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もうひとつの肌/J・ホークス(1964) 吉田誠一+関圭子訳

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もうひとつの肌 (ゴシック叢書)
ジョン・ホークス1964) 吉田誠一+関圭子
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まずは名前を挙げて

手短かに自己紹介しよう。わたしはハチドリを愛する者、今わたしの両足がのっている朽ちた窓敷居の向こうの花に矢のように飛んでくるハチドリを。(5/冒頭)

「カッサンドラ? お腹へらないかい、カッサンドラ?」
サニーはセロリを賽の目に切り、オリーブは小さな緑の半月にして、赤ピーマンも入れてくれた。赤ピーマンまでも。月の光が窓から切れ目のないかすかなプロペラ後流となって注ぎ、その光のなかでカッサンドラの顔は銀貨に刻まれた小さなまばゆい横顔のようだった。それも古い廃墟から運よく発掘された銀貨に刻まれた、どこかの久しく忘れ去られた女王の、無表情に顔をこわばらせた、すり減った肖像だ。わたしは彼女を見つめ、大きな図体ではあるが体をずらして、より深く旅のなかに身を沈めた ―― ああ、体じゅうの力を抜くこの快感!  ―― また、わたしの太い、白いズボンの両膝が開き、どこまでも沈み込んでゆくにまかせた。右の腕から、これは眠っているピクシーを覆う腕だが、感覚がなくなるままにまかせた。わたしはもう長いこと月の子供でいるみたいに、夜のおもてに寝ころがって、物思いに耽りつつ、寝床のない夜の旅人たちが誰でもとる、中途半端で無防備な姿勢で、体をなかば月の光に曝した。道端のベンチで眠る者や廃用になった客車の片隅に丸くなる者、毛布もなしで夢を見て、自分の手を枕に眠ろうとする者のたちみんなに共通の中途半端な姿勢で。窓際の自分の席で目を覚ましたまま横になっていると、わたしの体の脂肪がすっかり静まり返って、グレイハウンドバスのシートに曲線に沿ってずっしりと動かない。とはいえ、背中や肘、首、ふくらはぎ、尻のあたりに、わたしはこの冒険旅行の律動そのものを、疾走する大陸横断バスの震動を感じていた。それに空腹感、旅路にある子供のような、胃を締めつける空腹感も感じていた。
「二人だけのピクニックを始めようよ、カッサンドラ」
カッサンドラ ―― わたしの娘、わたしの傑作 ―― は、体を動かすと、紙袋を膝の上に拾い上げてその口を開けた。 37

それで今はどうなのかって? 今、わたしは長い机に向かって座り、さまよえる島の賑やかな夜のただなかにいて、蝋燭の明りで ―― 昨夜のお祭りのをとっておいた半分に燃えつきた一本の蝋燭の明りで ―― 自ら綴る華々しいしめくくりの文字を見守り、物思いにふけり、灰を吹き飛ばし、ゴムのような葉っぱの陰の息づかいや夜通し鳴きたてる虫の声に耳を傾ける。というのもわたしはいま五十九歳になり、それは前からわかっていたことだし、夕方には太陽が、明け方には月があり、静寂の声があるからだ。そういうことだ。夕方には太陽。明け方には月。静寂の声。(236/結句)


プロットや登場人物や状況設定やテーマという、通常小説について考えるときに使用する手段を小説の敵とみなすことを出発点として小説を書き始めた ―― ジョン・ホークス



sketch ――

読めるようになるまで時間がかかる癖のある文体
(リスペクトールとの相似と差異
 →相似 シンプルにいうと読みにくい。あえて抵抗のあることばの並び、運びを使役しているのではないだろう。イメェジと叙述の混淆《ハイブリッド》を試みたくなるのはよくわかるし ――
 →性差 男性と女性、それは語られる言葉やニュアンスが具わっている人間の生まれや育ちが「男か女」かという「違い」だけではなく、この『もうひとつの肌』とリスペクトールの『H・Gの受難』を読み比べると、前者を語る作中人物は「男性」であり、後者の作中で作品を語るのが「女性」だと ―― クリアに読みとれる。が、それはなぜだろう? 

女っぽさ、男っぽさとはなんだ?

メカスのフィルムは男性的だろうか。母への語り(別れ)だから? だが、女性だって母親と別れは不可避だ。母親との別れをどう語るか、その語り方に男性っぽさというのがあるのかもしれない。(女性ならこうは書かない・撮らないね、というニュアンス)→いわゆるステレオタイプという陥穽

もうひとつの肌』は親子の愛情を超えたアブノーマルな父親の娘への愛情が書かれていて、書かれていてというか臭ってくる。こいつはヤバイ男だな、と。デブでハゲで大食いでゲスくってイジワルでバカで浅はかで変態の「父親」 ―― あくまでも父親 ―― であるところが重要で、というのはもしこいつが「男」になってしまえば、親子関係だろうと「男」として「女」をものにしようとしているという性欲や情動の話しにすりかわってしまう。ホークスはそうしない。このゲスは「父親」という役割から降りない ――

小説のはじまりは抒情たっぷりの語り口(元ネタはポーの『ウィリアム・ウィルスン』だろう。わかる。あの出だしはクソかっこいいからパクリたくなる)だけど物語のトーンは喜劇で、ドロドロした変態の心中がつまびらかにされるのかっていうと「YES」だが、ナレーターが真実を語っているかどうかは怪しい。
読んでいくと「あれ?」って思うように書かれている。
それも皮肉たっぷりに。
自虐的と感じる箇所もたくさんある ―― ナレーターの語りに関しては、これが「自虐」ではなく、痛切な軽侮に満ちているのかもしれないと思うようになる。

ナレーターはアブノーマルな父親と同一ではない ―― としたら、こいつはどうしてこの変態野郎を喧伝するのか? そのわからなさが、物語の語りである癖のある文体の積み重なりに「あぶなさ」を感じるし。

なんでそこまで一生懸命に話すの?
晒すつもりでも、そんなに凝った語りじゃなくてもよくない?
こういう文体(小説世界に則っていえば、語り《ナラティブ》)で延々と続けてるのって、誰の、何のためなの?

憤怒や嫌悪、恨み辛みが根底にあるとしたって、それだけでこのように芸術的に(反芸術的に)誰かを軽侮し続けられるかっていば、それは難しいだろう。
病的な執着(病的じゃない執着なんてないかもしれないが) ――

つまり「この作品は何のために書かれたのかという諸小説作品に通じる問い」プラス「この作品は誰に向けて語られているのか」ということがわからない。
わからなければわからないほど気味が悪くなってくる。

リスペクトールの『H・Gの受難』は女性の語り手が圧死したゴキブリの死骸との相克を通じ、実存的な認識を蘇生(更新)していく過程としてのトーンで統べられているので(もちろんそれだけじゃないが)、「物語がどこへ進んでいるか」の羅針盤は見失われない、読んでいて。

ホークスの『もうひとつの肌』は『H・Gの受難』の骨子となっている自意識の回復にかわるようなものがあるか? 
ベクトルとすれば「どんどんわからなくなっていく」方向に進んでいる。

真逆かもしれない?


はだ→スキンは、「避妊具」の意味もあるのではないか。

もうひとつの避妊具


この切り口から作品に迫れる気がするが。


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愛と生

過去と現在

「死の種子」としてのスキッパー(主人公・59歳・娘を愛している、舐めて、食べて、尽くしてしまいたいほどに)

本人には「死の種子」という自覚なし

“すくおうとして死なせてしまう”というモチーフ
(拳銃自殺の父、けっきょく自殺させる娘)

見当外れの言動や行動

スキッパーとフェルナンデス(娘の旦那)

臆病と遅行(≒ねばり強さ、持続、逆転)
勇敢と速攻(≒あっけなさ、瞬間、急降下、断絶)

度を越えた愛情はアブノーマル臭がきつい
(しかし、どこの誰がアブノーマルと判断できるだろう?
 それに、誰だって「死ぬほど愛されたい」と思っている、といえないか?
 ならどうして「度を越えた愛情」を怖れ、嫌うのか
 「わたしが欲しい仕方で愛してください」)

他者への過剰なタッチメントは自己愛の投影に拠るだろう
(どうして自分自身をストレートに愛さないのか? それが娘だった理由は?)

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