みかけても、それを受けてあかんぼうが微笑み返すということはないらしい。つまり、生後三ヶ月から「伝える」のを受け取る力が現れる。それまで母親は愛情表現に対する手ごたえが得られないので、この時期の育児が「無償の育児」と呼ばれている。
こういうことをわざわざ言うのは、手ごたえが直ぐ返ってこない「伝達」にも、ちゃんと価値があるということだ。


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『私の日本語作法』 336
これは、三田医局長(神戸大学精神神経科、一九八四年当時)からの質問に答えて、私なりによい日本語を書こうとする時の心構えとして漠然と頭の中にあったものを引き出したものです。ですから、こう書けというのではありません。ご参考までにということです。

l 文 ―― 文接続水準
文章の流れをよくするためには、次の文章への接続を考えること。形式としては、
(一)この文革を受けて、同じことを別の表現でいうのか(並立)
少し詳しくいうのか(解説)
あるいはすこし違った角度から光を当てるのか。先行するいくつかの文章をまとめるのか(要約、総合)

(二)時間的あるいは論理的に次に進むのか(順接)
その際、ただ続けるだけか。すこし話をふくらますか。逆に、しぼってゆくか(単純順接)(拡大順接)(収束順接)

(三)逆の例もあることをいうのか(部分逆接)
その場合、逆の例の大きさ(比重など)が同等であるのか(but)
それほどでもないのか(however ―― ただしbutとhoweverの違いが単純にそうだというのではありません。ここの英語は、理解のために添えただけで、これは英語の書き方ではありませんから念のため)
逆の論理あるいは該当しない事態があることをいい、対比的に (あるいは立体視的に)事態全体を浮かび上がらせ、叙述範囲を拡大するのか(全体逆接)

(四)いままでの三つだけだと、文章の流れが直線的になりすぎるので、ところどころに少し違った事態を持ってくる。これは文章に一種の休止符を与えることです。
ある論理のまとまったところには休止符的な文章があるほうがよい場合があります。

(五)いうまでもないことは「飛躍」します。とくに主題ではない、副次的なことに入りこみ過ぎると、この人は何をいいたいのか、わからなくなります。
随筆のように、それが許される場合もありますが、よい随筆は、ずーっと離れてゆくように見せて、最後は、長い潜水の後で思わぬところに顔を出して、それがよく考えると出てしかるべきところであったと分かる、という具合に、元に戻って、結論になります。

(六)現文章が、実は否定したい内容であることもありうるので、当然「反論」もありえます。文章のつながりの中で時々論争を行うこと、単に誰か別の人間相手でなく、自問自答的に論争を行うことは、著者の射程の広がりを示し、低次元の反論を予防します。


2 パラグラフ水準と文章(エクリチュール)
(一)パラグラフ単位で展開するのが、よい文章です。
一パラグラフは一思想、一アイデア、一連の事態 ―― とにかく一つの定式で表現できるようにするのがよいと思います。
このために、小見出しを先に決めて置いて、その分量まで決めてから書くのがプロのルポ作家です。時にはこの方法を使うのもよいでしょう。使える人と気質に合わない人とがあります。しかし、これがルポ作家の方法であることを強調しておきます。つまり、事実の叙述に適しているのです。
逆に、小説家は一般に、長さを決めず、作中人物にも一人歩きさせて、自分でも思わぬ展開を自分に許容します。創造的な方法です。われわれは、両者を使い分けるのがいいのでしょうが、そう器用には行きません。

(二)私の作文順序
①思いつきをそのへんの紙に書き付けて袋に入れる(診察中に閃いたことでも書きます)
②この紙片を床に(あるいは机に)並べて順序や配置を決めます。
③それをフローチャートに書きます。
④関係のあることは線で結び、付け加えることは、自己批判せず(ブレインストーミング式に)書き嘗ます。
⑤それを文章という一次元の上にどう並べるかを考えます。
⑥何を主題とするかを再吟味します。枝葉を容赦なく切り捨てますが、別の場合のために取っておくこともあります。

ここで、配置されるものがパラグラフ水準であることをいいたいのが、私が作文順序をここにいれた理由です。

(三)最初のパラグラフは短く。ヘミングウェイの文章作法だそうですが、彼はジャーナリストから聞いたそうです。

(四)文章水準と同じく、パラグラフ水準でも、並立、解説、要約、総合、順接、逆説、休止、飛躍、議論、反論などのパラグラフがあります。さらに導入、展望、紹介、叙述というパラグラフ種が加わります。一パラグラフに解説と議論、叙述とその例外(逆接)を入れないこと。

長さは、主題的なパラグラフを長く、副次的なものを短く。副次的な内容の長い文章はポイントを落とすか、注に繰り込むか、そう明言するか(「以下しばらく本題と離れるがぜひ言っておきたいことにこういうことがある云々」など)です。
ルールを外れる時は、一般に明言するほうがよい。

叙述は長さの許容性がもっとも大きい。論理的展開は細か目に改行するほうがよい。展望や紹介などは、主題を「食わない」程度に。
一エクリチュール全体では、最初と最後は短めの揃え気味に、中央は長いめのものの間に短いのを時々混ぜると常識的なエクリチュールになります。

なお、日本語では、文章というと、主語と述語と補語から成る文法的単位(センテンス)をも、一つの論文あるいは随筆などの、まとまって書かれたもの(エクリチュール)をも指しますが、これでは不便です。
以下では、センテンスをS、パラグラフをP、エクリチュールをEとします。そして、一つのエクリチュールで書きたい内容でまだ星雲的なものを∑とします。こういう意味でも「文」という言葉を使いますから。

今のように、改行だけでは、まだ「飛躍性」が足りない時は一行明けを使います。

(五)ほんとうに言いたいことは三度書け、と文章のプロは申します。一度では読者の頭に残らないそうです。論文は重複を嫌いますが、表現を変えて、二、三度言っておくほうがよいと思います。

(六)E=集合(P)でE=集合(S)ではないことを再強調します(これは違った表現法で言い直したわけです)。

(七)ぜひ使いたい名文章が浮かんでも、恰好のはめこみ場所がなかったら容赦なく切り捨てることです。


3 Eの構成
(一)Eを構成するには、人それぞれの方法があります。
① 神がかり法。神さまにとりつかれたように一気に書く方法です。流れは一般によく、全体の配分(叙述と議論などの)、構成、論理性を後で補います。宣言や主張や恋文に向きます。論文の場合は締め切り直前のやけくその時でしょう。
② 純粋構成法。章、節、小見出し、その分量と決めてから書く方法です。論理性は一般によいのですが、流れが単調になり、深みに欠ける欠点があり、これを後で補う必要があります。啓蒙E、解説Eに向きます。

③ 油絵法。あっちを塗り、こっちを塗り、下塗りをし、削り、上塗りをし、遠くから眺めては修正し、最後にニスを塗って仕上げる方法です。
ある程度以上長いEでは、神がかり法では身体がもたず、純粋構成法では「こく」が欠けるので、これがいちばんよいと思います。
実際、無意識的にこの方法を使っている人が大部分でしょう。

(二)以下、主に油絵法について述べます。
まず、やると途中で投げたくなるからしないほうがよいことを挙げます。
① 最初から完壁な文章を書こうとしない。

② 序文から書くかない。
序文は防衛的なもの。最後でもよい。
また、壮大な序文を書くと後が続きません。完成しても、門が大きくて家が小さいようなEになて自己嫌悪に陥りがちですから、精神健康によくありません。

③ 最初から独創的な文体で書こうとしない。
事実本位の作家でファナティックでなく対象に少し距離を置いた端正な文章を書く人がよいでしょう。たとえば、きびきびしていて無駄のない文章を書く修業をしたであろう阿川弘之氏のような作家(「第三の新人」の一人として登場されたばかりの時の文章です)
―― それから優れた翻訳家による理的で、かつイメージの湧く文章、たとえば高橋泰邦氏の英国海洋小説翻訳のような ――

④Sの途中で主語を、Pの途中で主題を変えること。Eも二主題でないほうがよい。

⑤さっきのことばと矛盾するようですが、改行にあまりこだわらないこと。改行は後から左おすチャンスがあります。
最後にできたEが、Pのよい集合になっていればよいので。


●動詞の複合形が簡単にできるという日本語の特徴 ―― 345
西欧語では、名詞をつらねることはできる言語は多いが、動詞はつらねられない。
「伸び悩む」「慣れ親しむ」「かけのぼる」
これは日本語の大きな宝物である。


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精神病者の回復とはなにを言うのか
統合失調者に回復がありえるかというのが、私が精神科医になった時からの関心事であった。
患者が口で述べても精神科医をなかなか納得させられない。「病識」を語る言葉は、患者から見れば精神医学への降伏かもしれない。幻覚や妄想は感覚の雑音かもしれない。であるとすれば、症状を中心とした面接は、いわば雑音に注意をいっそう集中させることになりはしないか。 363



停滞は悪ではないという指摘 ――
患者に病態を知らせ考えさせ向き合わせる「治療」とは、もしかしたら患者の想像力の矮小化させ ―― 突き詰めれば彼ら彼女らに精神のノイズだけを聴かせる行為かもしれないという危惧。

あせりとゆとりの狭間で揺れない人間はいない気がする。わからないけど。
「程度問題」ということ。ここが難しい。線引きができない。考えることがやめられない。
「もっと考える速度や量を落としたらどうですか」
やわらかく告げられて、鏡や氷が割れる音にうたれる。
考える速度を落とす ――

それは『断定や結論を急がない』ことや『変化のタームに入ったら、その速度を加速させるのではなく、むしろ減速させるべきだ』という指摘に通じる。
(高ぶりや逸り、躁転してしまうケースへの対処法としても効果がありそう)

>「予めtoo latEである」
>「いくら先手を打ってもそれはやはり手遅れである」という超現的切迫感

かつて速かったからではなく(もうあのときほど速くないという自覚からではなく)、「生まれたときから遅れていた」という根本的な情けなさ、むなしさ、許せなさ、不安や怒り ―― 不公平感への憤り。
自信が身につかず、自身も頼りなく、明確には把握できず ―― 流され、揺れ、だからこそ拘りや意地は頑なになる一方で、外在するものへの想像力や、身の回りの流れ ―― 時間のすすみを察するのではなく、やたらと内省し、自戒し、自虐に及びかねない反応《リアクション》がもはや生理的なレベルにまで厳密に厳格にシステム化されている、とも思う。
また、このシステムは間違いなく、エラーを吐き出す構造的な欠陥だらけなのだが ―― それをそうと認めようとしない(度量がない)『わたし』がいる。

ダメなまるごとを受け入れること、いびつで壊れていて、不安定で不穏であることを、どこまで引き受けられるか。
潔癖であり完全であらねばならないという不可能へのバカバカしい逃避の持続が止むか。
 =他者との距離感はたいらに、なだらかに、おだやかなものへと変質するか。

『患者はほぼ悲観論者で、一時的現象を永久に続くと考えがち。さらには予測された未来の事態をあたかも現在であるかのごとくに感受し苦悩する特性を持つ』
これは未来というより凶兆や悪寒だと思う。
まだ起こっていないこと、もしかしたらそうなるはずもないことに捉われてしまうのは、どうしてか。
なってほしい未来、おとずれてもらいたい時間、たどりつきたい風景や関係と、いま感じられている充足や幸福、めぐまれてきた言葉や触れ合いが透明なものへとあっというまに変態(後退)し、透明で役立たずの風のように去り、消えてしまうのはなぜか。

凶兆や悪寒にせよイメージ(妄想)だが、妄想せざるを得ない体験は「かつてあった」という現実感であり、体感であり、身体感覚なので、これをイメージとして切り離し、冷静になるのもまた難しい。

覚書として。
・手ごたえが直ぐ返ってこない「伝達」にも、ちゃんと価値があるということだ
・ゆとりを浪費しないで
・睡眠不足時は回復にあてる


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