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ベケット 果てしなき欲望/アラン・バディウ 西村和泉訳(2008


ベケット 果てしなき欲望/アラン・バディウ 西村和泉訳(2008

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―― 美
修正、すなわち語を分離する働き。拡張、すなわち思い出の詩的な挿入。言明、すなわち散文を突如出現させる役割。逸脱、すなわち無惨な失敗を伴う優しさ。中断、すなわち滑稽な箴言。延長、すなわち異文《ヴァリアント》のフレージングによる具体化。これらが主要な作用であると考えられる。ベケットのエクリチュールは、これらを通して大地の無情さを明確に述べると同時に、無情さの深さに応じてそこに含まれないものを浮き彫りにしようと試みる。
散文における美から出発しなくてはならないのはそのためである。ベケットが救い出そうと望んでいたものが何であったかをわれわれに教えるのも、この美である。なぜなら、あらゆる美、とくにベケットが目指す美は、分離する運命を持つからだ。美が再現し、印をつけた外見を経験という普遍的な核であるものから分離すること。ベケットを文字で捉えることが何よりも必要である。美という文字で。文字は分離の機能を通して、価値あるものと向き合うためには無視すべきものがあると教えてくれる。 27

―― 方法的苦行 29
ベケットは、彼なりの方法でデカルトやフッサールから発想を得ていた。思考する人間について真剣に追及しようと望むなら、まず重要でない疑わしいことすべてを中断し、人間を打ち消し難い諸機能に立ち戻らせる必要がある。ベケットの「登場人物」の欠乏状態、すなわち彼らの貧しさ、病気、奇妙な不動性、さらには明確な目的地を持たない彷徨。人間においては、終わりのない悲惨のアレゴリーとみなされることが多いこのような状態は、いずれも経験の慣習《プロトコル》に他ならないことからも、主体を純粋な言表行為の空虚さへと導いたデカルトの懐疑や、世界の自明性を意識の志向的流れの自明性に還元したフッサールのエポケーと比較する必要がある。

フランス語作品の前半期において、ベケットの方法的苦行は次の三機能に分けられる ―― 運動と静止(行く、歩き回る、あるいは倒れる、転ぶ、横たわる)、存在(そこにあるもの、場所、外見、あらゆる同一性《アイデンティティ》の揺らぎ)、言語活動(語りの至上命令、沈黙の不可能性)。「登場人物」とは、行程や同一性や耐え難いおしゃべりの集合体に他ならない。つねに恣意的で偶然性の組み合わせ《モンタージュ》として示されるフィクションは、この三機能に還元できないすべての例外を浮き彫りにするとともに、三機能が欠かせないことを明証しようとする。 30

不動性のメタファーは死体の中で完成される ―― 「死ぬ」とは、可能なあらゆる運動性を完全な静止に変えることである。だがここでもまた、機能の非還元性ゆえに「死ぬ」ことは決して「死」ではない。『マロウンは死ぬ』では、運動と言語活動が、いかに存在と不動の極限まで影響を及ぼしているか、そしてその結果、不動性の地点がたえず先延ばしにされているのかがわかる。浮動性の地点とは、次第に縮小してゆく運動と記憶《メモワール》と言葉の網が決して到達できない限界としてしか設定されることはない。ベケットの詩法とはこのように、束縛の斬新的な軽減と、不動性の瞬間を遅らせるものの解体によって構成されている。運動が弱まり静止との差がなくなると、静止そのものは運動と言語活動の総体と化し、散文体の減速とその断片化の加速との奇妙な混合体として示される。 31

作家にとって ―― この点は哲学者と異なるのだが ―― 思考を操作するのは、散文におけるフィクションである。存在が逃走をやめ、自身を無に変えるためには、フィクションの中に場所を設定し、そこに存在を位置づける言語が必要となる。存在のフィクショナルな場所に名を与えること ―― ベケットは創作の大半をこのことに捧げている。 39


―― 出来事とその名

出来事の問題について、ベケットにはさらに乗り越えるべき段階がある。それは、出来事に意味を見出そうとする(これは期待はずれの方法である。なぜなら出来事はまさしく、あらゆる意味の規定を外れているからだ)意志を、出来事に名を与えるというまったく別の欲求に変えていく段階である。 58

『ワット』において、思考には出来事が存在するという可能性がある。だが、ひとたび出来事に呼び覚まされると、思考の動きは意味の根源や反復へ戻ってゆく。ノット氏邸が持つ運命的な魅力は何よりも強い。だが、そこで起こるさまざまな出来事は、想定されるあらゆる意味の根源につねに結びつけられるという問題が残る。 59

「見そこない言いそこない」とは何を意味しているか?
出来事とは「見そこない」に他ならない。なぜなら、それはまさに可視性という通常の掟を逸脱しているからである。「よく見える」ことは、われわれを場所の中立性や存在の灰黒に連れ戻す。出来事、つまり「起こること」の形式のまばゆさは、不意打ちを与えて、見ることやよく見ることを誤らせる。
だが、出来事とはまた「言いそこない」でもある。なぜなら、よく言うことは既成の意味の反復でしかないからだ。たとえ意味という口実の下であろうと、出来事の形式上の新しさを一般的な言語が担う意味に引き戻すのは論外である。出来事の「見そこない」には、言葉による創作や未知の命名行為が対応しなくてはならないがゆえに、言語の通常の掟からすれば、それは「言いそこない」として現れる。
「見そこない言いそこない」とは、見えるという掟(すなわち現前《プレザンタシオン》)を逸脱する純粋な出現と ―― この出現に詩的に想像された新しい名を与えることで ―― 言うという掟(すなわち再現前《ルプレザンタシオン》)を逸脱するものとの可能な調和を示しているのだ。
すべては、出来事とその名の詩的な出現の間に見られる調和の上になり立つのである。 60

ベケットが「見そこない言いそこない」の動きを散文に定着させていった手順を慎重に記してゆこう。
1、出発点は「観察」であり、見ることやよく見ることといった正規の役割を担うと考えられる。「観察」は(眼は「苦しみに耽る」とベケットは書いているが)、そこにあるものや存在の宙吊り状態について考え尽くす。
2、苦行の方法によって単純な特徴に還元された出来事が、単調に繰り返される観察から逸脱した「突然」の喧騒《ノイズ》として現れる。
3、「意識の目覚め」。つまり思考は出来事の下でのみ覚醒する。
4、思考の目覚めにかかわる問いは、まず説明に向けられる(「これはどう説明しよう?」)。これは『ワット』の主調をなす言い回しである。だが、それとはまったく別の「どう言えばいい?」という、名にまつわる問いのために、主体はすぐその説明を諦める。
5、その名は二重に創造され、言語の通常の掟から二重に逃れている。それは「あまり普通でない」とされる「崩落」という名詞や、「異例」なだけでなく、名詞とは相容れない「物憂い」という形容詞から作られている。つまり、この名は詩的に構成されており(言いそこなうもの)、出来事における「突然」の意外性(見そこなうもの)と一致した言語における意外性を示す。
6、その一致は、観察の責苦に抗して「希望の薄明かり」を生み出す。これはたしかに、ささやかな始まりでしかない。しかしこの始まりは、あたかも恩寵のように一致を呼び起こす思考の中に見られるのだ。

始まりとは何なのか? 希望とは何なのか? 新たな出現と名の詩的創造との間に束の間の一致を保つ潜勢力とは何なのか? それは真実への希望と言っても過言ではないだろう。
意味、すなわち意味の責苦とは、そこにあるものと一般的な言語の間、「よく見ること」と「よく言うこと」の間の、終わりのないむなしい一致である。われわれは、この一致が言語活動によって命じられたのか、存在によって規定されたのか見きわめることさえできない。これは率直に言って、あらゆる経験主義の哲学を疲弊させる責苦なのである。
真実は、「形式上ではきわめて明快」といった分離しうる出来事と、言語における名の創造との間の秩序ある一致から生まれる。その名は、出来事が避けようもなく「色」あせ、ついには消え去ってしまおうとも、それを保持し続ける。名は、言語の中で出来事を守ることを保証するであろう。 64


―― 他者たち
ベケットのあらゆる逆説的な楽観性は次の点に集約される。それは、ほとんどないがまったくないわけではなく、きわめて稀に、敗北組が捜し手の側に戻って来ることである。これこそ、ベケット特有の自由の概念と呼べるだろう。 69

『たくさん』や『見ちがい言いちがい』と並んで、おそらくもっとも重要な散文である『事の次第』においては、別の原則にもとづいて分けられたいくつかの形象が見られる。
人間という動物たちは、食料の入った袋を持って黒い泥のようなものの中を這ってゆく。旅人に与えられる至上命令には、次の四つの可能性がある。 
1、一人で闇の中を這い続ける。
2、能動的な立場で誰かと出会い、闇の中でその上に倒れこむ。これが加害者と呼ばれる形象である。加害者の主な活動は、必要に応じて被害者の尻に缶詰の蓋の先端を突き立てて物語や別の人生の話や“かすかな記憶《レミニセンス》”を無理強いすることであると気づかされる。このことは、加害者もまた「人べらし」を受けて彼が出会う者により孤独から解放され、暗闇を際限なく這い続けることから逃れたいという望みを示している。
3、出会った者から見棄てられること。闇の中でじっとするしかない。
4、別の誰かとの出会い。今度は受動的な立場で。闇の中でじっとしていると誰かが上に倒れこみ、受け身の者はその誰かに物語の持ち合わせを与えなくてはならない。これが被害者と呼ばれる立場である。

ここでは、人間の総称的《ジェネリック》な形象を列挙することで、運動/静止、自己/他者という一対の組み合わせが再度もたらされている。われわれは旅をする一人にも不動の一人にも、加害者にも被害者にもなれるのだ。
これらの形象は、いかなる者も他の者の優位に立つことはないという厳しい平等の原則に支えられている。われわれは「加害者」や「被害者」といった言葉の使用に戸惑わされない。ここには、いかなる悲しみも倫理も含まれていないからである ―― 散文の倫理を除いては。ベケットは散文の倫理が誇張されるであろうと予告している。人間という動物が取りうる形象の無名性と平等性を守るには、言葉がつねに「響き」すぎるからである。この形象の平等性は、まことに深遠な次の言明の根拠となっている。

 いずれにしても(……)わたしたちは掟にしばられているこれに異議を唱える声を聞いたことなし(『事の次第』)

ここで述べられている掟は、いかなる規範や目的とも無縁である。これは総称的な人間主体によって示される形象の存在論的平等性に関わっている。
人が加害者や被害者になり、言葉や物語を無理強いする時について、ベケットは「ストイックな愛の生」を際立たせるのだと言う。それは二重の絆を撚り合わせる。つまり、主体とその他者や人べらし役との出会いに、愛という真の名を与えること、そしてその出会いを過去の甘美な物語に結びつけること。
他者との出会いのフィクショナルな設定のおかげで、われわれは独我的なコギトの横暴な限界を乗り越え、愛の力とノスタルジーの潜勢力を同時に見出すのだ。
(この章、終わり)


―― 愛 75
(冒頭)
愛から生まれる出来事とは、出会いである。一九三〇年代以降、ベケットは『マーフィー』の中で、出会いの潜勢力は、感情や欲望する身体に内在する何にも勝るようなものであると強調する。

 (……)わたしの言う意味での出会い(……)とは、どんなやさしい感情の力をも凌駕し、どんな熟練した肉体的運動の力をも凌駕するものなのだ。(『マーフィー』)

(ベケットの書く「二人組み」)相異はいったい何によるのだろう? 『事の次第』では、人間という動物が他者の上に倒れこんだ後に加害者と被害者の形象が見られた ―― 前者を「男性」、後者を「女性」と呼ぶことにしておこう(ベケットがこの言葉を使わないようにしているのは確かだが)。この区別が主体の「同一性《アイデンティティ》」と無関係である点は強調しておかねばならない。「彼女」が他者の上に倒れこむという出会いがもとで、被害者は結局加害者になりうる。だが、与えられた愛の状況(出会いによって生まれるものを「愛」と呼ぼう)の内部から、これら二つの形象が必然的に現れるのだ。
これらは能動と受動の対立にはとうてい要約できない。その点からも、ここではベケット作品の構成の複雑さに注意を向ける必要があろう。
たとえば、しばらく後に、「闇の中での不動の」加害者を置いて出発するのは被害者である。その点からも、袋を持って旅をする者はみな「女性」か少なくとも女性に由来する側面を持つのに対し、闇の中で静止したまま見棄てられる者はみな「男性」か少なくとも男性に潜む側面を持つと理解すべきである。したがって、女性を規定する運動性は男性における陰鬱な不動性の傾向と対比することができる。
同様に、加害者の形象は明らかに掟《しきたり》や至上命令のそれを示している。だが、この形象はいったい何を示すのだろう? これは、被害者から奪い取った物語、かすかな記憶《レミニセンス》、そしてベケットが「青の 祝福された 時」という素晴らしい名を与えたものに関わるすべての断片に見出すことができる。それを根拠に、男性の側に(喜びと苦しみが半々に入り混じった)「続ける」という至上命令があるとすれば、女性の側に物語の潜勢力、彷徨の記録、そして美しさの記憶《メモワール》が配置されているといえよう。
最後に、すべての出会いは四つの大きな機能を定める。それは彷徨の強制、不動の苦しみ、至上命令の喜び、そして物語の創造である。
この四つの機能をもとに、出会いは有性の立場の出現を決定づける。すなわち、「男性」とは至上命令と不動の、「女性」とは物語の融合形であると言えるだろう。  77


―― 演劇 93
かすかだけれど、たしかに見えなくはない、光のぐあいによって。(間。)光のぐあいさえよければ。(間。)白というよりは半白、白いものがわずかにまじっている。(『あしおと』ベケット)

ベケット演劇の特異性 ――
二人の登場人物の対話や諍いや口論なくして舞台はなり立たないため、彼は苦行のような方法を通して、二人組《ル・ドゥー》からもたらされる効果に演劇性を絞った。たとえ年老いて退屈でかなり性悪な存在であっても、二人組み《カップル》の無限の潜勢力を示すこと、そして二重性のあらゆる効果を言葉で捉えること ―― ベケットの演劇的操作とはこういうものである。これらの二人組《デュエツテイスト》はしばしば道化師に例えられてきたのだが、それはまさしくサーカスが、状況や筋立て、説明や解決ではなく、(オーギュストとクラウンの対象性に象徴される)きわめて身体的な二重性の極端な形象《フィギュール》を直接的に生み出すことに重きを置いているためである。この身体の直接性は、ベケット演劇に顕著にうかがえる特徴である。 99

ベケットは( 中略 )喜劇の主要な伝統を受け継ぐ、二十世紀唯一の偉大な作家である。対照的な二人組、時代遅れの服装(偽りの「上品さ」、山高帽など)、筋の展開よりも重視される演目の一貫性、下品な冗談、罵り合い、スカトロジー、高尚な言い回し(とりわけ哲学用語)のパロディ、あらゆる本当らしさへの無関心、そして何より、いかなる困難があっても自分の存在を信じ続け、状況によってたえず非合理か不可能とされてしまうような欲求の原則(生の潜勢力)を維持しようとする登場人物の執拗さがそれを示している。 100

不自由であることは、人間の条件における悲壮なメタファーではない。喜劇には、好色な盲人、愛欲にかられた不能な老人、さんざん殴られても誇らしげな奴隷、まぬけな若者たち、誇大妄想狂の跛行者などがひしめいている。このカーニヴァル的系譜には、ほぼ首まで土に埋まり幸せな日々を褒め称えるウィニー、盲目で手足が麻痺し意地悪で、当てのない勝負を、気をゆるめることなく最後まで徹底的に行うハム、つまらないことでも気晴らしし、気を取り直して「会う約束」をひたすら守ることができるヴラジミールとエストラゴンの二人組も含める必要がある。 100

人間の労苦の無名性の形象 ――
ベケット演劇の、滑稽味をたっぷりとつけ、受け継がれた形式の不断の多様性 ―― このように演じることで、喜劇の真の存在理由 ―― 象徴でも変装した形而上学でもなく、まして嘲笑でもなく、人間の執拗さや果てしなき欲望、意地の悪さや頑固さに帰す人間性への強い愛 ―― が初めて明らかになるのだ。 101


―― 美、ふたたび 103
恐怖に倦み疲れた目が、かくも長いあいだ祈るようにすがりついてきたすべてのものの上を、あさましく去りがてにさまよいつつ、最後の祈りをこめる、ついにほんとうの祈り、何物をも求めない祈り。そしてそのとき祈願成就のかすかな気配に、死んでいたかずかずの憧れが生きかえり、沈黙の世界にひとつのささやきが生まれて、どうしてもっと早く絶望しなかったのかとやさしくあなたを咎める。(『マロウンは死ぬ』224)

だが、もしふさわしい時に絶望するのが良いとすれば、それは願いがかなうことによって祈りの気苦労から一時的に解放されるためではないだろうか? 決して何も求めないこと、それこそベケットがもっとも望んだことである。彼の散文は、その気苦労により息を吹きこまれているから美しく、また散文それ自体には、全存在 ―― 存在が消えた舞台、そこですべてが演じられるが、それ自体は何も演じない薄暗がり、そして無名の場所にある星々や、世界の劇場の彼方にあるテントに開けられた無数の孔のごとく、その舞台を瞬く間に人で満たす出来事 ―― を構成するものに、できるだけ近いところにとどまることしか求めないから美しいのだ。 104

生と散文の長い忍耐力は、薄暗がりの中断、そして存在と語りが結びついた究極性という二つの意味を持った一つの終わりの可能性を美の中に固定する何かを永久に生み出すためだけに存在する。 104

――
「事件」としてのベケット/近藤耕人
――
「私は目覚めた人生の前半を、ベケットの中で無限に進むと思われる対応《コレスポンダンス》のニアミスや失敗、<曖昧化>、のらりくらりのすべてを修正したり込み入らせたり引き延ばしたり、無限化したりすると見える一切のものを指摘し、また彼の作品のいたるところにつきまとう有限に対する執着をゆるめることに費やした」 ―― スティーヴン・コナー 140

(往々にしてベケットとの出会いは)外的な接触で肯定的に起こるというよりも、自分の内部の怠惰な日常に潜在していた、否定的な習慣の傾向の現実を目覚めさせ、そこに存在=生と死の条件を確認させる。その共感と緊張は、同時に安心と苦行の反復の道=時間を歩む工夫と力を喚び起す ――  141

美 ――
ここで意味されている美とは分離の美であって、それは言葉を意味から分離する働きで、そこから出現する散文、逸脱、中断、延長の美から出発しなければならないという。バディウがいうベケットの美とは、文学言語の経験的意味を離れた、それ自体の取捨選択、組み合わせ、衝突、否定、復活、反復が、その背後の仄暗い空《くう》の中からなにかの価値を喚び起こし、暗示に成功する詩の効果であり、音符としての言葉の演奏である。
根本的な「分離」ということがなく、伝統と近代とが共存してきた日本と違って、「分離」はヨーロッパでは民族、宗教、政治、文化の断絶・独立を意味する歴史的な用語だが、ここには言語の物質的な素材が意味・名から分離するという、サルトルの不条理思想以来の、革命的な反言語観が秘かに挿入されていて、そこにはマラルメの、音楽としての、また絵画としての詩語の配置の「美」が響いている。 143

苦行 ――
バディウはベケットの初期のフランス語作品に見られる主人公たちの「苦行」として、運動/静止、言語活動、存在の三つの機能を挙げている。( 中略 )
バディウの分類した三つの機能は、文学者が生と死の極限で存在を考えるとき、それは文学の生と死の極限である言語の、意味を切り捨てた形と音に至ることを思えば当然の成り行きではある。しかしそれが考えることあるいは見ることといった、思考と感覚を超えた、いわば人間の生きる条件を超えた、薄暗がりでの不動と沈黙の先に残る言語であるところが、人間の存在の、あるいは文学の存在のぎりぎりの境界線の営みであることが分かる。そこに残された言葉は、歩くことを止めて立ち尽くした足元に見出された墓石のような、あるいは骨のような残骸であるが、その間からなおも幽霊ならぬ、テレビの残像ならぬ、文学の芽=目が出てきて、開き、言の葉が伸び続けるかという、文学の境界である。 144

自己の中の<他者>性は、ロマン主義者の自我の無限拡大や、サンボリストの純粋精神の追及、超越的幻想との一体化の希求などの後、精神分析が発見した無意識の領域、シュルレアリストによるその探求と表現、二度の世界大戦での非人間性の体験、科学技術の発達による人間の機械部品化と記号化、そして商業的大衆文化の環境での不条理性や反文学、反演劇、言語の日常的意味の剥奪といった二十世紀の流れの中で、主要な哲学的課題であるとともに、文化・社会のテーマとなってきた。それは「物と言葉」の主題の下に繰り返し論じられ、またそれ以前に他者はすでに疎外や孤独の用語とともに、技術文明の必然的な現象となってきた。 145

ベケットはデカルトの心身二元論の責苦の洗礼を受けた後、自らも精神分析を受けながら、『マーフィ』の終わりで、マーフィがエンドンとチェスの長考対戦を続けるうち、相手の凝視する空なる眼の中に自己の不在を認知して、エンドンという他者の中で自己が完全に消滅しているのを体験するところから文学を出発させる。「わたし」は他者の前で無であり、眼前の他者こそ存在であり、そこにはわたしの眼すらも反映していない。エンドンは生き残り、あるいは終わり続け、わたしは存在が終わるのではなく、ただ消滅して跡を残さない。存在はなかったのである。Endonという名前ならぬ名前だけが残る。 145

ベケットは作品の主人公たちにこの苦行を課して、人間というものが運動、静止(死)、言語活動(至上命令の)、同じでかつ異なるものというパラドックスの複合体であることを追求する。それはプラトンが『ソピステス』で論ずる「有、同、動、静、異」の五つの上位のイデアと近似しているとバディウは示し、プラトンが思考の普遍的条件を定めたのに対し、ベケットの最後の、そして最大の問題作ともいえる『さいあくじょうどへほい』は言語と存在の関係を追及したものだと挙げている。 146

ベケットの主人公の存在の条件を苦行と見て、倫理的にとらえたり、なにかの掟の運命の下にあると悲劇的に見るのは危ういことだが、これはベケット批評の一つの限界点である。主人公やその家族たちを他者として否定的に設定しながら、なおも記憶や記録装置や宇宙の運動と時間、幾何学や仄かな感覚を頼りに、自己が他者につながるかすかな場所を諦めずに求めて廻る言語の軌跡がベケットのテクストである。 146

―― 三つの主体
「発話の主体」「受動的な主体」「問いかけの主体」とバディウは三つの主体を認め、さらにこの三つの主体の統一体に「真の」主体を見ようとするが、ベケット自身はそういうことをいっているわけではない。三つもあるような主体は主体といえないのである。主体という言葉どころか、一人称すらベケットの『伴侶』の中ではなくなっている。ジョイス『フィネガンス・ウェイク』のように、言語が主体であるともいえるが、ベケットは自己の言語も否定しており、それが消滅する灰黒の場所で、バディウは「中間的存在と空虚な省察を交互に用いることをやめ<……>存在の場所に還元されることも、声の反復に同一化することもない第三の表現を見出す必要が生じた」といって、『事の次第』以降、出来事と他者の声が重視されるようになったと考える。 149

――
訳者あとがき/西村和泉
――
不条理や絶望は条理や希望を前提としているのだが、ベケットの世界はもともと空虚《ヴォイド》以外の何物でもなく、否定や喪失に向かう過程では決してない。( 中略 )ベケットの特異性とはおそらく、その困難にねばり強く取り組み続けたことにあるのだろう。( 中略 )ベケットの文章は後期作品へ向かうにつれ、次第に短く断片的になってゆくのだが、それは言葉の行き詰まりでも喪失でもなく、それがより明瞭さを増すことを示している。( 中略 )根源的に意味を欠いた世界で生き続ける勇気を与えてくれる。 169


スケッチ ――
言葉は常に「的外れ」でしかないならば、認識→出来事の意味・物語(の想起、としての対象の需要)は、どうしたって誤解の産物ということだ。
それなら、前もって「全ては恣意的なあてつけ」と心構えし、出来事に意味を汲む(本質や核心があるとか、心理や真実が含まれているみたいな)/汲めるという先入観(ロマンス)を排し ―― なんにしたってこじつけだけれど ―― 「名づける」(そのことのもっともらしさや厚かましさ、罪を自覚したうえで意味づける/汚す)という態度(散文という行い)こそ、ベケットの誠実さ ―― リアリティやこの世の実相・人間の存在の様態のトレースになり得た(それにしてもいつまでも近似値でしかないという苦悶、煉獄だが)のかもしれない。

















●ベケットノート
ダブリンの4人―ワイルド、イェイツ、ジョイス、そしてベケット
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-57.html

なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ訳
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-58.html

ベケット論/リチャード・N・コー 諏訪部仁訳(1972
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
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アランバディウ西村和泉近藤耕人ジョイス事の次第フィネガンス・ウェイク

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