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ベケットといじめ/別役実(1987)




ベケットといじめ/別役実(1987)
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不条理劇とはなにか 131
不条理劇とは何なのかというと、切り口はいろいろありまして( 中略 ―― 説明するとなると大変だろうと思うし、説明もしきれないが、一般的にいうと )近代の否定、近代的個人の否定という考え方が一番わかりやすいと思います。



不条理劇のドラマツルギー 131
不条理劇のドラマツルギーは、個人というのは近代的個人ではもうなくなってきているところから出発している。そしてこれは同時に、言葉に対する不信感であったともいえるわけですね。ある意味で、近代的個人というのは言葉でする人間の概念だからです。



近代は言葉の時代 ~ベケットが散文で目指したもの 132
人間にとっては言葉がひとつの行動でもあり、認識活動の手がかりであると考えられていたのですが、したがって近代は言葉の時代だという感じがするのですが、今日言葉そのものが現実から遊離しはじめて、言葉それ自体がひとつの自己完結を目指しはじめたのではないか。言葉が認識し、言葉が解読する世界と現実の世界があるわけですが、現実の世界と言葉が認識して解読する世界の間に若干のズレがある。極端なことをいえば、言葉は現在存在そのものの実質をむしろカモフラージュするものになってきているのではないか。その存在をカモフラージュする言葉をどう剥ぎ取っていくか。どう存在そのもののほうへ目を向けていくかというところに、不条理劇のドラマツルギーはあったという感じがある。



言語化できない実質には届かない 136
言葉は非常に多様ですから、「石である」という言葉はなくても、「なんか小さいもの」だとか、「硬いもの」だとか、「得体の知れないもの」だとか、「役に立たないもの」だとか、幾重にもそれは言葉で保護されている。それらを全部、「石である」という言葉をまず剥ぎ取って、「硬いものである」という言葉を剥ぎ取って、「小さいものである」という言葉を剥ぎ取って、剥ぎ取っても剥ぎ取っても言葉につつみこまれていて、言語化できない実質には届かない。いかないのだけれども、もしいったら、そういう言葉が全部剥ぎ取られて分類不可能、位置づけ不可能なものにまでいったら、だれもそれに対応することができなくなって、文明そのものが混乱しはじめ、やがて破壊されてしまうだろう、というわけです。



熱波はかぶりつき席に起こり、そして広がる 148
舞台からいきなり個々の観客に伝わっていくのではなくて、前のほうから人から人へ伝わってゆく。たとえば昔の舞台でもかぶりつきというのがあって、ここには熱狂的なファンが坐ったものらしいですが、これがまず湧いて、その熱気が後ろへ伝わってゆく、それが何回か繰り返されることによって、舞台に対する目が共有されてくる、共有感覚が生まれてくる。共有感覚が生まれるためには、いきなり舞台がパッと放射的に全員に伝わるということはほぼない。




p164 別役さんが引用
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ベケット作
『息(Breath)』(1966)高橋康也訳
ベケット戯曲集3 白水社(1986)
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幕が開く。

1
さまざまながらくたがいっぱい散らかっている舞台に、かすかな光がさす。およそ五秒間、そのまま。

2
かすかな短い叫び声、と同時に息を吸う音がきこえ、また光がゆっくりと明るくなってゆく。両者とも、およそ十秒後に、最大点に達する。そこで沈黙。およそ五秒間、そのまま。

3
息を吐く音がきこえ、また光がゆっくりと暗くなってゆく。両者とも、およそ十秒後に、最小点(光は1と同じ明るさ)に達する。と同時に、2と同じ叫び声。沈黙。およそ五秒間、そのまま。

幕がおりる。



反比例する指示性と存在感 170(要約)
よくある手法なのですが( 中略 )役者がリンゴをもって「これはリンゴです」という。それが「もしかしたらリンゴかもしれない」「まさかリンゴじゃないだろう」「これはなんだ」とリンゴである事実を弱める台詞をいう。これは指示性を弱めるとういことです。一番指示性が強いのは「リンゴである」、最も弱いのが「これはなんだ」。
一方、存在感は指示性が弱まるほど際立ってくるのです。「もしかしたらこれはリンゴかもしれないよ」と観客の視線をリンゴのほうに働かせ、リンゴという言葉で言い表せない実質 ―― 存在感のようなものが強くなる。言語的に確かめられたリンゴである事実を通り越して、その向こう側に別な実態を探ろうとするからですね。
不条理激の空間の中では、明らかにこういうパラドックスが成立するようになってきた。




スケッチ------------------------------------
ベケット自身は「不条理」という言葉を認めていない。それは「条理」の対にある概念だし、「条理」は筋や理屈、文脈であり、それらは「言葉」が確かであり、その言葉でもって言い得る、定められる、共有される、定義できるものという前提があるからだ。ベケットはこの前提を疑い、唾棄した。そのうえで散文や戯曲、演劇を試みたのだ。もちろん人生をも含めて。


批評家や評論家が、ベケットの不条理についての見解を知ったうえで、それでもベケットに「不条理」を読むのであれば、ベケットを納得させることも認められることもなかろうと、それもひとつの矜持だろう。アングルやフォーカスというのは誰に批判されるものでもないし、批評や評論は作家本人を納得・了解させなければならない、というものでもない。
作家に正面から挑まない批評に面白いものがあるかどうか、おれは知らないけれど。


ここに汲んだ別役さんの言葉は、直接的なベケット批評ではなく、みずからが試みてきた演劇を通じ、体得した「不条理」という言葉ならびに「不条理劇」の特徴を述べたものだ。とうぜん、ベケットの名を冠した本(講義録)だし、ベケットを不条理と呼んでいるに等しいが、この点をおれは、ベケット/不条理とわけて考え、別役さんの言葉を読んだ。ベケットを不条理というのはナンセンスだが、この本には、だとしても ―― 別役さんの「不条理感」に教わろう、と思わせられる見解、観察、分析がたくさんあったのだ。
たとえば「ベケットが言葉や定義、常識に馴らされることなく執筆を行うというのはどういうことなのか?」という疑問には「近代は言葉の時代」だとか「言語化できない実質には届かない」が直接的なヒントをくれる。





ベケットノート
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疎外の構図  ―安部公房・ベケット・カフカの小説―  ウィリアム・カリー 安西徹雄訳
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ダブリンの4人―ワイルド、イェイツ、ジョイス、そしてベケット
R・エルマン 大澤正佳訳(1993
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なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ訳(1990
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ベケット論/リチャード・N・コー 諏訪部仁訳(1972
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ベケット 果てしなき欲望/アラン・バディウ 西村和泉訳(2008
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ベケットとヴァン・ヴェルデ/シャルル・ジュリエ(1996
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ベケットといじめ/別役実(1987)
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