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疎外の構図  ―安部公房・ベケット・カフカの小説―  ウィリアム・カリー 安西徹雄訳

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疎外の構図  ―安部公房・ベケット・カフカの小説―  ウィリアム・カリー 安西徹雄訳

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『蹴り損の棘もうけ』から


「おお、神様!」彼は言った。「まだ生きてる」
伯母さんはエビを見た。エビはもう一度動いた。油布の上で、それは、微かな、生命ある物の痙攣を示したのだ。二人はエビを見おろして立っていた。油布の上で、十字架状に体をさらしているエビ。またしてもそれは身をよじった。ベラックワは吐きそうな気がした。
「ああ、神様!」彼は泣きだしそうな声で叫んだ。「こいつ、生きている。どうしよう」
伯母は笑い出すほかなかった。目を見はってエビを見おろしているベラックワをそのままにして、伯母は急いで食器の置いてある部屋に行くと、気の利いたエプロンをつけて帰って来て、両袖をまくりあげた。およそテキパキと事務的だ。
「そりゃ」と彼女は言った。「エビはやっぱり生きてなきゃね」
「ずっと生きていたんだ」ベラックワは口の中でボソボソつぶやく。それから、彼女の持っている恐るべき道具に突然気づいた。
「何をするつもりなんです」彼は叫んだ。
「ゆでるのよ」伯母さんは言う。「ほかにどうしろと言うの?」
「でも、まだ死んでないんだよ」ベラックワは抗議した。「生きたままゆでるなんて!」
伯母さんは驚いて彼を見た。この子、気でもちがったのかしら。
「当たり前でしょう」彼女は怒った声で言う。「エビはいつでも生きたままゆでるものです。それが当然というものです」彼女はエビを手に取り、仰向けにした。エビは身をふるわせた。「エビなんてものは、何も感じはしないのです」
深い海の底で、エビは残酷なツボにはいこんだのだ。何時間も、敵に囲まれたただ中で、エビはこっそりと息をしていたのだ。エビは飼猫の爪にかかる危険を生きのびた。だが今、エビは生きたまま煮湯の中に放りこまれようとしている。それは避けがたいことだ。空中に消えよ、わが静かなる息。
ベラックワは、古い羊皮紙のような顔を見つめた。うす暗い台所の中で灰色に見える。
「なんて大騒ぎをするんだろう、お前は」彼女は怒って言った。「びっくりするじゃないか。お前の晩御飯のために急いでるんですよ」
伯母さんはテーブルからエビを取りあげた。エビにはもう三十秒の命しかない。
まあ、ともかく ―― とベラックワは考える ―― 死の苦痛もすぐ終わるだろう。神よ、われわれみなに御慈悲をたれ給え。
だが、死の苦痛は短くはない。












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