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なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ訳

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なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ訳(1990
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自分が充分に理解してもいないことを他人に教えるというばかばかしさにこれ以上耐えられない ―― (ドイツからの手紙に)31

―― 『蹴り損の棘もうけ』を書評したタイムズ紙文芸付録
奇妙な、まことに無力な無為の徒で、内省を好み、終始道化じみた失敗に巻き込まれている ―― 陳腐な日常を豊富な観察と時折垣間見せる学識で飾り、かと思うと唐突にそっけなく突き放す ―― 内向的風刺の効果 ―― ベラックヮは登場人物というよりは、むしろ作家が独創的な散文様式を駆使するきっかけとなる主題なのだ ―― 各論のできばえは玉石混淆だが、意図は壮とすべきものがある。まだ方向が定まってはいないものの、明らかに新鮮な才能がここにはある」 34

一九三八年一月、ベケットはパリで暴漢に襲われた。ある夜遅くオルレアン街でプリュダンという名のポン引きが声をかけ、金をせがんだ。ベケットが拒否すると、男は胸をナイフで刺した。後で獄中の暴漢と対面し、なぜ彼を犠牲者に選んだのかと尋ねると、「わからない」と答えが返ってきた。『ゴドーを待ちながら』の中でこの台詞は男の子に与えられる。 44

三〇年代後半、ヨーロッパが戦争に向けて準備を開始しているころ、ベケットは未だに意に反して作家として名を挙げていなかった。このころは深い「倦怠と無感動」の時期だったと彼は回想する。 44

(『マーフィー』について、ベケットは)語り手の視点という問題点を意識していたらしい。ストーリーの半ばで、いつになく率直に「この本に登場する操り人形たちはみな遅かれ早かれめそめそとべそをかくことになっている、ただマーフィーだけは違う、彼は操り人形ではないので」と述べている。( 中略 )
この時点では、ベケットは世界(World)にではなく言葉(Word)にうんざりしているのだ。 45

(『ワット』のなかで)ワットはそのうちノット氏の寝室にたどり着く。そこで彼が心を奪われるのは、壁の抽象画であり、これが作品全体の象徴でもある。「無限の空間の無限の時間のなかを」円が中心を求めているのか、中心が円を求めているのか。順列組み合わせが続き、ワットはついに結論に達する。そう、これは中心を求める円であり、かつまた円を求める中心だ。ただ、この中心はこの円を求めていない、そしてこの円はこの中心を求めていないのだ、と。 48

(ベケットの創作意欲が最もさかんだったフランス語で書かれた時期)どんどん内向していく想像力の世界を反映している。( 中略 )今や語り手が「語れる」のだ。( 中略 ―― もう旅に出ることすらなく)実はどこにもないところへの往復の旅 ―― 54

『メルシエとカミエ』は、ダダイズムとシュールレアリスムの美学として提唱されたテロ手段、つまり偶然の法則にのっとって仕組まれた唐突な遭遇の連続だ。( 中略 )
偶然にひきおこされる突然の変化は次々とミュージックホールの漫才から漫才へと読者をひきこんでいく。偶然の法則を指揮し、自分はその厳命に従わない者が一人いる。最初のページで読者が出会う「わたし」、つまりベケットの語り手である。( 中略 )
鵡、雨傘、レインコート、ペン、袋、自転車などの品物や、ついに友情そのものまでもが、どうして摩訶不思議にも消えていくのかは、読者には知らされない。語り手は一見読者に情報を与えているようで、実は澄まし顔で随意に情報提供を差し控えている。( 中略 )
「退行中の作品」(あるいは「退行を模索する作業」)がベケットの「進行中の作品」に突如として新しい可能性をもたらしたのだ。
「世界を覆う汚物の真ん中に小さな王国をでっちあげ、その上に糞をたれる。ああ、それこそいかにもわたしにふさわしいことではないか。」たとえばヴァージニア・ウルフたちの「意識の流れ」はかつてこのような声調をもって響いたことはなかった。実際、これは「意識の流れ」とはまったく別のものだ。純粋な虚構の荒野の中で交わりを求めて叫ぶある「声」 ―― これを作家の声と特定してもよかろう ―― がここに呼び覚まされたのだ。そしてこの声が究極の衝撃をもたらすのは『モロイ』、『マロウンは死ぬ』、そして『名づけえぬもの』においてである。 57

(『ゴドーを待ちながら』は)簡素で、しかも印象的な舞台空間が、臨機応変、縦横無尽に操られる。生と知恵を連想させる一本の木が観客の目を釘づけにする。エストラゴンがその木に首を吊ろうとすると、今度はその同じ木が、死や裏切りや、ひいては磔刑を象徴する。第二幕の冒頭で数枚の若々しい葉が芽吹き、今度はにわかに救済と再生の希望が見える。この戯曲では、すべての死んだ声がたちが、「木の葉のような」音をたてる。ベケットの木はまた滑稽だ。エストラゴンは木の真似をする。「ゴゴ、軽い ―― 枝、折れない ―― ゴゴ、死ぬ。ディディ、重い ―― 枝、折れる ―― ディディ、ひとりぼっち。ところがだ。」
ポッツォは正しかったのだ。彼のいう時間、すなわちベケットの舞台上の時間は、静止することはない。この戯曲を上演するという儀式、あるいはドラマの展開を観るという儀式は、思いがけずわたしたちを復活の行為にもういちど巻き込むのだ。
ベケットが「待つという凍りついた画像を戯曲の主なモチーフにする」ことを試みた舞台、その装置はそういうわけで空虚で、しかも示唆に富んでいる。 87

―― 批評家ヴィヴィアン・マーシア
「ディディとゴゴはまるで博士号を持っているような口調でしゃべりますね」
―― ベケット
「どうして彼らが博士号を持っていないと言えるんです?」 89

ベケット「わたしの作品では根源的《ファンダメンタル》な音(これは“尻《ファンダメント》から出る音、つまり屁に掛けた”冗談ではありません)が問題なのであり、わたしの仕事はできるかぎりその音を充実したものに作りあげることなのです」 89

(『伴侶』は)追憶がいかに自伝を変幻自在に操るかが演劇的効果をもって語られている。思い出は、ベケットの幼年時代のアイルランドの情景の中で営まれた生のひとコマひとコマを呼びおこし、真実に酷似した虚構を造形する。ここには二つの声 ―― 追憶の声と理性の声 ―― があり、ベケットは前者には速いリズムを、校舎にはゆっくりとしたリズムを与えている。二つの声は、対位法的にそれぞれの旋律を力強く奏であう。 162
(だからこの作品は戯曲として脚色されるのにうってつけ、とブレイターはいう)






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一回目の(コピライズ )
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■なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ:訳
(マーフィの冒頭)「太陽は、しかたなしに、何の新しいものとて存在せぬ世界を照らしていた」という冒頭の文章からして不器用な「語り」という形式の偶然性とうまく折り合えないでいる作者の姿を彷彿とさせる。ただしこの時点では、ベケットは世界(World)にではなく言葉(Word)にうんざりしているのだ。  45

ベケットの三部作は、小説史上最大の業績であるとともに、方法をめぐるこの上なく重要な発想でもある。創作にあたって彼は、再び写実主義の名残に背を向け、代わりに完全に閉じられた円環の限界を探りはじめた。ずっと以前に彼は「まるで蝋燭を芯切りばさみでちょん切るように問題を解決策で封じる」バルザック風の虚構の無能を嘲笑した。いずれにしろジョイスによる小説形式上の発掘によって、ベケットがその道を選択する可能性は完全に封じられてしまった。  60

(ロジェ・ブランは)『ゴドー』を舞台で上演する機会に恵まれても、彼は「作者にその意味について質問するなんてとんでもない」と思っていた。その代わり、彼は人物の「肉体的欠陥」と「わなや脱線やほのめかし」といったもっと実際的な問題に夢中になった。「なるほど『ゴドー』にはいろいろな解釈のレベルがあるが、まず最も身近な人間らしいレベルに充分取り組んではじめてお目当ての魔法が達成されるのだ」と彼は主張した。

一九五七年に、彼は「自分が英語で書いたものにはどこか勘にさわるところがあって、そのくせ、それがどうしてもふり捨てられない。ブレーキが効かないような感じです」と述べたことがある。不思議なことに、演劇的言語こそがベケットの「変わった英語」に必要な制御を与えることになった。『しあわせな日々』は、舞台のために母国語を選んだことがいかに妥当だったかを確認し、また母国語の可能性をさらに広げるきっかけとなった(以来ベケットは一九八〇年半ばまでずっと戯曲を英語で執筆することになる)。  120

『しあわせな日々』は舞台形象の極限を行く作品である。この戯曲では、人物と背景を分けることができない。最初は腰の上まで、次は首まで埋まったウィニーは、舞台装置であり、同時に舞台上の主人公でもある。彼女は演技の主体であるだけでなく、演技の対象でもある。第二幕では彼女の肉体がさらに大地に沈み、「最高にめかしこんだ」ウィリーは苦労して彼女に「乗る」。これは通常芝居に期待される大団円のパロディーなのだ。 ( 中略 ) 雰囲気においても、物理的な詳細においても、実際の舞台上の光景に限りなく接近した演劇的テクスト。当初、彼は『しあわせな日々』を一幕ものの戯曲として考えていたが、後に出来事をまったく等分でない二つの別々の部分に分けた。一幕構成では、戯曲の葛藤そのものの枠組みとなる視覚的な対照を失うことになる。芝居の実際に通暁したベケットの舞台感覚は、二幕構成のもたらす決定的に豊かな響きを、確実に捉えたのだ。  122

「おまえが見に帰ったあのとき子供のころおまえが隠れたあの廃墟はまだあったかい……。」(『あのとき』より) 140

『あのとき』は一九七六年、ロイヤル・コート劇場で、『芝居』ともう一つの新作『あしおと』とともに三本立てで上演された。『あのとき』にはパトリック・マギーが、『あしおと』にはビリー・ホワイトローが主演した。 ( 中略 ) この戯曲にはたった一人の女性の人物(メイ)と、二つの女性の声、すなわち、舞台上で台詞を唱える声と、「暗い舞台奥から」聞こえてくる声が登場する。ここではベケットは二人めの人物 ―― メイが永遠に彼女の「かわいそうな頭」の中に抱いている母 ―― を音声だけでつくりあげる。それゆえ、聞く行為は極めて個人的なものであるとともに、創造の神秘にかかわる神聖なものでもある。 ( 中略 ) 「足音が聞こえないとだめなの、いくら小さい音でもいいから」というメイのように、観客にも時間の中で空間を通して聞こえる「あしおと」に耳を傾けてほしいのだ。メイは「あのことをすっかり」踏みしめて行ったり来たり歩きつづける。「あのこと」は、この芝居のもとの題名であり、彼女の過去の精神史でもあり、彼女の究極の舞台上の運命でもある。全体の雰囲気はすべてディミニュエンド ―― 光と空間と音の減少 ―― である。アクションの一つの区切れ目から次へと舞台上の時間が進行するとともに、すべてが「前よりもさらにかすか」に、そして「前よりもさらに小さく」なっていく。ついに、無残にも、なにもなくなる。なにもない空間が、苦しい「十秒間」の間そのままさらされ、そして致命的な「暗転」で終わる。だが、薄れていく残像は、一つの確固としたイメージに結実し、わたしたちの記憶に刻まれた音もまた理想的に成就する。 ( 中略 ) 「わたしの言葉もこのようにこだまする/君の心の中で。」エリオットの詩「バーント・ノートン」からの一行が、ベケットの叙情的な舞台のこじんまりとしたスケールにふさわしい形で再創造されたのだ。 140

自分が他人の意識の中に入っているという錯覚を提示するのに映画よりも一層向いている媒体として、ビデオにベケットが惹かれたのは驚くにあたらないだろう。ビデオはベケット自身が指摘したように、「のぞき穴の芸術」なのだから。一九六五年に書かれた『ねえジョウ』は、定位置のカメラによって部屋のなかを動きまわる物言わぬ男の姿を追う。一人でいるところをカメラにとらえられたこの男は、『フィルム』でおなじみの行動を繰り返す。だが、ひとたびジョウが落ち着くと、女性の声が侵入し、過去のできごとの苦しい思い出を語って彼を悩ませる。「声はジョウにとって具体的な人物なのです」 ( 中略 ) 「彼女は本当に彼の頭の中でささやいていて、彼には彼女の声が聞こえるんです。彼女が生身の人間であってはじめて彼は彼女に殺意を抱くことができます。彼女はもう死んでいるのですが、彼にとってはまだ生きています。彼はこれらの声を殺したくてしかたがない、だが、それはかなわぬ望みなのです。」  144

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ベケットの作品におけるなけなしの一致は、三を一単位とし、三角形の定理または三位一体を思わせる。 166



スケッチ------------------------------------
『しあわせな日々
―― 当初、彼は『しあわせな日々』を一幕ものの戯曲として考えていたが、後に出来事をまったく等分でない二つの別々の部分に分けた。一幕構成では、戯曲の葛藤そのものの枠組みとなる視覚的な対照を失うことになる。芝居の実際に通暁したベケットの舞台感覚は、二幕構成のもたらす決定的に豊かな響きを、確実に捉えたのだ。 122

ゴドーも2幕もの。
コンビ、カップル、対 ―― ベケットの傾向 ―― 二幕ものもこの点に重なる。










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