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ベケット論/リチャード・N・コー 諏訪部仁訳(1972


―― 1 挫折の芸術
「希望」は一定の予測しうる時間の継続を暗示している ―― そしてこの継続こそベケットが心底から疑っているものに外ならないのだ。固有の道徳的連想をともなう「絶望」は、人間の情況に対するベケットの態度を言い表すのに全く不適当な言葉であり、この情況はまた、その定義の最も新しい意味において、「不条理《アブサード》」というわけでもない。それは文字どおりにそして論理的に不可能ということなのだ。そして、この「不可能性」という中心概念に、彼の思索はその起源の大部分を発している ―― そしてまた、彼の芸術も。 10

事実、芸術とは不可能性の解明なのだ。人間の状況とは、定からぬ<無《ネアン》>を内に抱きながら、これまた定からぬ外ならぬ<無《ネアン》>との可能な関係を意識し、しかも、その意識の故に当の関係を無効にしてしまう、という状況に外なるまい。芸術家は ―― 芸術家であるが故に ―― ないもの、ありえぬもの、を芸術において現前させ創造するよう強いられているのだ、なぜなら、それは具体的な表現(絵具あるいは言葉)によって現出されるやいなや、それ自身であることをやめてしまうのだから。従って、その芸術家は必然的に挫折せねばならぬ。そしてまた、ベケットの芸術も同様に挫折の芸術なのだ。それは、定義によって、当然為しえぬことを成就しようと努めているのだから ―― いったん創造され定義されてしまえば、“<無>に外ならない一切の物と関わりあっている<無>としての<人間>”という人間状況の真実を開示するためにはそれが当然とらねばならぬ姿とはちがってしまうものを創造し定義しようと努めているのだから。 13

ジョイスと同じく、彼は言葉に取り憑かれている。しかし、『フィネガンス・ウェイク』の作者にとっては、言語が創造の神秘の本質的な部分であったのに対し、ベケットにとって言葉は、挫折の芸術の主成分に他ならない。すなわち、言葉は、我々が誰であり、また何であるかを知ることから、我々永久に遠ざけてしまう難攻不落な障壁を形成しているのだ。 22

<無>とは、定義によって、直接言語によっては表現できないものなのだ。かくして、あらゆる言語は見かけ倒しであり、独立した詩の言語は、その中でも、この上なく剣呑で人を惑わすものとなる。ベケットは、つまるところ、言いえないことを言おうとしているのであり、従って、彼は言葉が彼に言わせようとしていることを言わないように絶えず警戒していなければならない。( 中略 )在るものをしだいに除去して、在らざる究極的リアリティを人間の精神が言い当てる可能性が生じるのだ。 25


●ベケットが詩の書き手として失敗した微妙な理由 ――
ベケットの詩のなかで最良のものは『ホロスコープ』であろう。その理由はこの作品だけが「語り手《ナレイター》」 を導入しているからだ、ということは少なくとも考えられる。この作品の「わたし」は、ベケット自身ではなくてデカルトである。これこそ三部作につながっていく導線 ―― <擬 ― 自己《スードウ・セルフ》>、語り手《ナレイター》 ―― その「わたし」は、一読しただけではベケット自身と見分けがつかないが、明らかに、生きている人間とはかけ離れた次元を動いている。 29


ベケットの「わたし」は、はなはだ精巧に創られた発明品である。その本質的な機能は、主体の機能と言うよりはむしろ、客体の機能であり、これは、内省の衝撃を受けた個性の崩壊を、過去にその比を見ないほど詳細に踏査することを可能にしている。と同時に、それは間接的に彼自身とかかわっているのだ。展開ぶりは、抽象的な哲学体系に似ていても、これにともなう不安はベケット自身のものである。それは依然として作者と読者の間にいる「第三者」なのだが、この第三者は、いわば、透明になってしまったのだ ―― がそれでもなお、これは一個の独立した実体であり、しかも非 ― ベケットなのだ。そして、この<擬 ― 自己《スードウ・セルフ》>という鮮やかな技法がプルーストに由来していることは、まず確実であろう。 30


「芸術」とは何か? 言葉では言い尽くせない時間外の神秘か? あるいはむしろ、「所有」の奪い合いにおける、最高の技術的完成か? ベケットが容認する唯一の芸術は、我々が既に見たように、不可能を試みることによって、「ブルジョワ」的素姓を免れる芸術、すなわち、挫折が約束されている芸術のみである。だからこそ『マーフィー』以後、彼はプルーストの難問への新しい解答を執拗に模索しているのである ―― 時間と空間のなかに拘禁されている非 ― 時間《ア・テムポラル》な存在である「わたし」は、いかにしたらこの拘禁状態から脱出することができるのか、時間と空間の外側には<無>が横たわっており、わたしのリアリティの奥底にある「わたし」もまた<無>であることを知っているこのわたしが? 32


―― 4 死者の長きソナタ
マロウンにとって、死という行為は、モロイにとってそうであったほどは、本質的に無縁なものではない。なぜなら、まず第一に、肉体の死は苦痛を伴うが、その苦しむという事実のなかに、マロウンは自分のアイデンティティを把握できるかもしれないというかすかな期待を持っているのだから。彼の興味をそそるのは、受難の根本的に無償の性質、すなわち、ある特定の苦痛や悲惨の明白な「原因」が、その苦痛に満ちた経験を説明したり正当化したりするのに不十分であるという事実である(「まるで、まるで苦しむものと苦しませるものの間に関係があるみたいだ」(『マロウンは死ぬ』)と彼は叫ぶ)。受難は因果律を免れており、しかも無原因の<虚空>から生じているので、<自己>と同じ存在の位階に属して、たぶん、<自己>のリアリティの真の実証的証拠となるだろう。そうであればこそ、マロウンは何よりもまず受難を熱烈に歓迎する ―― いや、自ら進んで自分の体を傷つけさえする、マックマンの「看護人」レミュエルがハンマーでするように。だが困ったことには、受難の最も明白な「証拠」が肉体に属するので、一時的でしかも末梢的なものにすぎない、ということだ。「そのすべてが何と耐えやすいことか!」このような訳で、彼は苦痛感をとおして直接自らの内面に到達しようという試みを放棄することにしぶしぶ同意する ――  91

>91
受難はその性質上、無原因無動機であるが、その結果はたぶん、級数の最終項のように、逆方向に作用するだろう、すなわち、自らの存在によって先行する原因を創りかう決定するのだろう。それは「罪」の「償い」であるが、その「罪」は「償い」の原因ではなく、むしろ償うという行為が罪の論理的必要性を創っているのだ。その罪が何であるか、マロウンは全く知らない、

自分の罪が何であるかはっきりとは分からぬままに、彼は身にしみて感じていた、生きるというだけではその十分な償いにはならない、というよりこの償い方自体が罪であって、そのためにさらに償いを要求することになり、それがまた償いを、といったぐあいに果てしなく続いてゆくのだ、これではまるで、生きているものにとって、生きること以外にまだ何かやれることがあると言わんばかりではないか、と。(『マロウンは死ぬ』)

―― それでも、受難の非合理な要素は、少なくとも非合理な何かが別に存在していることの証左となるものである ―― 理性の把握を超えた<自己>の存在、とは言わないまでも、少なくとも、<自己>と<罪>がその一部を成す、非合理な事物の秩序が存在していることの証左と。生はそれ自体が目的なのではない、生は受難が存在しえるために、また、<自己>が、それに真に属している無原因無時間の<全体>と接触し続けて、結局はこれと再結合しえるために、存在しているのである。『終盤戦』のクロヴも同じ考えをもっている、

わたしは考えた ―― ときどき、クロヴ、もしひとが ―― いつか ―― おまえを罰するのに飽きてほしいと思うのなら、もう少しうまく苦しまなくちゃいけない。わたしは考えた ―― ときどき、クロヴ、もしひとが ―― いつか ―― おまえを出て行かせてくれたらと思うのなら、もう少しうまくここにいなくちゃいけない。(『終盤戦』)


「モロイ」は一人だったが、「マロウン」は数人存在しえるのだ(便宜上、彼はこれらを、マロウン……サポスカット……マックマン、というさまざまな名前で呼んでいる)、そして、その各人が、彼の<自己>に外ならない内なる<虚空>に対して同一の関係を有しているのである。このようにして、語り手としての彼の「わたし」は、どのような仮の姿をとろうとも、彼自身からは離れて立っていて、いっそう超然と観察していられる訳だ。彼はモロイが「モロイ」であることにコミットしていたほどには、「マロウン」であることにコミットしていない。そして、もし ―― これが彼の究極の目的なのだが ―― 彼が彼の“擬―人格”の一つ(この場合はマックマン)の死を、彼のより恒久的な“擬―人格”「マロウン」の死に精確に一致させることができるならば、その時にはあるいは、彼の「わたし」がその両者から離れて、死のメカニズムをゆうゆうと観察できるかもしれないし、また、その“瞬時 ― 無限”の決定的瞬間に、非時間的<自己>の<無>を捕らえたり、あるいは、見通すことができるかもしれないのだ。 94

マロウン自身は不在である。マックマンを観察できる超然たる「わたし」は、おそらく同じ瞬間に、マロウンをも観察できるだろう ―― したがって、それ自身が死ぬのを見守ることもできるだろう。そして、もしこれが真実なら、もしマックマンとマロウン双方が死んでいるのなら、生き延びて自らの肉体の死を見守ることができる「わたし」とはいったい何であり、またどこに存在するのか? さらにまた、時間も形も次元も持たぬが故に死から免れている筈のあの<自己>は何であり、またどこにいるのか? これらは、<名づけえぬもの>が答えねばならぬ問題である。 96

>97~
マロウンにはマロウン固有の問題がある。彼が「終末」と思われるものに近づけば近づくほど、時間 ―― 彼の時間 ―― はいっそうゆっくり進むようになるということに彼は気づく(これに気づくのは、ベケットの登場人物のなかで彼が最初である)。事実、昼と夜の進行がでたらめになるのだ。彼はまず、「奇異な」光の振舞いのなかにそれを見出す。夜明けが、昼という時間を経ないで、夕方へと直行してしまい、「昼の言語」は意味を失う。実際、マロウンがゼロに接近するにつれて、彼にとっての時間は、再度循環小数のように、無限へと延びて、ますますジリジリと目標に肉薄して行くが、これに到達することは決してありえないのだ。そして、マロウンは彼の先行者のように、だが彼らより深い戦慄をもって、時間は、時間である限り、終末をもっていないということ、従って、時間のなかにいる彼にも終末はないということ、を少しづつ理解するようになる。彼の死、同時に彼の再生でもある彼の真の死は、決して訪れないだろう。突如彼は理解する、「自分は明日からはるかに遠い」と。

かくして、彼は「昔の憤怒の炎」を燃やしながら理解する、時間をつぶさねばならないということ、 ―― ひとおもいに、それを絶滅し、タンタロスよろしく、彼を永久に近くまた遠く縛りつけているこの網を破らねばならないということ、を。そして彼はそれを断行する。形而上的に荒れ狂う訳だ。今日的な意味における彼の「物語」は、「時間をつぶすために」つくられているのであり、彼が生きている人々を殺すのも、彼らが時間のなかで生きているからにほかならない。

あるいは、彼は、体内の奥深く、時間がもはや何の意味も持たぬほどのある静寂を育て上げる ―― 事実、彼と彼の世界にとっては、時間が止まっているのだ。( 中略 )が、何の効き目もありはしない。時はやはり止まらないのだ。それは減速するだろう ―― が、それでも、消滅はしない。時は消滅しない、したがって、マロウンもまた消滅できない。彼の「死」は、時間そのものが停止するまで、「リアル」な死、終焉、とは決してならないだろう。( 中略 )終わりはなくて、待つことだけがある。

これだけたっぷり待った男なら、永遠に待つだろう。そしてやがてこういう時がやってくる、もう何も起こらない、もう誰も来ない、そしてすべてが終わって、ただむなしいと分かっていながら待つということだけが残る、そういう瞬間が。(『マロウンは死ぬ』)

死を待つのではなくて、文字どおり<無>を待つのだ。死の彼方に、<無>はなく、さらに待つことだけがある。地上の煉獄は、より奇妙でより物悲しい次元をもつもう一つの煉獄 ―― 『名づけえぬもの』の煉獄 ―― へと変貌するにすぎないのだ。

―― 正しき沈黙
>102
意識に関する知識 ―― これは「わたし」の領域である ―― はポジティヴで有限だが、<自己>無限で虚空である、というのがベケットの考えであり、したがって、自らを消滅させるという行為によらずに、一方が他方を把握することは絶対にできないのだ。しかし、自らを消滅させた知識はもはや知識ではなく、沈黙と化した言葉はもはや言葉、思想ではない。このような訳で、客観は文字どおり不可能である ―― が、それは何としても成し遂げねばならぬ、答の得られぬたった一つの疑問の次元に永遠にとどまり続けるのは、とても耐えられぬ苦痛だから。疑問は答えられねばならぬ、が、答えることはできない ―― かくして、

わたしにはわからない、決してわからないだろう、黙っていてはあなたにもわからない、あなたは続けねばならない、わたしは続けられない、続けよう。(『名づけえぬもの』結句)

で、この小説は終わる。


>103
「永遠」(無限時間、非時間)には、終末も発端もありえず、運動も思索も(思索は言葉であり、言葉は持続のなかにだけ、時間のなかにだけ存在しえるのだから)、記憶も人格もありえない。「わたし」はないのだ。が、「わたし」はある、または、あるように見える。<名づけえぬもの>は、自分に一定の形をした肉体があることをぼんやりと感じている(「卵の形、卵の堅さとは言わないまでも」)、しかし何よりもまず、彼は自分がものを考えることを知っており……だからこそ、彼は考え、ゆえに彼は存在する、のだ。彼は「言葉のなかにいる、言葉でできている、他人の言葉で……」したがって、彼は非時間的な状態のなかにある時間的な現象 ―― 一つの例外であり、ただ一つの解答以外は入る余地のない論理的矛盾なのだ。彼は結論せざるをえない、「非時間」とは円形を描いて進む時間のことだ、と。「永遠」は、時間の有限な連続が無限に繰り返されることとしてのみ想像可能なのだ。さらに、時間が永遠に対して循環的であるならば、同じことが空間に関しても言えるだろう。「わたし」は、アインシュタイン的四次元に移行することによってのみ、死を生き延びることができるのである。
永遠における時間の循環的性質へのこの目覚めは、<名づけえぬもの>の最初の大きな経験である。例えば、彼に先立つ「代理人」であるマロウンは、彼と比較すれば、固定された望遠鏡に映る惑星のようなものだ。「彼は一定の間隔をおいてわたしの前を通って行く……彼はわたしからほんの二、三フィートのところを通って行く、いつも同じ方向に向かって」。マロウンは、何となく、平面の軌道を動いているように見えてしまうが、おそらくこれが、彼が本質的に非実在である証拠なのだろう。ところが、<名づけえぬもの>は、自分の動きがもっと複雑であるように感じており、「わたしは一種の螺旋のなかに巻き込まれてしまったらしい」と感慨深げに述懐している ―― 一方は死の終末へと続き、他方は「無限へと……あるいは、地球かな?へと続く螺旋のなかに。そして、これはまた、彼の最初の新しい<擬 ― 自己> ―― バジル、後の名はマフード ―― の経験でもあるのだ。


<自己>は、それ自体について考えたりはしないものだが、自らを知るためには考えざるをえまい。しかし、この考えるということ、さらには、在ること、物思いにふけることさえが、以後絶対に止めることのできない運動に第一衝撃を与えることとなるのだ。このような訳で、<自己>が<自己>について考えるということは、自己破壊を意味する。それは、例によって、否定語以外では定義できないものなのだ。それは「わたし」ではない ―― 従って、それは「非 ― 我《ノット・アイ》」である。こうして、<名づけえぬもの>は、彼の化身のなかでも最後にして最も異常な、<絶対否定>の化身へと変じ、これに便宜上、<虫《ワーム》>という名を与える。 107

>112
マフードはワームに変身できないのだから、残る方法は、ワームがマフードにいわば手を差し延べることだけ( 中略 )
もしワームが、意識の一要素、一つの感覚、例えば聴覚、を持っているならば、もしワームが一つの考えを持ち、一つの単語を使えるならば、彼は一切が言葉でできているマフードと交信できるだろうし、マフードが握れるような一本の糸を深み越しに投げ渡すことができるだろう。この思いつきは、少なくとも試みる価値はある。かくしてベケットは、「登場人物」の感覚をだんだんと除去していって、彼らをワームに接近させるといういつもの順序を逆転させ、種々の感覚を一つ一つ付与されているコンディヤック(フランスにおける最初の感覚論哲学者)の大理石像のイメージを借りて( 中略 )ワームに音を聞くことを試みに許す。( 中略 )
音の聞こえるワームはもはやワームではなく、彼自身の投影にすぎないことを彼は悟る。自らを思い描く<無>は<無>ではない。「おれはワームだ、とういことはつまり、おれはもう彼ではない、ということだ、なにしろおれは耳が聞こえるのだから」。かくして、最後の実験も失敗した。
それでも<名づけえぬもの>はもがき続ける。彼は<言葉>に失敗した ―― それなしでは、いかなる思想もいかなる意識も存在しえないのだが、そうかといって<自己>のものではない<言葉>、マフード、マロウン、マックマン、モロイ、等の<他者>、すなわち彼の「代理人」だけに属していて決して彼自身には属していない<言葉>に。サルトルと同様、ベケットにとっても、文字どおり「他者こそ地獄」なのだ。というのも、我々はそれを自分で創らず、他者から学ぶのだから。他者は話、我々は聞く。我々の頭脳のなかにあるいかなる思想、いかなる記憶、いかなる人格の断片も、他者によって恣意のまま創られて我々の頭脳に納められたものなのだ。ベケットは、サルトルの<他者>の概念を拡大して、「わたし自身」以外の人格ばかりか、種々な現われを見せるわたし自身の「わたし」をもそれに含めている。わたしが自分自身だと認める「わたし」は、本質的な<無>との関係においては既に<他者>なのである ―― 「わたし」という概念自体が、外部から学んだ言葉によってつくられているのだから、これは必然であろう。かくして、<名づけえぬもの>は、完全なる絶望のうちに、ワームや<無>の概念でさえが、彼の<自己>のリアリティからは無限に隔たっていることを悟るようになる、なぜなら、<無>という言葉自体とその概念は、<他者>がいなければ存在しえないのだから。<無>とは、「かれら」が発する言葉に外ならない。そして、これが分かってからというもの、「かれら」はますます脅迫的に物語のなかに侵入し始める。<名づけえぬもの>は、悪意と軽蔑にあふれた「かれら」のグループによって、自分が取り囲まれていると感じる。

「耳元で、訳の分からないことを歌ったり、叫んだり、陳述したり、ささやいている他人の声のおかげで、スパイロ氏の言っていることが何も聞こえなかった」ワット以来、ベケットを悩ましてきた問題である。<名づけえぬもの>は、最後に必死の努力をふりしぼって、かれら自身の強力な武器 ―― 言葉 ―― で「かれら」に打ち勝とうと試みる。彼には言葉きりないのだから。だが、言葉は合理的で時間のうちに存在するものである。もし、彼が言葉の合理性を打破するか破壊するかし、言葉を、時間と構造を無視した巨大な滝の如きごたまぜとして流出させ、コンテクストから言葉を切り離して、世界、いや宇宙を言葉で氾濫させることができれば、その時には、一つのチャンス、ごくわずかでも想像できぬほどながら一つのチャンスがある ―― 一兆分の一ほどのフロックで、彼自身のリアリティへと姿を変えるか、さもなければ、今までもくろまれなかったような使い方をされた言語の裂け目から、ベケットの登場人物のすべてが模索してきた斬新な非在の言語(発しえずして発せられた、<自己>までに達する、「わたし」の言語)の最初の痕跡が現れるチャンスが。この戦略はおそらく成功している、最後の数ページになって「かれら」が後退しているから。だが、判然とはしない、<自己>の究極の言語は沈黙であり、『三部作』は沈黙のうちに終わっているから。しかし、それは「正しき」沈黙 ―― <涅槃>の沈黙なのか、それとも、疲労の極の沈黙なのか? 「沈黙を守るのも結果だが、その沈黙の種類も見なければならない」(『名づけえぬもの』)問題は依然未解決なのだ。 116



スケッチ------------------------------------
―― 受難はその性質上、無原因無動機であるが、その結果はたぶん、級数の最終項のように、逆方向に作用するだろう、すなわち、自らの存在によって先行する原因を創り ―― それは「罪」の「償い」であるが、その「罪」は「償い」の原因ではなく、むしろ償うという行為が罪の論理的必要性を創っているのだ。その罪が何であるか、マロウンは全く知らない、

これは不可能性の探究、まっとう、徹底に通じそうだ。
それを「ある」としたところから始める、科学研究や実験の検証/論証のように。
「わたし」が生きているかぎり、死んだ女への「殺意」は存在し、また、死んだ女は、女として、死として「わたし」とともに在る ―― これはパラドックスではない。謎というよりも透明な存在に近づいていく。
ベケットの散文の役割についての想像力 ――




ジョンソンとボズウェル―事実の周辺 (中央大学学術図書)






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