和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

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永井一郎の「朗読のヒント」/永井一郎(1999)

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細胞でとらえたイメージ


 「目の前に絵をつくれ」と言うけれど


表現とはイメージを伝えることです。しかし、音声表現ではそれが意外にむずかしい。だれもが知っている日本語を読むだけという安易さのなかで、肝腎のイメージがおろそかになってしまうからです。
( 中略 )
「クスさん(楠瀬一途/声楽家)は、景色として砂山と海を見てるだけでしょ。あなたが実際に砂山にいなくちゃ。なにをはいているかな。ゴム草履じゃないよね。時代がちがうもの。わら草履かな。指の間に砂粒がはさまっているかもしれない。日が暮れて、砂地はだんだん冷えてきてるんじゃないだろうか。空気はどうかな。冷たい潮風だろうな」
彼は、私の言うことを忠実にやってみようとしました。自分のまわり全部にイメージの世界をつくろうとしました。冷たさの実感を得るために、裸足にもなりました。( 中略 )イメージを「目の前の絵」から「いまいる空間」に変えたのです。そして、五感を総動員して現実感を得ようとしました。 30


「あなた、景色が見えますか」ではなく、「あなた、そこにいますか」なのです。そして、「そこにいる」ことを実感するには、からだが感じていなければならない。イメージの世界の、温度を、湿度を、匂いを、五感で実感していなければ、イメージいているとは言えないのです。( 中略 )「あなた、あの人のことがわかりますか」ではなく、「あなた、あの人になれますか」ということにつながっていきます。



●動詞で考える 42-
(あるグループの勉強会では)表現読みのための書き込み、ということをやります。どう読むかという目安を、題材に書き込んでいくのです。ここで題材として選ばれているのは、「はじめて小鳥が飛んだとき」という題の詩です。詩の一行めは題材と同じで、書き込みは「うれしそうに大きな声で」となっています。私は考え込んでしまいました。「うれしそうに」とか、「大きな声で」とか、「ゆっくり」ということばは考えたことの結果です。結果論としての書き込みで反復練習しているうちに、表現者の頭は結果に支配されはじめ、考えた過程を忘れてしまいます。指針のつもりの書き込みが規制になってしまうのです。そして、ただ「大きい声」を求めるだけになり、声は実態を失い、大きな声がむなしく響くだけということになりがちです。


まずどんな小鳥かイメージしましょう。子どもだち一人ひとりちがう小鳥でもかまいません。たまごの殻が割れて小鳥が生まれます。親鳥がえさを運びます。雨の日もあります。風の日もあります。枝がゆれます。どんどんイメージしていきましょう。小鳥は育ちました。飛ぶ日がきます。一行めの書き込みはなにになるでしょうか。私なら子どもたちに自分なりのことばでこう書いてもらいたいと思います。
「小鳥が飛んだんだ。ボク見てた。教えてあげるよ」
あとは子どものなりゆきです。「うれしそうに」でも「大きな声で」もありません。自分が見たようすを、好きなように話してくれればいいのです。
書き込みは形容詞や副詞ではなく、動詞で書くべきです。表現するということは行動なのですから。 43


「危ない!」というセリフの書き込みを「(声を)大きく」にしたとします。にもかかわらず、ある子どもが突然小さな声で「危ない!」と言ったとしましょう。それが大きな声より感動的であっても、ほかの子どもたちは大きな声でなかったからまちがいだと思うでしょう。もしまちがいだと思わないのならば、書き込みを形容詞や副詞にすることには意味がないことになります。書き込みは「注意する」とか「危険を知らせる」という動詞のままにしておくほうが自由な表現ができるといえるでしょう。 46


「世の中や人間を観察してください。記憶を探してください。役作りをしてください。日常の気分を持ち込まないでください。日常の気分に逃げ込まないでください。日常の気分を切り替えてください。必要な一定の気分を保ってください。イメージを広げてください。内容を理解してください。その内容と自分の感動を伝えてください。集中してください」 84


「風」は「水のように」「冷たく」「すきとおって」います。それをことばで説明しようとするとすべての形容詞や副詞をことさらに立てる結果に陥ります。「冷たい」のですから冷たく感じさせようとし、「すきとおる」を強調しようとします。こうなってはもうおしまい。「思い入れたっぷり」な表現になってしまいます。表現は重くなり、ことばはリズムを失います。112
( 中略 )
イメージがあるから思い入れるのではないかという勘違いが「もっと客観的に読んでもらいたい」ということばにつながるのだと思います。しつこいようですが、イメージがあるから思い入れるのではなく、イメージが貧困だから思い入れてしまうのです。頭だけの解釈を形容詞をいじくることで表現しようとしてしまうからです。113



●ベケットについて 70-
猛烈な数の間(ま)を書いた劇作家がおります。サミュエル・ベケットです。ことに「しあわせな日々」という戯曲ではすさまじい。ベケットでもさほど間が出てこない作品が普通ですから、「しあわせな日々」の間の数は意識的なはずです。この戯曲の第二幕、ウイニーという人物のセリフは、一ページ二八字一八行で、一八ページにわたる長いセリフですが、その中に間という字が二八五個ほども出てきます。「ほど」というのは数えまちがいもあるでしょうということ。数え直す根気は私にはありません。
この二八五個の間という字を全部消してしまって、ほとんど劇作家のように、間を演出家や役者にまかせてもよさそうに思えます。それでも大きな間違いはないと、役者の立場からは言いたいくらいのものです。しかし、なおベケットは指定しました。「その間」が「その場所」でどうしても必要なような、意識や、理性や、感性や、行動を要求する、というわけです。ベケットという人は、よほど人を信用しない人だったのかもしれません。
まちがいなくベケットの世界をつくり出すためには、二八五個の間が成立するようなセリフを言わなければなりません。二八五個の間が覚えられるでしょうか。たとえ覚えられたとしても、「ここで間だ」などと意識した瞬間に行動の流れはとぎれ、表現は生命を失ってしまうでしょう。



●気分のコントロールだってプロの技術 82
日常で声が変わる一番の原因は「気分」です。「気分」でなら男だって声が変わります。プロが一番大切にしていることは、表現に必要な一定の気分を常に取り戻し、それを保つということです。そしてそれ自体が、技術の一つなのです。


とてもいいときがあるのに、つぎの稽古ではだめになってしまう人たちがいました。情緒的に演じる人たちです。そのときそのときの気分でやっているので、それがはまるときはいいのですが、ちょっとまちがうとリアリティーをはずしてしまいます。このタイプの人たちは、イメージをつくってその中に身を置くということが苦手です。朗読はこうするものだという固定観念があって、それから離れることができないのでしょう。 126



●ガンダムについて 85-
(コメディばかり演じていた自分に、なぜナレーションの依頼があったか、わからないままスタジオに入る)
まず作品全体のイメージをつかもうとしました。この先、物語がどう展開していくかはカンでつかむしかありません。かなり重い作品になりそうだという予感がありました。同時に人間のやることに極めて批判的な作品になるはずだと思いました。( 中略 )
私はナレーションでも主観でやるべきだと思っています。ガンダムのナレーションは、歴史を物語るのですから、いわゆる客観的なトーンでも成立したかもしれません。それなら、低音のアナウンサーでもよかったでしょう。では、どうして高音でギャグ専門の私が起用されたのでしょうか。この際、私なりのものを出すべきだと考えました。
( 中略 )
「人類がふえすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、すでに半世紀。地球の周りには、巨大なスペース・コロニーが数百基浮かび人びとは、その円筒の内壁を人口の大地とした……」
「地球の周りには」と読んだとき、台本の斜め下、一メートルほど向こうに、小さい小さい、仁丹の粒のような地球が見えました。瞬間、私は真っ暗な宇宙の高みにいました。背中に氷のような冷たさを感じていました。私は自分を神だと思いました。このときかたちが決まりました。



●なまりはもう一つの遺伝子(『永井一郎の朗読のヒント』88p~) 88
他民族に自らのことばを捨てさせるのと、日本国内のなまりを矯正するのとは意味が違うという意見もあるでしょう。しかし、私にはまったく同じに思えるのです。
( 中略 )
子どもはただ、「母親のことば」を覚えるのです。( 中略 )それが何語であっても関係ありません。方言もなまりも関係ないのです。
( 中略 )
支配者はそのことをよく知っています。他民族を支配するには民族のことばを奪います。
アイルランドは、イギリス語圏に組み込まれながらイギリスの支配を拒否しつづけています。フランコ政権に奪われていたことばを取り戻したカタルニア人は、スペイン語とカタルニア語の両方を正式の用語にしてバルセロナ・オリンピックを成功させました。独立を取り戻したバルト三国はそれぞれのことばを取り戻しているでしょうか。


・地方からの亡命
一九三五年にハンガリーで生まれたアゴタ・クリストフのうえを、ドイツ語とロシア語が通り過ぎていきました。五六年のハンガリー動乱で西側に亡命したアゴタはスイスに在住しながらフランス語で小説を書いています。彼女は『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』の三部作で、幼いころ第二次大戦を経験した双子の兄弟のアイデンティティーを探し求めます。自分は何者なのか、ほんとうに双子だったのか、はたして存在したのか。それは雪の白さの中にかすんでいきます。
ハンガリーはあります。しかしアゴタのハンガリー語はどこへいったのでしょうか。ことばを失わせるということは、個人の存在すら疑わせることになるのです。それは国家の、そして時代の大きな犯罪です。
なまりが否定されるということは、母親の言葉が否定されるということです。それは、母やふるさとが否定されたことにほかなりません。しかも国家によってです。



●幸福願望 130
小説に登場する人物も、芝居の登場人物も、詩にうたわれる人も、詩をうたう人も、みな幸せを求めます。これを幸福願望と呼ぶことにしましょう。作品を理解するには、登場人物一人ひとりの幸福願望を理解することが早道です。
一人の幸福願望は、ほかの人の幸福願望とぶつかり合います。それがドラマです。
「感情なんて演じられるものではありません。感情はあなたの行動がなにかとぶつかったとき、自然に生まれてくるものです。役の人物の行動を正確に行動してください。そしてあなたを取り囲むすべての状況や人物をきっちり受け止めてください。ただ喜怒哀楽を出せと言われたら、私にだってできません」131
スタニスラフスキーは、俳優は舞台で「行動せよ」と言いました。行動するためには、行動を促す「欲望」を正確に読み取っていかなければなりません。欲望を正確に読み取るためには、その欲望がなぜ起こってきたかを理解する必要があります。私は、欲望が起こってくる原因を「幸福願望」と呼んでいます。131


二、三ヵ月の稽古は役の人物の幸福願望を発見するために費やされるのです。 133


どんな人間も幸せを追求します。人物がなにを自分の幸せとしているかを探してください。それがわかれば役づくりはほとんど出来たと言えます。小説を読むときも、人物の求めていることがわかるかどうかを考えてください。
わたしは「ナウシカ」に入ったとき、ミトの幸せはなにかを考えました。そしてミトの幸せは「ナウシカを守り抜く」ということだと決めました。迷わずすべてをそこへ集めてくるために「決めて」しまうのです。
ミトにとって「ひめさま!」が一番重要なセリフでした。 20



●朗読の心構え ~わたしは「自分を解放する」ことを目指す
1.からだの力を抜く
2.朗読することに喜びを感じるよう、自分をもっていく
3.誰が誰に読んでいるかを決めます
4.何に感動し、何を伝えたいのかをはっきりさせる。そして、内容と自分の感動を伝えることだけに集中する
5.究極の一行を見つけ、すべてをそこへ追い込んでいきます。これは、作品全体の理解が必須です。





●声優・朗読入門トレーニング/福島 英(2007)
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-70.html


●これが本当の朗読だ/高梨 敬一郎(2005)
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-71.html


●永井一郎の「朗読のヒント」/永井一郎(1999)
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-72.html

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