和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

黒髪ボブの三十路ピーターパンがWakayamaライフを着流しでスケッチ

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悪童日記/アゴタ・クリストフ

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解説/堀茂樹
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〔作文が〕「良」か「不可」かを判定する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくたちが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。
たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「おばあちゃんは魔女」と呼ばれている」と書くことは許されている。
「(小さな町)は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら、〈小さな町〉は、ぼくらの眼に美しく映り、それでいて他の誰かの眼には醜く映るのかも知れないから。
同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかも知れないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。
ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「お母さんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがる美味しさを「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」は、ひとつの感情を指している。
感価を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分白身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。



主人公の双子(「ぼくら」)が書いた「作文」の集積がすなわち『悪童日記』のテクストなのだから、右の一節に開陳されているような明晰な意識にもとづく彼らのエクリチュールは、この小説の執輩に臨んだアゴタ・クリストフ白身のそれにはかならない。こうしてわれわれ読者の前に繰り出される文体をどう形容すればよいのだろうか。反抒情的、反主観主義的、反解釈主義的? むしろ単に「科字的」と言ってしまおうかという気もするのだが、この文体から時折、息を呑むようなポエジーが伝わってくるので、それはやはり躊躇する。客観描写を旨とする俳句に近いものを感じさせる言葉遣いであることは確かだと思う。
いずれにせよ、A・クリストフの文体はすぐれて自覚的で、なまなましい事象を扱いながら対象への感情の投影を排するのみならず、個々の事象の観念的ないし心理的説明をも余計なものとして退ける。しかし、それは、ヌーヴォ・ロマン風の即物性に閉じこもるためでは全然ない。作中人物を行動主体として、その他の事象を作中人物を取り巻く状況の形成要素として描いていることがその証左だ。ただ、その際、作中人物についてもその他の事象についても、客観的に真実であることを確かめられるようなこと、すなわち事実だけを、思い入れや価値判断やいっさいの解釈を抜きにして記す。その結果、彼女のテクストにおいては、事象はいかなる形においても主体の内部に呑み込まれることのない客体である。一方、作中人物は、ある感情の束でも、ある観念の化身でも、ある心理状態の形象でもなく、したがって所与の事態に対する行動以前には無であって、まさに自由な主体としての行動によってのみ自己のアイデンティティーを定義し、更新していく存在として表れる。 296





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         本     文
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盲と聾の練習
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ぼくらのうちの一人が盲人を、もう一人が聾者を演じる。慣れるため、初めのうち、盲人役はおばあちゃんの黒い三角の布を目に当て、聾者役は耳に草を詰める。三角の布は、おばあちゃん同様、臭い。
ぼくらは手をつなぐ。警報が出て人びとが防空壕がわりの地下室に隠れ、通りから人影の消える頃合を見計らって、散歩に出かける。
聾者が、日に見えるありさまを語る。
「この通りは、真っ直ぐで長く続いている。左右に平屋が並んでいる。家並みの色は、白、グレー、薔薇色、黄色、青だ。通りの先に、公園の木々と泉が見える。空は背く、白い雲がいくつか浮かんでいる。飛行機が見える。五機の爆撃機だ。低空飛行しているよ」
盲人は、唇の動きを聾者が読み取れるよう、ゆっくりと話す。
「飛行機の飛んでいる音が聞こえる。底深い断続音だ。エンジンが全開しているな。爆弾を積んでいるのにちがいない。……その飛行機も、今は遠くへ行ってしまった。また、小鳥の囀りが聞こえ出した。それを別にすると、この辺りは静まりかえっている」
聾者は盲人の唇の動きを読み取って、答える。
「そうだ、この通りには人けがない」
盲人が言う。
「だけど今に、誰か現れるぞ。左側の道から近づいてくる足音が聞こえるんだ」
聾者が言う。
「おまえの言うとおりだ。現れたよ。男だ」
盲人が訊ねる。
「どんな風采の男だい?」
聾者が答える。
「ほかの男たちと同じさ。みすぼらしくて、老いぼれだ」
盲人が言う。
「それは先刻承知さ。足音が年寄りのものだって聞き分けられたからな。足音から、男が裸足だということも、だから貧乏だということも分かる」
聾者が言う。
「男は禿げ頭だ。古い軍服を着ている。ズボンの丈が短すぎる。足が汚い」
「眼は?」
「見えないよ。俯いているんだ」
「口もとは?」
「唇がすぼんでいる。きっともう、歯がないんだ」
「手は?」
「ボケットに突っ込んだままだ。ばかに大きなポケットで、何かがいっぱい詰まっている。ジャガイモかクルミの実だろう、ポケットにいくつか小さな瘤ができている。男がうなじを上げた。ぼくらを見ている。だけど、こっちからは、男の眼の色は見分けられない」
「ほかには何も見えないのか」
「皺が見える。彼の顔の、傷痕のように深い皺が見える」
盲人が言う。
「サイレンが聞こえる。警報解除だ。帰ろう」
その後、練習を重ねたぼくらは、目に当てる三角の布も耳に詰める草も必要としなくなった。盲人を演じる者は単に視線を自分の内側に向け、聾者役は、あらゆる音に対して耳を閉じるのだ。



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残酷なことの練習
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日曜日だ。ぼくらは若鶏を一羽捕らえ、その喉を、前に見たおばあちゃんのやり方に倣って掻き切る。息絶えた若鶏を台所に持って行き、言う。
「これを焼いて、おばあちゃん」
おばあちゃんが目をむく。
「わしの若鶏、誰が殺していいって言った?
おまえたちにそんなことをする権利はないよ! この家の主人はわしなんだからね、それは焼かないよ! それを焼くくらいなら、死んだほうがましじやわい!」
ぼくらは言う。
「厭ならいいよ、ぼくらが焼くから」
ぼくらは若鶏の羽をむしり始めるが、たちまちおばあちゃんに取り上げられる。
「やり方を知りもしないくせに! やれやれ、汚い悪ガキ、わしの人生の禍《わざわい》、神様の処罰、それがおまえたちだよ!」
若鶏が焼ける間、おばあちゃんはメソメソする。
「これはいちばん立派なやつだったのに……。あの二人、わざといちばん立派なのを選んだんじゃな。火曜日の市場に出すのにちょうどよかったのに……」
若鶏を食べながら、ぼくらが言う。
「これ、すごく美味しい。ぼくらね、これから毎日曜日、若鶏を食べることにするよ」
「毎日曜日だって? おまえたち、気でも狂ったのかい? わしを破産させる気かい?」
「ぼくら、日曜ごとに若鶏を食べる。おばあちゃんが何と言おうと、食べることに決めた」
おばあちゃんはまた泣き出す。
「わしがこの子たちに何をしたっていうのかねえ? ああ情けない! この子たち、わしが死ぬといいと思っているんだよ……。哀れな、か弱い年寄りのわしなのに。こんな目に遭う謂れはないのに。この子たちにこんなに善くしてやっているわしなのに!」
「そうさ、おばあちゃんは善い人さ、とっても善い人さ。だからその善意に満ちたやさしさで、ぼくらに毎日曜日、若鶏を焼いてくれるよね」
彼女が少し落ち着きを取り戻すと、ぼくらはこうも言う。
「何か殺すときには、ぼくらを呼んでね。殺すのはぼくらがやるから」
おばあちゃんはニヤリとする。
「おまえたち、殺すのが好きなんだね、そうじやろう?」
「そうじゃないよ、逆だよ、おばあちゃん。ぼくらは殺すのがいつも厭で、気が進まないんだ。でも、気が進まないからこそ、ぼくらは殺すことに慣れなきゃならないんだ」
おばあちゃんは言う。
「なるほど……。また新しい練習というわけだね。おまえたちの言うとおりじゃ。必要があれば、殺すこともできにゃならん」
ぼくらは魚から始めた。魚の尾を掴み、頭を石に叩きつける。ぼくらはたちまち、雌鶏、兎、アヒルといった、食用の動物を殺すことに慣れてしまった。そこで次には、殺さなくてもよい動物を殺すことにした。蛙を捕まえる。板に釘付けにする。その腹を切り裂く。蝶も捕らえて、ボール紙にピンで留める。何日かするうち、ぼくらの蝶のコレクションは見事なものになった。
ある日、うちの猫、赤毛の雄猫を木立の枝に吊るした。吊るされると、猫は長く伸び、異様な姿になる。びくっと跳ねたり、痙攣を起こしたりする。猫がついに動かなくなったところで、ぼくらは吊り紐を解いた。猫は草の上に伸びてぐったりしていたが、しばらくして急に起き上がると、一目散に逃げ去った。
その日以来、時折はその猫を遠くに見かけるが、猫はしかし、もう家に寄りつかない。ぼくらはミルクを小皿に入れて戸口に置いておくのだが、それを飲みにさえもやって来ない。
おばあちゃんが、ぼくらに言う。
「あの猫、どんどん野良猫になっているよ」
ぼくらは言う。
「心配しないで、おばあちゃん。鼠捕りなら、ぼくらが引き受けるから」
ぼくらは罠を作る。そして、その罠に引っかかる鼠を、煮立っている湯の中に投げ込んで溺れさせ、茹で殺す。



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恐喝
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ぼくらは司祭様の家に向かう。司祭様は、教会の横手の、司祭館と呼ばれる大きな家に住んでいる。
ぼくらが玄関の呼び鈴の紐を引く。
「何の用?」
「司祭様にお目にかかりたいんです」
「用件は?」
「今にも死にそうな人がいるんです」
老婆は、ぼくらを控えの間に通す。
「司祭様」と、彼女が声高に呼ぶ。
と、一人の老婆が扉を開く。
「終油のお願いです」
ドアの向こう側で返事する声が聞こえる。
「そっちへ行くよ。侍ってもらってくれたまえ」
ぼくらは数分間待たされる。痩身で上背のある、いかめしい顔つきの男が、隣の部屋から出てくる。男は地味な色合いの衣装の上に、白地に金色をあしらった袖なしマントのようなものを羽織っている。彼がぼくらに訊ねる。
「どの辺りの家かね? 誰が、おまえたちをここへ走らせたのかね?」
「(兎っ子)とその母親です」
彼が言う。
「私が知りたいのは、その人たちの正確な氏名だよ」
「正確な氏名は、ぼくたちも知りません。母親のほうは目が見えず、耳も聞こえません。二人が住んでいるのは町のいちばん端の家です。彼女たち、飢えと寒さで死にかけているんです」
司祭は言う。
「ふむ、その二人には私は会ったこともないが、しかし終油を授けることはできる。よろしい、行きましょう。案内したまえ」
ぼくらが言う。
「まだ終油の必要はありません。彼女たちには、少しお金が必要なんです。ぼくたち、薪にする柴と多少のジャガイモや干しインゲンを持って行ってやりましたけれど、それ以上のことはできません。<兎っ子>に頼まれてここに伺ったわけです。ときどき、彼女に小銭をやっておられたそうですね」
司祭は言う。
「そんなことがあったかもしれんな。私が施しをする貧者は大勢いるのでね、皆は憶えてはいられないのだ。ともかく、そういうことなら、ほら、これを!」
彼は袖なしマントのポケットをまさぐり、ぼくらの手に数枚の硬貨を握らせる。ぼくらはそれを受け取っておいて、言う。
「これはまた少ない。あまりにも少ない。これじゃ、丸パンを一個買うにも足りませんよ」
彼が言う。
「気の毒だね。だが、貧しい者の数は多いのだ。一方、信者たちはもうほとんど献金しなくなった。この頃は誰もが困っているのだよ。もう行きなさい。神がおまえたちに恵みを垂れ給うように!」
ぼくらは言う。
「ぼくたち、今日のところはこの額に甘んじてもいいですが、しかし、明日また、ここを訪れるほかあるまいと思いますね」
「何だって? どういう意味かね? 明日だって? おまえたちをここへ通しはしないよ。今すぐ、ここから出て行きたまえ」
「明日は、ぼくたちを中に入れてくださるまで、呼び鈴を鳴らし続けます。ぼくたちは窓も叩きますよ。玄関の扉なんか足で蹴ります。そして町の連中に、日頃あなたが〈兎っ子〉にどんなことをしておられたか、すべて話して聞かせますよ」
「私は〈兎っ子〉に断じて何もしておらぬ。〈兎っ子〉とは誰なのか、それさえ知らぬ。その子は、おまえたちに作り話をしたのだ。頭の弱い小娘のいい加減な話など、真に受ける者はおらぬ。誰一人、おまえたちの言うことを信じはせんよ。その子のお喋りは一部始終、嘘だ!」
ぼくらは言う。
「それが真実であろうと、虚偽であろうと、事態は変わりませんよ。要はね、誹誘中傷がおこなわれることです。世間というのは、スキャンダルが好きですからねえ……」
司祭は椅子に腰を下ろし、ハンカチで顔面に滲《し》み出る汗をぬぐう。
「こりゃあ、酷い。おまえたち、自分たちの今やっていることが何なのか、せめてそれくらいは分かっているのかね?」
「ええ、承知していますよ、司祭さん。ゆすりです」
「おまえたちの年頃で……。嘆かわしいことだ」
「そうですとも、ぼくたちがこんなことまでせざるを得ないというそのことは、ほんとうに嘆かわしい。けれどもね、司祭さん、(兎っ子)と彼女の母親には絶対にお金が要るんです」
司祭は立ち上がり、マントを脱いで、言う。
「これはきっと、神が私に課された試練の一つだ。いくら欲しいのかね? 私は金持ちじゃないよ」
「さきほどくださった小銭の額の十倍。一週間に一度。無理なことは要求していません」
彼はポケットからお金を取り出し、ぼくらに手渡す。
「毎土曜日に来なさい。ただし、私がこういうことをするのを、おまえたちの脅しに屈したからだなどとは、間違っても思ってはいけない。私は慈愛の心ゆえに、こうするのだからね」
ばくらは言う。
「それこそまさに、あなた様ならと、ぼくたちが初めから期待申し上げていたことなのですよ、司祭様」



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将校の友人
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将校はときどき、一人の友人、彼より若いもう一人の将校を連れて帰宅する。彼らは夕べを共に過ごし、友人はそのまま残って一晩泊まる。ぼくらは、将校の部屋の天井、つまり屋根裏部屋の床に空けた穴から、彼らの様子をたびたび観察した。
夏のある夕べ、従卒がアルコール焜炉《こんろ》で食事の用意をととのえる。彼が食卓にテーブルクロスを広げ、その上に、ぼくらが花を置く。将校とその友人が席に着き、酒を飲む。しばらくのち、食事が始まる。従卒はドア寄りの片隅に腰掛けて食べる。食事が済むと、彼らはまた酒を飲む。この間ずっと、ぼくらは音楽係を務める。レコードを取り替える。蓄音機を巻き直す……。
将校の友人が言う。
「このガキども、目障りだ。外に出しちまえよ」
将校が訊ねる。
「妬いているのか」
友人が答える。
「こいつらに? 冗談じゃないぜ! どうしておれがこんな野育ちの小僧どもを相手に」
「この子たちは美少年だよ、そう思わないのかい」
「そうかもしれんな。いちいち見ちゃいないから、何とも言えんが」
「ほう、そうかい、見もしなかったのかい……。それじゃ、今からとっくり見てごらんよ」
友人の顔が赤らむ。
「貴様、いったい何が言いたいんだ? おれはなこいつらの陰険そうな様子が気障りなんだ。まるでおれたちの話に聞き耳を立てているみたい、こっちを窺っているみたいだぜ」
「いや、そりゃもちろん、おれたちの話を聞いているのさ。この子たちは、われわれの言語を完璧に使いこなすよ。だから、今ここでおれたちが話していることなんか全部聞き取れるわけだ」
友人は蒼ざめる。立ち上がる。
「もう我慢ならん! 帰る!」
将校が言う。
「よせ、馬鹿げてるよ。子供たち、席を外しなさい」
ぼくらは部屋から出る。屋根裏部屋に登る。目を凝らし、耳を澄ます。
将校の友人が言っている。
「あの間の抜けたガキどもの前で、よくもおれに恥をかかせてくれたな」
将校が言う。
「間抜けだって? あの二人ほど賢い子供、断言してもいい、おれば未だかつてほかに見たことがないよ」
友人が言う。
「貴様、またそういうことを言って、おれを傷つけてやろう、痛めつけてやろうっていう魂胆だな。貴様ってやつは、何としてでもおれを悩ませ、苦しませ、卑しめたいんだ。いつか、貴様を殺してやる!」
将校が、自分の拳銃をテーブルの上に投げ出す。
「望むところだ! そいつを取れ! おれを撃ち殺してくれ! さあ!」 
友人が拳銃を引っ掴み、将校に狙いを定める。
「やってやる。見ていろ、やってやるぞ。今貴様があいつのこと、もう一人のやつのことを口にしたら、おれは貴様を殺す」
将校が目を閉じ、笑みを浮かべる。
「彼は美しく……若く……強かった……。高雅で……繊細で……教養があって……優しく……夢見がちで……しかも勇気に満ち……傲岸なまでに誇り高く……ああ、私は彼を熱愛していた。その彼が、東方戦線に斃れた。享年十九歳……。彼亡き今、私はもはや生きていけない」
友人は拳銃をテーブルの上に投げ出し、叩く。
「畜生!」 
将校が目をかっと開け、友人を見据える。
「何たる勇気の欠如! 何たる気骨の欠如!」
「自分でやりゃいいだろう、貴様にそんなに勇気があって、そんなにも悲しみに沈んでいるんなら。やつなしで生きられないなら、死んでやつのあとを追うがいい。貴様、それでもまだおれの手助けが欲しいのか? おれにだって分別はあるんだ! くたばれ! 独りでくたばっちまえ!」
将校は拳銃を手に取り、自らのこめかみに銃口を当てる。ぼくらは、急いで屋根裏部屋から降りる。と、部屋のドアが開けっ放しで、従卒がその前にあぐらをかいている。ぼくらは彼に問う。
「ねえ、将校さん自殺するのかな?」
従卒は笑い出す。
「キミタチ、怖ガルコトナイ。アノ二人、飲ミ過ギルト、必ズコウナル。ワタシ、二挺ノ拳銃、弾ヲ抜イテオイタ」
ぼくらは部屋に入る。将校に言う。
「本気ですか? だったら、ぼくたちが殺してあげますよ。拳銃をよこしてください」
将校の友人が罵声を発する。
「汚い悪ガキめ!」
将校は、ぼくらに微笑んで見せる。
「ありがとう。親切だね。ちょっとゲームをしていただけなんだ。もう寝に行きなさい」
彼は立ち上がり、ぼくらを部屋の外に送り出し、出入口のドアを閉めようとして、従卒の姿を認める。
「おまえ、まだそこにいたのか?」
従卒は言う。
「帰ってよし、との許可をまだいただいておりません」
「とっとと帰れ! おれは放っておいてほしいんだ! 分かったか?」
ドアが閉められてからもなお、友人に向かって怒鳴る将校の声が、ぼくらの耳に届
いた。
「貴様には、なんとよい教訓であることか、性根なしの腰抜け野郎!」
それからも延々と、乱闘の音、殴打する音、椅子のひっくり返る激しい音、何かが転がり落ちる音、叫び、喘ぎが、ぼくらの所まで聞こえてくる。そして不意に、静寂が訪れる。



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“牽かれて行く”人間たちの群れ
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洗濯の済んだ衣類を受け取るために、ぼくらが司祭館を訪ねた折のことだ。台所で女中といっしょにタルティーヌを食べていると、通りのほうから人びとの騒ぐ声が聞こえてくる。ぼくらは食べかけを皿に置き、様子を見に外へ出る。人びとがそれぞれの家の戸口に並んでいる。どの顔も、駅のほうを向いている。昂奮した子供たちが駆けてくる。
「来たよ! 来たよ!」
通りの曲がり角に、数人の外国人将校を乗せた軍用ジープが現れる。ジープはゆっくりと移動し、長銃を肩から斜めに掛けた兵士たちがそれに続いている。兵士たちのあとに従っているのは、あたかも家畜のように牽かれて行く人間たちの群れだ。ぼくたちのような子供、ぼくたちのおかあさんのような女の人、あの靴屋さんのような老人。
彼らは二、三百人の列を作り、兵士たちに取り囲まれて進む。なかには、幼い子供をおぶったり、肩に乗せたり、胸に抱いたりしている女の人たちがいる。そのうちの一人が転ぶ。いっしょに歩く人びとの手が、転んだ子供と母親に差し延べられる。子供と母親はすぐさま助け起こされ、抱きかかえられる。兵士たちの一人が、早くも銃を彼女たちに向けたからだ。
誰一人、口を開かない。誰一人、泣かない。彼らの眼差しは、釘付けされたかのように地面に向けられている。鋲を打った軍靴だけが響きわたっている。
ちょうどぼくらの前で、群衆の中から、一本の痩せた腕がこちらへ突き出された。
泥まみれの手が差し出され、求める声が聞こえた。
「パンを」
女中が、愛想のよい笑みを浮かべて、彼女のタルティーヌの残りを与える仕種をする。差し出されている手にそのパン切れをゆっくり近づける。が、もう少しというところで、急に甲高い笑い声を上げ、パン切れを自分の口に運び、頬張り、言い放つ。
「あたしだって腹ぺこなの」
この場面に居合わせて一部始終を見た一人の兵士がニヤリとし、女中のお尻を軽く叩く。彼女の頬をつねる。すると彼女は、夕陽の中に舞い上がる砂塵しか見えなくなるまで、去って行く彼にハンカチを振り続ける。
ぼくらは館の中に戻った。自室の大きな十字架の前にひざまずいている司祭様の姿が、台所にいるぼくらに見える。
女中が言う。
「タルティーヌの残り、食べちゃいなさい」
ぼくらは言う。
「もう、おなかなんか空いていないよ」
ぼくらは司祭の部屋へ行く。司祭が振り向く。
「おまえたち、私といっしょに祈りたいのかね?」
「ぼくたちがけっしてお祈りをしないことは、ご存じのはずです。そうじゃなくて、ぼくたちは理解したいんです」
「こういうことは、おまえたちには理解できないよ。もう少し大人にならないと……」
「でも司祭さん、ぼくたちはともかく、あなたは立派な大人でしょう。だからこそ、お伺いするんです。あの人たちは誰なんですか? どこへ連れて行かれるんですか? なぜ、連行されるんですか!」
司祭は立ち上がり、ぼくたちのほうに歩み寄る。日を閉じて言う。
「神の御心は計り知れぬ」
彼は目を開き、両手をぼくらの頭上に載せる。
「やれやれ嘆かわしい、おまえたちがあんな光景に立ち会わされたとは……。おまえたち、全身がぶるぶる震えているではないか」
「あなたもですね、司祭様」
「うむ、私は年寄りだから、それで震えるんじゃよ」
「ぼくたちのほうはね、ただ寒いだけです。上半身裸のままで来ましたから。女中さんが洗ってくれたシャツを、一枚着ることにします」
ぼくらは台所に戻る。女中の手から、清潔になった肌着類の包みを受け取る。その中からそれぞれ一枚のシャツを取り出して着るぼくたちに、女中が言う。
「あなたたち、感じやすすぎるわよ。この際あなたたちにとっていちばんいいのはね、さっき見たものなんか忘れちゃうことよ」
「ぼくらは、どんなことも絶対に忘れないよ」
彼女は、ぼくらを出口のほうへ押しやる。
「さあさあ、昂奮しないで! ああいうことは、あなたたちには関係ないんだから。あなたたちはね、けっしてあんな目に遭わないわよ。だから安心しなさい。あんな連中、犬畜生みたいなものなのよ」




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訊 問
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ぼくらは刑事の執務室にいる。刑事は机に向かって腰掛けているが、ぼくたちは、彼の正面に立たされたままだ。彼は、紙と一本の鉛筆を用意する。煙草に火をつける。
それから、ぼくらに、いろいろと問いはじめる。
「司祭館の女中とは、いつから知り合いになったのかね?」
「春からです」
「どこで出会ったんだい?」
「おばあちゃんの家でです。彼女がジャガイモを買いに来たんです」
「きみたちは司祭館に薪を配達しているね。どのくらい代金を貰っているのかね?」
「一銭も貰っていません。ぼくたちは、衣類を洗ってくれる女中さんにお礼する憲味で、司祭館へ薪を持って行くんです」
「彼女はきみたちにやさしいかね?」
「それはもう、とてもやさしいです。彼女はぼくたちにタルティーヌを作ってくれます。爪を切ってくれ、髪を刈ってくれますし、お風呂だって用意してくれます」
「つまり、母親のように、というわけか。それなら司祭様はどうだ、彼はきみたちにやさしいかい?」
「やさしいですとも。司祭様は、ぼくたちに本を貸してくださいます。たくさんのことを教えてくださいます」
「司祭館へ最後に薪を届けたのはいつだね?」
「五日前です。火曜日の朝です」
刑事は部屋の中を歩き回る。カーテンを閉じ、卓上スタンドのスイッチを入れる。
二脚の椅子を据え、ぼくたちを坐らせる。スタンドの角度を調節して、電灯の光がぼくらの顔面を直射するようにする。
「おい、おまえたちは、女中のこと、大好きだったんだな?」
「ええ、もちろん」
「彼女がどんな目に遭ったか、知っているか?」
「彼女に何かあったんですか?」
「そうとも、惨いことがな……。今朝方、いつもどおり彼女が火をおこしていたところ、台所の竈が爆発したんだ。彼女は、顔をまともにやれた。今は病院に担ぎこまれているよ」
刑事は話しやめる。ぼくらは黙って聞いている。彼が言う。
「何も言うことはないのか?」
ぼくらは言う。
「爆発を顔にまともに受けたりしたら、病院行きは免れないし、墓場へ直行ということもあるでしょう。彼女が死ななかったのは幸運です」
「彼女の顔は変わり果てちまって、一生、元に戻らないんだぞ!」
ぼくらは口を噤む。刑事も黙る。彼は、ぼくらをじっと見る。ぼくらも、彼をじっと見る。彼が言う。
「おまえたち、特に悲しそうには見えないな」
「ぼくたち、彼女が命をとりとめたことを幸いだったと思っているんです。大事故だったわけですからね!」
「事故なんかじゃないぞ。誰かが、暖房用の薪の中に爆発物を隠したんだ。軍用銃に使われる弾丸だということが判明している。薬莢が見つかったのさ」
ぼくたちが問う。
「何のために、そんなことをしたんでしょう?」
「殺すためさ。彼女を、あるいは司祭様をな」
ぼくらが言う。
「残酷な人がいるんだなあ。殺すのが好きなんですね。そんなことも、戦争が教えたんですよ。それに爆発物なんて、どこにでも転がっていますからねえ」
刑事は怒鳴り出す。
「いい加減にしろ、知ったような口を利くのは! 司祭館に薪を配達しているのは、おまえらだ! 森を一口じゅううろついているのも、おまえらだ! 死体を見れば身ぐるみ剥ぐのも、おまえらだ! おまえら、どんなことでも仕出しかねないんだ! そういう素質を、おまえらは血の中に持っているんだからな! おまえらのばあちゃんも人殺しをやって、疚しいところがある。あのばあさんは亭主を毒殺した。ばあさんのやり口は毒薬で、おまえらのは爆発物なんだ! さあ吐け、ちんぴらども! 正直に言え、おまえらがやったんだろう!」
ぼくらは言う。
「司祭館に薪を届けているのは、ぼくらだけじゃありませんよ」
彼が言う。
「それは、そのとおり。じいさんもいるからな。だが、そっちの訊問はもう済んでいる」
ぼくらがまた言う。
「薪束の中に弾丸を一個隠すくらい、誰にでもできますよ」
「ふむ、しかし弾丸は、誰にでも入手できるわけじゃない。おれはな、あの女中のことなんか、どうだっていいんだ! おれが知りたいのは、どこに弾丸があるのか、どこに手榴弾があるのか、どこに銃があるのか、そこのところだ。じいさんは何もかも吐いた。おれがみっちり訊問してやった結果、自白して、犯行を認めたんだ。ところがじいさん、どこに弾丸と手榴弾と銃があるのか、おれに指し示すことができなかった。真犯人は、やつじゃない。おまえらだ! おまえらは、弾丸と手榴弾と銃の在り処を知っている。おまえらはそれを知っている。そしてこれから、その在り処をおれに言うんだ!」 
ぼくらは返事をしない。刑事の平手が飛んでくる。両手での、右へ、左への往復びんただ。ぼくらの鼻と口から血が出る。
「白状しろ!」
ぼくらは口を閉ざす。刑事は蒼白になる。彼は殴る。これでもか、これでもかと殴る。ぼくらは椅子から転がり落ちる。彼はぼくらの肋骨を、腰を、胃を、足で蹴り、踏みつける。
「言え! 言わないか! やったのは、おまえらだろう! 白状しろ!」
ぼくらはもう、目を開けられない。何も聞こえない。体は、大量の汗と、血と、尿と、糞便にまみれる。ぼくらは気絶する。



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おばあちゃんのつぶやき
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食事の途中、おばあちゃんが言う。
「わしゃ、どうしておまえらがあの女を殺す気になったのか何としても腑に落ちんのだがね? まあ思うに、おまえたちには、おまえたちなりの理由があったんだろうがね」




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おかあさん
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その軍用ジープが家の前に急停車したとき、ぼくらは庭にいた。ジープから、ぼくらのおかあさんが降り、続いて、ひとりの外国人の将校が降りる。彼らは、ほとんど走るようにして庭を横切る。おかあさんは胸に赤ん坊を抱いている。彼女がぼくらの姿を認め、叫ぶ。
「いらっしゃい! 急いでジープにお乗りなさい。ここを発つのよ。急いでちょうだい。持ち物に構っていないで、すぐいらっしゃい!」
ぼくらは問う。
「誰の子なの、その赤ちゃん?」
彼女が言う。
「あなたたちの妹よ。早く来なさい! 一刻も無駄にできないのよ」
はくらは問う。
「どこへ行くの?」
「隣の国よ。さあ、ぐずぐず質問していないで、すぐ来なさい!」
ぼくらは言う。
「ぼくら、行きたくないよ。ここに残りたい」
「おかあさんはね、どうしても行かなきゃならないの。だからあなたたちも、いっしょに来るのよ」
「嫌だ。ぼくら、ここに残る」
おばあちゃんが、家から出てくる。彼女が、おかあさんに声を掛ける。
「おまえ、そんな所で何をしているんだい? そこに抱いているのは、何なんだい?」
「息子たちを連れに来たんです。あとでお金を送りますわ、おかあさん」
おばあちゃんが言う。
「おまえのお金なんか、欲しくないわい。その代わり、子供たちは返さないよ」
おかあさんが将校に、ぼくらを力ずくで連れて行くよう頼む。ぼくらはすばやく、ロープで屋根裏部屋によじ登る。将校がぼくらを捕えようと追って来るが、ぼくたちは、彼の顔を上からこっぴどく足蹴にする。将校は悪態をつく。ぼくらは、垂れているロープを引き上げてしまう。
おばあちゃんが嘲笑う。
「ほら見たことか、その子たち、おまえといっしょになんか行きたくないんだよ」
おかあさんが、声を張り上げる。
「おかあさんの命令よ、すぐに降りていらっしゃい!」
おばあちゃんが言う。
「その子たち、命令なんぞにゃ絶対に従わないよ」
おかあさんは泣き出す。
「いっしょに来てちょうだい、私の大切な子供たち。おかあさん、あなたたちを残しては出発できないわ」
おばあちゃんが言う。
「外人の私生児だけじゃ足りないのかい?」
ぼくらがが言う。
「ぼくら、ここで気持ちよく暮らしているんだ、おかあさん。安心して出発して。ぼくら、ばあちゃんの家《うち》で、とても居心地よく暮らしているんだから」
大砲の音や機関銃の発射音が聞こえる。将校が、ぼくらのおかあさんの肩を抱き、彼女を車のほうへ促す。が、おかあさんは身を引き剥がす。
「私の子供たちなのよ。手放したくないわ! 愛しているんだもの!」
おばあちゃんが言う。
「その子たちがいてくれないと、こっちが困るんだよ。わしは年寄りじゃ。おまえなら、まだほかにも子供をつくれるじゃないか。おまえの抱いているその子が証拠じゃ!」
「お願いします、子供たちを引き留めないでください」
おばあちゃんが言う。
「わしゃ、引き留めちゃいないよ。それ、おまえたち、すぐに降りてきて、かあちゃんといっしょにお行き」
ぼくらは言う。
「ぼくら、よそへは行きたくない。おばあちゃんといっしょにここに残りたいんだ」
将校がぼくらのおかあさんを両腕で抱きかかえるが、しかし彼女は、彼を押しのける。将校はジープに乗り込んで席に着き、エンジンをかける。ちょうどこの瞬間、庭で爆発が起こった。その直後、おかあさんの地面に倒れている姿が、ぼくらの目に入った。将校が、彼女のほうに走り寄る。おばあちゃんは、ぼくらを遠ざけようとして、怒鳴る。
「見ちゃならん! 家の中にお入り!」
将校が罵声を発し、ジープに駈け込み、凄まじい勢いで発進する。
ぼくらは、おかあさんをまじまじと見る。腸が、おなかから飛び出している。体じゅう、真っ赤だ。赤ん坊も同じだ。おかあさんの頭が、砲弾の空けた穴の中に垂れ下がっている。彼女の両眼は開いたままで、まだ涙に潤んでいる。
おばあちゃんが言う。
「鋤《すき》を取っておいで!」
ぼくらは、穴の奥に毛布を敷く。その上におかあさんを寝かせる。赤ん坊は、彼女の胸にくっついたままだ。もう一枚の毛布で、彼女たちをすっかり覆う。それから、穴を埋める。
従姉が町から帰ってきて、訊ねる。
「何かあったの?」
「うん、砲弾が落ちてね、庭に穴が空いたんだ」



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おばあちゃんの宝物
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ある夜、おばあちゃんが言う。
「ドアと窓を全部、しっかり閉めておくれ。おまえたちに話したいことがあるんだけど、人に聞かれたくないからね」
「この近辺を通りがかる人なんていやしないよ、おばあちゃん」
「国境警備兵が方々うろついていること、おまえたちも知らないわけじゃなかろうに。しかも、あの連中ときたら、遠慮なく立ち聞きするんだよ。紙と鉛筆を取っておいで」
ぼくらが問う。
「字を書きたいの、おばあちゃん」
おばあちゃんが怒鳴る。
「言うとおりにせい! つべこべ質問していないで!」
ぼくらは窓とドアを閉め、紙と鉛筆を持ってくる。おばあちゃんはテーブルの向こう側に腰掛け、紙片に何か描く。そして、囁くように言う。
「ほらこれが、わしの宝物のある場所じゃ」
彼女がぼくらに、紙片を差し出す。その紙片には、一つの長方形と、一っの十字と、その十字の下に一つの円が描かれている。おばあちゃんが問う。
「分かったかい?」
「うん、おばあちゃん、分かったよ。だけどぼくら、前から知っていたんだ」
「何だって、おまえたち、何を前から知っていたんだい?」
ぼくらは、声をひそめて答える。
「おばあちゃんの宝物が、おじいちゃんのお墓の十字架の下にあるってことさ」
おばあちゃんは、いっとき黙りこむ。それから、言う。
「そうじゃないかと、疑うべきだったよ。だいぶ前から知っていたのかい?」
「ずっと前からだよ、おばあちゃん。おばあちゃんがおじいちゃんのお墓の世話をしているところをぼくたちが見た、あの日からさ」
おばあちゃんは、ひとつ大きく息をする。
「やれやれ、いら立っても何の益もないわい。どっちみち、全部おまえたちのものな
だから、どう使えばいいかも分かるじゃろ」
ぼくたちが言う。
「今のところ、たいした使い道はないね」
おばあちゃんが言う。
「ふむ、ないとも。そのとおりじゃ。待たにゃならん。おまえたち、待てるかい?」
「うん、おばあちゃん」
ぼくらは、三人とも、顔を見合わせて沈黙する。おばあちゃんが、おもむろに言い出す。
「話は、まだ終いじゃないよ。今度わしに発作が起きるときのことなんじゃが、行水だの、パンツだの、おむつだの、わしは真っ平ご免だからね、このことを覚えておいておくれ」
おばあちゃんは立ち上がる。棚の上にたくさん並んでいる広口ぴんの間を探る。小さな青いぴんを手に、席に戻る。
「くだらない医薬の代わりに、今度のときはこのぴんの中身を、わしの飲む最初のミルクの中に入れておくれ」
ぼくらは返事しない。おばあちゃんが怒鳴る。
「分かったのかい、牝犬の子!」
ぼくらは返事しない。おばあちゃんが言う。
「おまえたち、やっぱりガキだね、おおかた解剖の場合を考えてびくびくしているんじゃろ? 解剖なんてされないよ。老婆が二度目の発作のあと死ぬんだもの、誰もわざわざ事をめんどうになんかしやしないよ」
ぼくらが言う。
「ぼくたち、解剖のことを考えて臆病になっているわけじゃないよ、おばあちゃん。ただ、おばあちゃんがまたもう一度、立ち直るかもしれないと思うんだ」
「いいやこの次はもう回復しない。わしには、分かっているんだよ。だから、早いとこ、けりをつけなきゃならんのじゃ」
ぼくらは口を噤んでいる。と、おばあちゃんは泣き出す。
「体が麻痺するってどんなことか、おまえたちは知りゃせん。何でも見える、何でも聞こえる、それでいて動けないんだよ…… 。そんなちょっとした手助けもしてくれることができないなんて、おまえたち、恩知らずだよ。ああ、わしは、懐で蛇を温めたようなもんじゃ」
ぼくらが言う。
「泣きやんでよ、おばあちゃん。ぼくら、やってあげるよ。おばあちゃんがほんとうにそう望むなら、やってあげるよ」




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スケッチ
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クリストフの『悪童日記』(及び『ふたりの証拠』)の凄さについて話したら止らないが、ひとつだけあげておくと、この『悪童日記』のラストシーンは、ギリシャ神話から続く人間世界の、文学の、宗教の ―― ある限界(人が生きている限り続く宿痾のようなもの)に対するあらたなアングルが切り開かれている。別の言い方をすると、これまではの文学では「倒す/倒される」「殺す/殺される」「殺す/殺さない」「呪われる/呪われない」など、避け切れない二項対立・分裂を前提としてきた世界観(定理)に対し、一石を投じていて、そのための(いや、クリストフが自覚的だったのかどうかは言質が取れていないが)「双子=ぼくら」という小説の主体、語りの人称だったことがわかる。機能や構造が、作品のテーマ、そして絶対的に膠着していた原理を引き裂いた。
これだけ「読ませる」文体と、かつ、およそ誰にでも読めるはずの言葉の綴り(平易で、ドライで、リズムがある)によって ―― 古今東西の文学や思想の天才が誰も思いつかず、「父殺しを自分もし、やがて殺される」という概念に有効な揺さぶりをかけられなかったのも関わらず ―― 我々人間は、殺されても死にきれないし、殺したとしても殺す人間として割り切れるかといえばそうではないし、父を潰して自らが父になるという文脈に生ききれるかといえば言い切れず、なぜならばそう遠くない過去には誰だって子供だった ―― かつ、いまだにその頃の幼さは体からも心からも抜けきらず、だらだらと甘く弁えも徹せずに周りには迷惑をかけるし、自身、うんざりしたりする ―― 父になったからといって、父をヤッタからといって、父殺しの自分だけを核心に生きていくなんてまったく嘘丸出しだ ―― という生きていることの実態や現実、情けなさを汲んだありありをクリストフは言葉に書き起こし、そのラストシーンは悲しくも圧倒的に説得力を有したテーゼに昇華された。
かつて、ソポクレスが人間社会の見えざる原理を ―― 惨たらしくてしかし力を生みだす道理をオイディプス神話に定着させ、現在、我々人類は「父性」なくして生きることはできない。意識せずに暮らしていようと、父のほうが我々の手を奪い、ナイフを握らせ、それは突き立つだろう、喉を、肺を、ふぐりを、腹を目を額を ―― 突かせるだろう。
クリストフの出現以前は、父は殺され、息子は乗り越える、という世界観に統べられていた。それは幸福を求める生き物にとって酷い摂理の自覚になったが、統一は平均をもたらす。悲劇は広まれば広まるほど、強まれば強まるほど、ネガティブに人の心を ―― 社会を ―― 揺るぎない安定に基礎付ける。クリストフはここに、垂直に振るわれるナイフの如き亀裂《スラッシュ》を入れた。そして、私たちは、事実 ―― 父を殺したところで、肉体を滅ぼしたところで、それは殺しきったことではない、殺したという物語だけを生きることなんてできない、いつだって影は亡霊のようについてまわり、我々は悩まされ、そして、ほんとうは、「殺し、割り切れず、とどまったあいつ」ではなく、「殺し、割り切り、こっちにきた私」のほうが形無し、成仏できないゴーストではないか、という動揺から逃れられなくなったのだ。
この世界から小説の痛切な光をもって神の衣を剥ぎ、人の世を、有様を知らしめたのがアゴタ・クリストフであり、この偉業をもって彼女は抜群の作家だ。いうまでもなく『悪童日記』は知の世界遺産である。






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