和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

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サミュエル・ベケット証言録

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サミュエル・ベケット証言録/ジェイムズ&エリザベス・ノウルソン編著 田尻芳樹・川島健訳(2008)
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マーティン・エスリンへのベケットの発言
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[マーティン・エスリンに「ジョイスの影響を受けたか」と囲われたときのベケットの答え ]「いやそれほど。芸術に対する真剣さと献身の念には影響を受けたけれど。ただ」と彼は付け加えた、「私たちは正反対だ。ジョイスは総合家で、あらゆることを、人間の文化の総体を一冊や二冊の本の中に取り入れようとした。私は逆に分析家だ。私はあらゆる付属的なものを取り除く。本質的なものの最下層、原型的なものにたどり着きたいからだ」。そしてそれこそ[ 『ゴドー』の ]道化・浮浪者なのだ。道化はアレゴリー的人物ではなく何も所有していないから、メルセデス・ベンツを持っているというような事実によっては定義できないような人物だ。つまり、重要でない付属物をすべて取り除くと、まったくリアルだが同時にいかなる付属物にも邪魔されない人物にたどり着くのだ。誰かが素敵なスーツを持っているかどうかは、その人の魂の本質とはまったく関係がない。だから、彼に浮浪者の服を着せれば、彼のスーツのことを考える人はいない。 64



ナタリー・サロート
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ベケットの語彙には「感謝」という言葉がないようでした。私の旧友で、彼をよく知るアメリカ人女性が一度言いました、『ああ、彼は人が何かしてあげるとその人を決して許さないのよ。誰の恩恵も受けたくない人なの』。これをプライドと言いますか? 私なら品がないと言いますね。プルーストが言うように、「ごく普通の人間が天才の中に住んでいることがあるのだ」。作品に表われた天才ではなく、その天才の中に住んでいる人間が問題なのです。それから戦後、彼が一度ここに訪ねてきたことがありました。私の父の病気がひどく悪いときでした。彼はたった一五分いただけで帰ってしまいました。マニアによると、父があまり愛想良くなかったのか気に入らなかったようです。でも当時、父は歩くのもやっとで、そのせいでいらだったり不機嫌だったりすることが多かったのです。 104



リチャード・シーヴァー
ベケット作品の翻訳について語る 122
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(ニューヨーク、アーケード社の主任編集者で、ベケットとは一九五〇年代からの友人だった。一九五二年に雑誌「マーリン」の論文でベケットを高く評価して、まだ事実上無名だった彼を英語圏の読者に紹介した。四〇年以上にわたってニューヨークの傑出した出版人であり続け、この間、五〇以上のフランス語の本を英訳した。マルクリット・デユラス、フランソワーズ・サガン、アンドレ・ブルトン、ウジェーヌ・イヨネスコ、そしてベケットなどである。以下は、本書のために特別に寄稿されたものである)


運を切り開く人もいれば、タイミング、地理、神々などによって運が押し付けられる人もいる。私の場合、タイミングと地理の組み合わせだった。一九五一年秋、ジャコブ街のぞっとするような素人下宿の八階の小部屋(すなわち、女中部屋)から、サン・ジェルマン・デ・プレすぐ裏のサボー街八番地のずっと大きな貸間に引っ越したのだ。
カフェが群れをなして招いているサン・ジェルマンに行くには、ベルナール・パリシー街をどうしても通る必要があった。そのちっぽけな石畳の通りには、パン屋、八百屋、洗濯屋、建具屋、そして何より、生まれたての出版社ミニュイがあった。ミニュイ社があった所には売春宿があったが、フランス人の魂を、そして願わくば身体をも浄化しようと無謀にも試みる反セックスの運動家たちによって三年前に閉鎖されていた。だが、この職業の交換において重要だったのは、ベルナール・パリシー街七番地の建物にはドアの両側に一つずつショーウィンドウがあったことである。前は若い女体の刺激的な写真が出ていたのが、いまや新刊の書籍に代わっていた。ドゥ・マゴやロワイヤールなどたまり場となったカフェにほとんど毎日行く途中七番地を通りながら、そこに出ている本をチェックしないわけにはいかなかった。とりわけ、ぴったり並んで陳列されていた『モロイ』と『マロウンは死ぬ」は注意を引いた。サミュエル・ベケットという聞いたことのある名前が載っていた。当時私は現代文学の聖者ジョイスに深入りしていたので、ジョイスがらみの文脈でベケットという名前にはしばしば出くわしていた。彼もアイルランド人で、トリニティ・カレッジ・ダブリンからエコール・ノルマル(パリ高等師範)へ講師としてやってきたこと ―― これはすごい名誉である ―― 、彼とフランス人の友人アルフレッド・ペロンが「フィネガンズ・ウェイク」 の「アナ・リウイア・ブルーラベル」の部分をフランス語に翻訳したこと、適切にも『進行中の作品のけつじつのための彼のせいさくをめぐるわれらのてんけん』と題された、巨匠ジョイスを一二人が称える論文集の巻頭論文を書いたこと。そういうことだけを私は知っていた。また、イギリスで一冊か二冊の小説を出しだがほとんど成功しなかったことも思い出しただろう。だが、アイルランドの作家である彼が、フランスの出版社ミニュイのショーウィンドウで何をやってるのだろうと不思議でならなかった。そうだ、これは翻訳に違いない、と私は決めつけた。そこで早速セーヌ街の英語書店に駆けつけたが、店主のガイト・フロジェは、英語版『モロイ』も『マロウン』も聞いたことがないと言った。続いて、ジョージ・ホイットマンのミストラル書店に行ったが、同じ答えだった。それで、フランス語で書かれたに違いないと、半信半疑ながら結論づけた。それにしても奇妙だ……。
ここからは三十年以上も前に書いたことを引用させていただく。
「とうとう、好奇心がけち臭さに打ち勝った。ある朝、サン・ジェルマン・デ・プレに行く途中、七番地の店に入り、二冊とも買った。同じ日しばらくして『モロイ』を開いて読み始めた。「今、母の部屋にいる。今そこで暮らしているのは私だ。どうやって来たのかは知らない」……夜までには読み終えた。読んだことすべてを理解したとは言わないが、発見の衝撃というものがあるとすれば、私はその日、それを経験したのだ。そこにある言葉の簡素さ、美しさ(そう、美しさだ)、それから恐ろしさは、空前絶後と言っていいくらい私を震撼させた。この作家の世界観、痛いくらい率直に世界を描写するやり方、反幻想的な感度。ユーモア、そう、ユーモアもだ……私は一日か二日待って『モロイ』を再読した。『マロウン』に突き進む誘惑に駆られだが、おいしいお菓子の誘惑に抵抗するようにその誘惑に抵抗した。二度日の『モロイ』は一度目よりも刺激的だった。そこで『マロウン』に進んだ。同じくらいすごかった。驚くべき二つの作品。奇跡」。その後すぐに私はパリで出版された新しい文芸雑誌号『マーリン』にかかわるようになった。才能とカリスマ性を持つスコットランド人アレックス・トロッキが編集した第二号は一九五二年の春に出た。彼に会ったとき、私はベケットの作品について熱狂的な長広舌を振るって彼を圧倒した。「こんなの、読んだことがありません」、私は力説した、「まったく新しく、まったく独特です。たぶんジョイスより重要でしょう」。おそらく私の話を止めるためだろう、トロッキはついに言った、「そんなにすごい作家なら、君自身が何か書いてみたらどうだい?」。そこで第二号に私は論文「サミュエル・ベケット紹介」を書いた。こんな書き出しだった。
「フランスで長く活躍しているアイルランドの作家サミュエル・ベケットが最近二冊の小説を出版した。それらはいかなる評釈も許さないが、今世紀の文学に関心を持つ者誰にとっても注目に値する……」。
「いかなる評釈も許さない」という言葉を除けば、この書き出しは今でも有効だと思う。
第二号が秋に出ると、私はジェローム・ランドンにベケット宛に送ってくれないかと頼むメモを添えて、一部をミニュイ社に持っていった。秘書が私の来意を告げると、ランドンはすぐに私を来させるように言ったようだ。そのときは知らなかったのだが、彼も私以上にベケットを高く買っていたのだ。彼はもう髪の生え際が後退しており ―― 彼はまだ二十代だった ―― 長身で禁欲的な感じで、誰よりも鋭い視線をしていた。
また、黒いスーツとそれに似合ったネクタイを完璧に着こなしていた。くたびれた余剰軍事物資のシャツを着ていた私は、かなり居心地が悪く、場違いな思いがしたが、彼はすぐに楽な気持ちにしてくれた。必ずベケットに渡すとも言ってくれた。また、ベケットは今フランス語でしか書いていないが、戦争中、『ワット』と越された未公刊の英語小説を書いていたと、ふと言った。私は椅子から立ち上がらんばかりだった。それを見せてもらえませんか、抜粋でも雑誌に載せたいので。その作品の状態はわからない、イギリスで出回っていると思うが、調べてみる、と彼は言った。私はこの知らせに大喜びで帰途に着いた。
ベケットからは何の反応もないまま何週間も過ぎた。私の論文が気に入らなかったか、『ワット』を見せる気がないのだろう、と緒論づけた。その秋の終わりごろまでに、サポー街の私のアパートは『マーリン』の編集部になっており、関係者が週二、三回集まって、雑誌や世界惰弱やパリの魅惑について議論していた。
ベケットについてほとんどあきらめていた十一月初めのある晩に、パリにしては珍しい大雨の中、ノックがあった。私がドアを開けると、やせた長身の男がレインコートから雨を滴らせて立っていて、そのコートの下から雨にぬれた小包を取り出した。「さあ、これがほしいんでしょう」と言って、男はきびずを返し、夜の闇に消えていった。小包を開けると、たしかに待ち望んでいた『ワット』だった。謎めいたベケット氏自身によってじきじき届けられたのだった。その日『マーリン』のスタッフの大半がいた。別のところに書いたが、私たちはその晩ほとんど徹夜でかわるがわるそれを読み、しまいには声が出なくなり、あるいは涙か笑いのあまりしゃべれなくなってしまった。
私たちは次の号に「ワット」の長い抜粋を掲載した。ベケットは使用していい部分を指定していた。ノット氏の履くものの可能性の日録(「彼の足に関して言えば、靴下を両方に履くか、片方靴下でもう片方ストッキングか、ブーツか靴かスリッパか、靴下とブーツか、靴下と靴か、靴下とスリッパか、あるいは何も履かなかった……」)と彼の部屋の家具のさまざまな組み合わせ(「そういうわけで日曜日には、暖炉のそぼにたんすが、ベッドのそばに逆さの化粧台が、窓のそばに後ろ向きの洗面台があるのは稀ではなかった。月曜日には、ベッドのそばに逆さのたんすが……」など)である。こういう指定をすることでベケットは雑誌の文学的性根をテストしているのだと私は当時考えた(のちにそれは正しかったことがわかった)。それらの部分は文脈から切り離されると、街学趣味か、うんざりするほど実験過剰と受け止められるおそれがあったのだ。私たちのところに来た読者からの手紙にはたしかにそういう反応もあった。しかし気にしなかった。私たちには使命があったのであり、ベケットこそ先導者たったのだ。実際、その後ほとんどの号にベケットの書いたものが載った。その上、雑誌にわずかだが痛い損失が出たにもかかわらず、翌年、事業を拡張し、本を出版することでどうなるか見てみようと決意した。最初に選んだ本はもちろん『ワット」だった。
ベケットについての論文を書きながら、私は彼がフランス語で長めの短編を発表していたことを知った。サルトルの「レ・タン・モデルヌ」に出た「つづき」と、「フォンテーヌ」に出た「追い出された男」である。どちらも素晴らしかったので、ベケットにどちらかを掲載させてもらえないか頼んだ。「唯一の問題は」と彼は言った、「翻訳しなければならないことだ。今の私には時間も意欲もない」。すると彼は急に明るい表情になって言った、「君が自分でやってみないか?」。私が躊躇すると、「終わったら一緒にチェックしてあげるから」。若気の至りで私は承諾してしまった。若気の至り……というのも、彼は並外れた、またたぷん他に例のない熟達した英語の書き手だったし ―― 私は自分でそう書いてもいた ―― そんな彼の言葉を彼の母国語で再創造せねばならなかったからだ。それでも私は作業に取りかかった。次の号に掲載したがったトロッキに促され、二、三週間でやり遂げるつもりだった。さて二か月してもまだ終わらず、書き直したり考え込んだりしていた。ベケットならどう訳すだろうかと思い悩んだ。とうとう限界が来て、訳積を投函した。
数日後、ベケットからはがきが来て、素晴らしい仕事だとほめてくれ、「ちょっと見直す」ためにドームで会おうと言ってくれていた。私たちはすぐに会った。午後四時だった。客が少ない時間で、奥で私たちは二人きりだった。ベケットは私の訳とフランス語原文を並べて、いつ始めでもいい様子だった。ビールを前にして、私たちは出だしの文を検討した。
「彼らは私に衣服をあてがい、いくらかお金をくれた。私はお金が何に使うためなのか知っていた、旅費である。なくなったら自分で稼がなきゃならない、旅を続けたければね、と彼らは言った」。
ベケットはまず英語を、次にフランス語を見、さらにかわるがわる見た。針金のようなフレームの眼鏡を白くなり始めた髪に押し上げ、眼を細くしてにらみ、そして首を振った。私の心は沈んだ。訳がおかしいのだ。ところがそうではなかった。彼が気に入らなかったのは原文のほうだった。「ここは翻訳不能だ」と、しばらく先の部分を指して言った、「意味を成していない」。さらににらんで双方をチェックした挙句、見通しが明るくなった。「これでよし」と彼はつぶやいた。「ここの最初の文はとてもうまく行っている。でも『衣服をあてがい』(dressed)の代わりに「服を着せ』(clothed)ではどうだろう? 彼らは私に服を着せ、お金をくれた。こっちのほうがいい感じがする?」。
ええ、明らかにそのほうがいいです。
「次の文は」、と彼は言った。「君は正確に逐語訳している。私はフランス語で考えて、たしかに『旅費」と言った。でもここは少し簡潔にして、単に『私を旅に出させるため』とか『私をスタートさせるため』とかでいいと思う。どう思う?」。こういう風に私たちは一句一句検討した。まず彼が私の訳をはめ、そのあとで本当に意図したものに変形していく。一つの言葉を変え、文全体を変え、削り取り、簡潔にし、短くし、的確な語だけでなく的確な文をいつも見出し、普通のものを詩的なものへと変える、そしてしまいに散文が歌い出すのだ。彼が満足することは決してなかったが、私の耳には満足だった。ベケットの疲れを知らぬ魔法の杖で、出だしは次のように変わった。
「彼らは私に服を着せ、お金をくれた。私はお金が何のためなのか知っていた、私をスタートさせるためだ。なくなったら稼がなきゃならない、そのまま続けたいなら」。
こういう(私にとっては)啓発的な打ち合わせを何度もやるあいだ、ベケットはしばしば日に見えて苦しそうだった。何年も前に手放して別のレヴェル、別の考察へと進んでいたのに、昔のテキストに戻って書き直すのは明らかに苦痛だった。ある午後の打ち合わせで、ベケットがいつも以上に長い時間絶望していたので、私はついに口走った。「でも、ベケットさん、あなたがどんなに重要な作家かご存知ないのですか? あなたは、たとえばアルベール・カミュなんかより千倍も重要なんです!」。私は大げさなことを言おうとして、当時世界的に有名だったフランスの現代作家の名を挙げたのだった。この若者らしい熱意がこもった、しかし明らかに法外な宣言に対し、ベケットは同情するように私を見つめた。鷹のような表情に映し出されているのは不信と絶望のあいだの何かだった。「とんでもないことを言うね、ディック」と彼は悲しげに首を振りながら言った。「こんなゴミに誰も関心を持っていないさ」と、テーブルの上に雑然と積まれた原稿を見下すようにして言った。「カミュか」と彼は笑った。「カミュなら月でも知られているよ!」。
ベケットの誠実な自己卑下は私を悲しませた。彼の作品に最初に出会って以来ずっと、世界はいずれこの偉大な人物に追いついて、しかるべき認知を与えるだろうと確信していたからだ。しかし、自作に対する彼の否定的評価は、悲観主義への性向にのみ基づいているのではないらしかった。考えてみれば、彼は二十二歳から絶え間なく背き続けてきたのに、五十になりかけた今、私たちのような一握りの友人とファンだけしか作品を気にかけていないのだった。
「終わり」を彼の気に入るように仕上げると、ベケットは「追い出された男」も訳してみないかと尋ねた。これには驚いたが、うれしくもあった。私を信用してくれたことで、失意の共同作業もやりがいがあったと思えたからだ。私は躊躇して、「自分でやったほうがよくありませんか?」と聞いた。「全然」と彼は言った。「私にはできないだろう。ディック、本当だ、君は大きな助けになる」。そこで私は承諾した。
あの長い ―― そして私にとっては特権的な ―― 秋の午後のあいだ、二人とも知らなかったのは、ベケットの人生が劇的に変化しようとしていたことだった。運命の気まぐれと演劇界での不運のせいで長らく上演されなかった彼の第二の戯曲が、翌年初めに日の目を見ようとしていたのだ。これによって彼は自分にふさわしい名声の高みへ突然押し上げられ、彼の生活は公的にも私的にも永久に変わってしまった。長いこと待った男にふさわしく、その戯曲は最初『待ちながら』と呼ばれ、最終的に『ゴドーを待ちながら」と題された。



パトリック・ボウルス
一九五〇年代初めのベケットを語る 130
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(パトリック・ボウルズ(一九二七~九五)は、一九五三年ごろパリで撮ったこの写真でジェイン・ルージーとクリストファー・ローグとともに写っている(左下角で座って本を読んでいる)。一九五〇年代初めにパリに住み、主に『ボインツ』、『パリ・レヴュー』『マーリン』に小説と詩を発表した。サミュエル・ベケットのほか、ハインリッヒ・ベル、フリードリッヒ・デュレンマットなど多くのヨーロッパ作家を翻訳した。彼はベケットの小説『モロイ』を英訳するために、一五か月間ベケットとともに集中的に仕事をした。
【 ここに掲載するのは、『PN・レビュー』九六、第二十巻第四号、二四~三八ページに初出の、ベケット批評では無視されてきた長い文章から最も興味深い部分を抜粋したものである。この魅力的な回想録は、ボウルズとベケットの多くの会見と話題を記述しており、次章のローレンス・E・ハーヴィーのメモと同様、ベケットが自分の作品と作家としての役割についていかに熱心に考えていたかを示している。ボウルズ白身による後の補足は【 】で示す。編者による補注はこれまでどおり[ ]で示す」】


ー九五三年九月十五日、火曜日
彼は自分の本を他人が書いたかのように話す。自分が聞いた声、聞くべき声なのだと彼は言った。「自分の本の中に理解できないことはたくさんある。『無ほど現実的なものはない』など。これらは否定的なことを肯定的に表明したものだ」。
こういう余計なものなしに、核心に迫ろうとしたと彼は言った。口を開けば虚偽が出てくるという事実にぞっとするとも言った。声が言うこと、口が言うことに対する絶えざる抗議があった。そしてとうとう彼の本は、しゃべっている口、そしてどこか知らないところからやってくる声以上のものではなくなる。
しかし、こういうことの「要約」が、あの説明不能なデモクリトスの言明「無ほど現実的なものはない」に入っている。これは直観であり、この直観がある場合、説明不可能であるのと同じくらい反駁不可能である。彼はそう言いたかったのだと思う。[ 中略 ]
『モロイ』の翻訳を始めたのが一九五三年七月で、今はもう一九五四年一月二十六日[ 原文まま ]なのに、半分しかできていないことを突然悟る。
【 翻訳にこんなに時間がかかっている一つの理由は、これが普通の意味での翻訳ではないからだ。単なる符牒の入れ替えや、一つの言葉を別の言葉に置き換えるという作業ではない。想像しうる限り最も機械的翻訳から遠いものだった。ベケットは繰り返し言った、私たちがやろうとしているのは別の言語で本を書くこと、すなわち新しい本を書くことだと。ある単語や句に窮すると彼は尋ねた、「そこはどうやった?」。私が訳稿を読み上げると、「どうなっていた?」と、自分で書いたのではないかのように原文について訊くのだった。彼が承認する語句が見つかるまでこういうやり取りを続けた。】中略
「私の書くものは論理以前のものだ。論理的に理解してほしいとは思わない。単に受け入れてほしい」。
私たちはしばしば、このあと何ができ、何が言えるのか話した。【なぜなら、彼は思考と文体の両方を相当突き詰めたので、どん詰まりになっていたからだ。それでも彼は書き続けた。】
「たぶん、フランス語でなく英語で書いていたら、もっとゆっくりやることができただろう。こんなに細部を抜かしたり、欠落を残したりすることがなかっただろう。でもフランス語だと、英語にはある古い連想が全部消えるから、もっと明確に、輪郭を鮮明にできたんだ」。
【ベケットはなぜ『モロイ』を自分で訳さなかったのかと私はしばしば訊かれた。私自身も一度自分でやったほうがいいんじゃないですかと彼に尋ねた。私たちの作業方法は、どうひいき目に見ても、ひどく苦しいものだったからだ。十七年間も英語で話したり書いたりしていないので感覚が離れてしまった、だから感覚を取り戻すためにしばらく英語作家と作業したいのた、というのが彼の答えだった。ベケットのフランス語の話し方は非常にフランス的だった(たとえばジョゼフ・コンラッドの英語とは違っている)。】中略


精神の重要性について


一九五五年十一月十日
「現代の病」について話す。「どの時代の病でもあった」とベケットは言った。「人々は自分たちの精神と接触していない。重要なのは精神だ」とベケットはひどく強調して言った。「それを歴史的に見ることは私にはできない」とも言ったが、私の意見はやや異なった。
哲学はある人物から次の人物への思想の発展として見なければならないと私はすでに言っていた。もちろん私たちは話題を変えたし、しばらくお互いにちぐはぐなことを言っていたが、それは問題ではない。重要なのは話のあいだに出てきたポイントである。
「九九パーセントの人は自分の精神と接触していない」と彼は言った、「私にとって歴史とは消灯状態だ」。そして付け加えた、「その他すべては装飾だ」。
「極端なものこそ重要だ。極端にあってこそ真の問題に取り組めるのだ」。
「物言わぬ白い道化」のために(たしかデリク・メンデルという人に)頼まれて書いたシナリオについて彼は語った[これはデリク・メンデルのために書かれた無言劇『言葉なき行為Ⅰ』だった]。
「これはかなり名案だ。言葉がうまく行かないときは、沈黙に頼ればいい!」
ダンサーが沈黙をマイムするのだ。


言語、意味、無意味について


一九五五年十一月十三日、日曜日
ベケットに会う。彼は精神分析医の友人[彼自身の医者ウィルフレッド・R・ビオン]と一緒にユングの講演を聞きに行ったときのことを話した。ユングは患者だった若い女性のことを語っていて、突然語るのをやめ考えてから即興で言った、「彼女の問題は、彼女が決して生まれていなかったということです」。彼女は自分が人生の外側にあると感じていたのだ、とベケットは説明した。
私は、何かをしようと意志する瞬間と何かをする瞬間の間にあるように思えるあの不思議な点について語っていた。たとえば物を拾い上げる場合。二つの瞬間は実際、同時なのだろうか。間はないのだろうか。
でもしばしば「間」はある。「ベッドから出るぞ」。でも出ない。「ベッドから出るぞ」。そして実際出る、魔法のように。魔法のようにというのは、理解できない仕方で、ということだ。緊張病による麻痺に陥っているらしい誰かに「意志で努力をしなさい」と言うのは、ばかけていると私は彼に言った。「意志で努力しなさい」。でもまだ何も起こらない。語りかける、強く勧める。揺すりさえする。でも反応はない。その人が硬直などなかったかのように明晰に話し始めると、何が堂々巡りを破ったのか理解できない。ある瞬間堂々巡りをしていて、次の瞬間には抜け出ている。ベケットは言った、「頭の中に小さな動物がいるようなものだ。そいつのために声を見出そうとしだんだ。声を与えようとする。それこそ本物なんだ。それ以外は遊びだ」。
私たちが座ったとき、ベケットは私に、「君が先週引用してくれたブランショの言葉について考えていたんだ」と言って会話はスタートしていた(私は、ブランショはよくこういう推論をすると言って、「無意味についてのあらゆる哲学は、みずからを表現するやいなや矛盾に立脚する」という言葉を引用していた。私はこれは虚偽だと主張していた。分けねばならない二つのレヴェルを混同しているし、それぞれがふさわしいレヴェルを与えられれば、矛盾は生じない。あるレヴェルでは、世界があり、不毛で、「無意味」で、理由のない混沌がある。別のレヴェル、つまり言語のレヴェルでは、この「無意味」な事実の世界は、言語という手段を用いて非常に明確に記述することができる、言語が何を意味しているのかを見失わなければ。実際には、こういう風に二つのレヴェルがあるのだ、世界と記述言語の)。
ベケットは異論を唱えた。二つのレヴェルはない、と彼は言った。一つのレヴェルしかない。つまり、伝統的な芸術家にとっては(ここで彼は、ルネサンスの絵画伝統はこういう理由でまがい物だと付け加えた)、世界があり、次いで言語があった。しかし、無意味である世界は、意味ある言語によって真に記述することはできない、なぜならとりもなおさず芸術家自身が世界の一部なのだから。彼が世界を意味ある形で記述をする ―― 結論は明白だ。矛盾が生じる。もし彼が世界の中にあるのなら(実際そうだろう)、そして世界が無意味なら(実際そうだろう、もっと包括的な言葉を使ってもいいが)、世界を真に記述するためには、彼はこの過程、無意味なもののこの運動(どちらの方向に動いているにせよ ―― もし動いているなら)の一部として自分自身を表象しなければならない。要するに彼は自分が外側にいるように表象することはできないということだ。もしそうするなら、世界は無意味であり(この言葉を使うことにしよう)、同時に無意味ではない ―― なぜならそれを記述するのだから ―― ということになってしまう。
ここで私は、もし世界が無意味なら、それは何か意味のあるものとの関連において無意味でなければならないのではないかと言った。何との関連において世界は無意味なのか? 世界は絶対的で普遍的な無意味性ではありえない。もしそうなら、世界は無意味だという私たちの判断自体が意味を失ってしまう。あらゆるものがその下に包摂される普遍的な名辞をもう一つ使うようなものだ。もし、あらゆるものが無意味ならば、「無意味」は、無限に適用可能な、それ自体無意味な言葉になるだろう。
宇宙の内部で私たちは分割を認識し、それに名前を与える。無意味と呼ばれる宇宙の内部で、私は相対的に意味あるものの分割を認識し続ける。そういう状況で、「意味ある」という言葉の意味はなんだろう。最終目的は不可知なので論じえない。それらの存在は空想だ、私たちは何でも自由に空想してよい。この点についてはこれで打ち切ろう。第一原因はない、時計製作はない。意味深いものは、私たちの理解の限界内で、言語の構造にしたがって記述可能なものに還元される。そのとき私は自分をどう感じるか。何よりもまず、偶然だと感じる。そうやって出発点に逆戻りだ。ただこういう違いがある。無意味なものは偶然に還元され、それを私の不確かな能力を尽くして記述する。これは冗談ごとではない。
それはわかる、とベケットは言う。科学者や、遊びで書いている人にとってはそれで結構だ。でも、もし世界 ―― 偶然と言ってもいいが ―― を真に記述したいなら、自分が外側にあるように表象することはできない。外側にはいない。君も私も偶然の一部であり、そこに、理由もなく、目的もなく、意図もなく盲目的に浸っているように表象しなければならない。
ベケットは統合失調症と呼ばれる自己没入について語った。彼にとってはそれだけが現実的な、あの小さく遠い内部の自己と声が捨てきられ、忘れられるとき、緊張病患者が麻痺状態を脱して、装飾と習慣から成り立つ外界と明晰な言語による慣習に再び注意を向けるとき、自分の存在にとって最も深連なものに背を向けることになるのだ。
私はそれはよく理解できる。それは一種の永遠の病だと彼に言った。
重要な病だと、どちらかが言った、あるいは私が思った。
なぜか? なぜなら、正直に見る限り、世界のあらゆる価値が崩壊する ―― 崩壊するはずだし、しなければならない ―― のはそこでだからだ。その他は慣習に過ぎない。慣習は無論必要だが、現実には不必要で、社会にとって必要なだけだ。論理的必然性はないし、それに、人間の状況において不変のものの意識は慣習なしにやっていける。では何が不変なのか? 意識、つまり意識の意識である。何かの対象についての意識であるだけでなく、覚醒していることの意識と言ってもよい。この点はしばらくおこう。結局こういうことだ。あらゆる価値が各人の人生の特定の目的にのみ依存する恣意的選択に還元され、そこに切ない、「説得力ある」理由以上のものが見出せない場合、いかなる思考する人間もそこには巨大な混乱だけを見るに違いない。この混乱、混沌は、自分の振る舞いそれ自身のものである。それは銀河の広大な運動とはどういう必然によっても結びついていないように私は思う。そういう運動は、少なくとも現在のところ私たちの支配の及ばないところにあるし、私たちが理解するにせよしないにせよ、単に私たちを恐れさせ、また慰める。そして、私たちが個人的に、内的に固有のジレンマとして意識しているものほどは私たちと緊密な関係を持たない。日常生活で私たちは何と何とのあいだの選択をするのか? いや違う、それはもっと基本的なジレンマによっているからだ。世界はどこにあるのか? あなたはその内部にいる。どの世界の内部にか? 世界とはどういう意味か? おそらく個人的で内的な精神の世界だろう。精神とはどういう意味か? 正確には、私たち内部における、思考運動の意識。その思考の主題はあのエネルギーと言ってもいいかもしれない……違う、違う、違う! [中略]


一九五五年十一月十八日
ベケットと会う。彼は言った、「この種の作品は人を殺すことだってできる。実際殺された人がいる」。
【 四〇年以上もたって私はまだはっきりと、これらの会見や会話を思い出すことができる。だいたいモンパルナスのカフェ・セレクトで夜に会った。ベケットはいつものグレイの服 ―― グレイのスポーツ・ジャケットにズボン、グレイの丸首のジャージーに細身を包んでいた。物静かで思慮深いが、決してユーモアを欠いてはいなかった。】
私たちのこの前の話は、意見の不一致ではなく誤解に終わったのだと二人とも結論していた。出発点はブランショの言葉だった ―― 無意味に関するあらゆる哲学は、それが表現されるやいなや、矛盾に立脚する。私は矛盾は見かけのものに過ぎないと異を唱えた。ベケットは矛盾を現実的なものと考えていると私は理解していた。私たちはこれらの言葉を別の意味で使っていたのだ。彼の言う「精神のジレンマ」は本質的には単純なことのように思われる。こういう作品は、それを理解する者にとっては、生きるための唯一の方法である。どういう作品が? 生きることの一部になるような作品。言葉が崩壊する地点。なぜなら人生においては、言葉のない状況、言葉が粉々になる状況、「言葉がうまく行かない」状況があるからだ。言葉がうまく行かないのはいかにしてなのかを認め、理解するならば、言葉は全能ではないこと、言葉をうまく使えるときもあれば、言葉を使うこと自体が不適切で、問題外なときもあることも認めなければならない。これを「矛盾」と言ってもいい。だが論理の矛盾ではない。単に状況の矛盾である。したがって、ここでの矛盾という言葉は、矛盾ではなく、否定、否認を意味している。
言葉が何かを意味するから発話が重要なのではなく、発話が単に人間の他の騒音や行為と同程度の重要さしか持たないときがある、と私は言った。そうなると言葉は記号であることをやめる。言葉は、木から枝を折るのが行為であるのと同じで、それ自体が行為であり、人生の一部になる。ベケットは同意した。
発話はいつも沈黙と対照せねばならない。発話はいつも沈黙との関係において考えねばならない。
科学的言語はこの意味で沈黙と関係を持たない。なぜなら、科学的言語は本質的に何かを意味することにかかわっているからである。話すとき科学者の言語が出す騒音は、場違いなもの、ないほうがよいもの、他のどんな記号の集合でも構わないようなものだ。その記号の集合の唯一の根拠と存在理由は、それらが指示する「事実」の集合である。他方、私たちの言語、人生の言語は、それが沈黙とのあいだに持つ特定の、そして時にとても微妙な関係を唯一の機能としていることが非常に多いのだ。
世界の混沌が混沌として把握されるとき、私たちはそれでも多かれ少なかれ明晰な言語でそれに表現を与えるかもしれない。だが、明晰な説明や記述を受け付けない状況はたくさんある。それらは、不明瞭な、混乱したように見える言語で、暗示し、手探りできるだけだ。
(ベケットは、このいわゆる夜の言語をめぐるジョイスの実験に関心を持っていた。)



ローレンス・ハーヴィーによるメモ、
一九六一~六二年 158
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ローレンス・E・ハーヴィー(一九二五-八八)は、ダートマス・カレッジのフランス・イタリア文学の教授だった。彼は、「サミュエル・ベケット ―― 詩人と批評家」(プリンストン大学出版局、一九七〇年)を書いていた一九六〇年代にベケットの親友になった。ベケットの伝記を書こうとした時期もあった。一九六一~六二年のパリで交わされた二人の会話記録の一部を、シーラ・ハーヴィー・タンザーの、また、ハーヴィーのメモが保管されているニューハンプシャー州ハノーヴアーのダートマス・カレッジ図書館のご厚誼によりここに採録する。これらのメモはそれぞれベケットと会見した直後に書かれたものである。


存在と形式


ベケットは、「存在」はつねに形式を危機に陥れていると考えている。形式を取り除くという、彼自身不可能だとわかっている仕事にあこがれる、と彼は言う。単に形式を破壊したり形式に対抗するのではなく、形式を除去するのだ。射精はおそらく存在の最も完璧な表現だろうと彼は言った。ある意味で彼は明らかにしたのだ、もし形式が秩序だと考えられるなら、自分は反形式だと。無秩序な形式、壊れた形式の必要性を感じるようになったとも言った。芸術家の偉大な仕事は存在を表現することであり、存在とは無意味な「連動」の集合である。存在とは混沌だ ―― つまり、秩序ある形式の反対だ。彼はこういう存在/形式のアンチノミーでものを考えている。言葉それ自体が形式なのに形式を除去しようすることのパラドックスも意識しているけれど、彼が言語の伝統的形式を破壊する背後にあるのはこういう考えなのだ。
彼は、人間とは不十分なものだと考えている。形式は十分なものを表現する、したがって壊されねばならない。表現にはいろいろな技法があることもわかっているが、彼はそれらを単なる仕掛け、形式だとして無視する。ミケランジェロの未完成の彫刻のほうが、ダビデ像のような完成された作品よりどれだけ偉大かとも言った。つまり、重要なのは、未完成なものとしての創造行為、人間の不十分さと欠陥を描くものとしての創造行為なのだ。私は、彼の作品における追放とエデンの園のテーマについて述べた。けれども彼は、そういったものは単なる紋切り型の文学的発想、過度の単純化に過ぎないと感じていた。そんなものの代わりに、単なる「運動」の連続について語りたがった。とはいえ、追放状態にある人間が、不十分で、苦しく、無秩序なものであるという点については私たちは完全に意見が一致した。


芸術と存在


これまで芸術は形式を追求し、いかなる形式にも適合しない存在のあらゆる側面を排除してきたとベケットは感じている。「今日何か新しくてわくわくするようなことが起こっているとすれば、それは、存在を芸術に導入しようとする試みだ」と彼は言った、「混沌、秩序づけられないものを入れる試みだ」。
続いて彼は、すべてが神秘で謎であるような、存在の深みについて語った。「私たちは、自分白身の人格が何なのかも、自分の存在が何なのかも知らない」(もちろん、何ごとも知りえないのではないがという絶望のさなかにあっても、知ることへのノスタルジアは残る)。
批評家の機能とは「この状況の中に哀れなやつがいる」と言うことであり、批評家はそれしかできないのだ。そしてもしこの特定の状況の中のこの特定の芸術家が唯一の芸術家であったとしても、「それはやはり人間の状況なのだ」。ベケット白身は普遍性を主張しないし、各個人の孤独とコミュニケーションのあやふやさを感じ取っている。「私たちはこれが真実だとは言えない。これが二十世紀に起こっていることだとすら言えない。わからないのだ」。自分の立場は論理的に沈黙(反形式)に行き着くと彼は理解している。にもかかわらず、彼は書くことの真の必要性と内的衝動を感じている。彼は書かねばならない。単なる「白紙」が目の前にあってそこに書くことができるといった自由をかちえたいと彼は願う。だが、私は彼に指摘する、白紙に書く代わりに彼は自分の作品の自己翻訳をやらねばならないと。彼は「私」という語を書きたいという途方もない願望と、そうすることの不可能性について語った。彼は「存在」を本当に描こうとする芸術家だ。だが、まだ表面を引っかいたに過ぎないと自分では思っている。でも、誰かがいつかやり方を見出すだろうと信じてもいる。これまでの自分の最良の成果は「事の次第」だと考えている。彼は演劇が自分がやろうとしていることにとっての最良のメディアだとは考えていない。あまりに多くの慣行(すなわち、形式)を受け入れねばならないし、それらに制約されてしまう。存在を絵に描くのは教義に結びつかないが、[アラン・]ロブ=グリエの否定的態度は教義に結びつくと、彼は考える。
[ロブ=グリエの名前は会話の別の場所でも再び言及された。]私は、ロブ=グリエ/レネの映画『去年マリエンバートで』 について語った。ロブ=グリエには教義、すなわち形式があるため、彼の反プロット、反登場人物その他の姿勢はすぐに慣例になってしまうとベケットは感じている。あの映画における恋愛物語は伝統的で陳腐だと彼は感じた。単に違う形で表現されただけだ。二人の人物をスクリーン上で現実に見てしまうことにとりわけ反対した。存在はあっても、個人の人格は謎であり続けるものなのだ。


芸術=強さ、創造、自我、形式
人間=弱さ、表面的幻影、言葉、外部の混沌の蓄積/堆積、無、生まれそこねた存在


しかし、この最後の二つはどのように結合できるのか? 次のように考えればよい。あるときは無のように見え、またあるときは生まれそこねた存在(フロイト)に見える、と。しかし、生まれそこねた存在は、少なくとも何物かであって無ではない。したがって、「弱きの構文法」を発見するよう試みるべきである。問題は、彼はすべてを試みたと感じていることだ。では、今どうするのか。
注意せよ。無および堅い核のような自己(生まれそこない)という二つの意味は、ブランショが引用している次の『名づけえぬもの』の一節によく表現されている。一方で「言葉の塵」に過ぎないが、他方では「堅い場所の中の言葉なき存在」、「檻で生まれ、檻に閉じ込められた獣」だ。
彼は自分の作品の中で「弱さの構文法」を追求し続けてきたと言った。なぜなら、形式は障害であり、「強さの印」だからだ。ベケットは、これは「二つの両立不能な立場の衝突だ。人生が終わるはるか前にこれは終わるだろう」と言った。
「どんな形式も、まったく耐えがたいやり方で存在に糞をたれてしまう。汚い言葉使い、失敬!」


落ち着きのなさと運動


[ローレンス・E・ハーヴィーはベケットに作品中の無の感覚についてさらに尋ねた。]
ベケットは答えた、それはむしろ ―― 少なくとも彼はこの関連テーマに直接入った ―― 「落ち着きのなさ、夜動き回ること」の感じだ、と、このことの多くが自分の作品の中に見出されると彼は言った。それでも続けねばならないという感覚もある(『事の次第』参照)。モロイは本当に打ちのめされているときでも動き続けねばならないと感じているとベケットは述べた。反対に、単に横たわって動かないことへの欲望も彼は口にした。これは、さっきの落ち着きのなさ、動き続けたいという逆向きの衝動によって埋め合わせられ、おそらく決定されてもいるのだろう。
私が彼の作品に見出すエデンの園=追放の緊張について話すと、ベケットは反対し、人生を「運動の単なる連続」と表現した。本質的に無意味な動き回りと彼が表現したものに対して私が導入しようとした意味に、彼は明らかに異を唱えたのだ(『ゴドーを待ちながら』のどこにも行き着かない円環運動と比較せよ。)


彼の人生と芸術


自分の人生は自分の芸術と無関係だと彼は言った。少なくともいかなる関係も見出さないと。しかしあと『詩集こだまの骨』に出てくるアイルランドの地名について話しながら、彼は言った。「もちろん私は自分の人生が自分の芸術に無関係だと言うけれど、もちろん関係もあるんだ」。彼がこの文脈で繰り返し用いた単語は、使われるべき「素材」だった。
芸術のための芸術という極(人生と無関係)と自伝的芸術(芸術と人生が一体)のあいだを行きたいと私は言った。芸術は実存と同じくらいリアルな現実になりうるようだとも付け加えた。彼はこれを黙認した様子で言った。「『モロイ』は呼吸のための酸素を見つけるために始められた ―― 私自身の惨めな実存を作り出すためにね」。
あとで彼は言った、「作品は経験に依存しない。作品は経験の記録ではない。でももちろん経験を利用しなければならない」。
「ひざまずいて、頭を壁、というよりは絶壁にくっつけ、誰かに「続けよ」と言われているような気がする」と彼は言った。「壁は少し動かねばならないだろう、ただそれだけさ」。「私ではなく私の作品が私をこういう立場に追いやったのだ」とも言った。演劇がまだ彼に可能なのは、人生と虚無のあいだにつながりがあるからではないかと私は言った。彼は同意した。
「子供は雪だるまを作る。私のやっているのは、塵でできた人形を作るようなものだ」。この言葉がどうやって出てきたのか忘れたが、要するに[彼の書こうとするものは]バラバラになってしまうだろうということだ。破壊の感覚と言葉のむなしさの感覚を彼は持っていた。しかし同時に、作らねばならないという必要もあった。


反抗


ベケットは自分の作品には「何の反抗もない」と言った。さらに確かめると、初期の詩には少しの反抗があったと認めたが、それは表面的だったと言った。「完全な服従」という言葉を使い、自分は「反抗されているけれども反抗しているのではない」と述べた。「反抗」という言葉を能動的な反対ではなく、何かから逸れていくという語源的な意味で彼は使っていた。彼は個人を破壊の一形式の対象と見ており、能動的というより受動的な存在と考えている。



マーティン・エリスン
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あるディナー・パーティーで、母胎内にいたときのことを覚えているとサムは私に言った(他の人にも言ったのを知っている)。そのときは酔いつぶれてしまったが、いろいろな声が母胎内で話していたのを彼は思い出すことができた。あるとき、「あなたがものを書く動機は何ですか」と尋ねると、彼は「私が感じる唯一の義務は、閉じ込められた哀れな胎児に対してのものだ」と言った。なぜなら、「それこそ想像しうる最も恐ろしい状況で、苦しんでいるのに、外側に何があるのかわからないし、苦しみから抜け出す方法もわからないのだから」。『勝負の終わり』で少年の姿が見えるのか思い出されるが、ともかく、サムは、出口を知らないあの哀れな、苦しい、閉じ込められた存在に対してまったく神秘的な義務を感じていた。でも、彼の作品を見渡すと同じことが繰り返し出てくるのがわかる。『死んだ想像力よ想像せよ』や『なく』のような複雑な作品も、いつも、出口のない閉じた空間と関係している。彼は、どんな風に身体が曲げられていたかとか細かいことを描き出したりさえする。閉じ込められていたときの記憶に関してすごい想像力、夢、あるいは現実感を持っていたのだ。自己もまた自閉している。他者に至る道はないのだ。 176



第六章 演出家としてのベケット
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( 中略 )第三部は、サンクウェンティン演劇ワークショップと呼ばれる小さな劇団で自作を演出することになったときの、ベケットの生活の驚くべき側面について探索をする。このワークショップの創設者であり元囚人でもあるリック・クルーチーとの数年に及ぶ不思議な友情を通じて、これは実現したのだ。クルーチーは誘拐、強盗、銃撃の罪で一九五五年に終身刑を受けており、恩赦の可能性のある刑へと変更されるまで、悪名高い重警備刑務所サンクウェンティンで十二年を過ごした。彼はその後、全面的な恩赦を得る。投獄されているあいだクルーチーは演劇に深く関わるようになり、ベケットの戯曲の多くに出演する。恩赦で外に出たあとは、彼自身の戯曲『檻』を携えてヨーロッパを旅し、サミュエル・ベケットと会う。クルーチーの人柄と来歴に魅せられたベケットは、一九七七年のベルリン・フェスティヴァルの芸術アカデミーで、彼を『クラップの最後のテープ』に出演させ、みずから演出することに同意する。以後十二年間、ベケットはクルーチーの世話をすることになる。ベルリンで『勝負の終わり』を上演するサンクウェンティン演劇ワークショップに助言を与えたあと、一九八〇年にベケットは、同作品を演出することで再びこのグループとともに作業をする。また一九八四年にはロンドンのリヴァーサイド・スタジオで『ゴドーを待ちながら』を演出 ―― ベケット自身が使っていた言葉によれば「監督」 ―― した。それはヴァルター・アスムスがシカゴで始めた上演だった。ベケットが非常に寛いだ、和やかな関係を持っていたサンクウェンティン演劇ワークショップの四人のメンバーの思い出を同時に掲載するのは、これが初めてである。彼らと一緒にいると、ベケットは再び「少年たち」の一員に戻ったようで、歳が大きく離れているにもかかわらず、その関係を心から楽しんでいた。 188



ブレンダ・ブルース
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上演中に人がよく出て行くことがあったから、公演期間中よくサムに電話をしたんですが、彼はパリのど真ん中にいたのに、いつも受話器をすぐ取り上げるからびっくりしました。すぐに彼につながって「昨晩は、出て行った人がいたわ」って言ったら彼は、「そう、そいつは素晴らしい」って言うの。彼は大満足だったのね。だからこの点に関してはちっとも同情してやらなかったわ。 192



サンクウェンティン演劇ワークショップ 226
リック・クルーチー(一九三五~)
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写真は一九七七年の「クラップの最後のテープ」のもの。サンクウェンティン演劇ワークショップの創設者であり精神的支柱。仮釈放され恩赦を受けるまで、サンクウェンティン刑務所に長年収容されていた。ベルリンでベケットの助手として働いたあと、『クラップの最後のテープ』でクラップを、『勝負の終わり』でハムを、『ゴトーを待ちながら』でポッツォを演じる。これらはすべてベケット自身の演出で、ベルリンとロンドンで上演された。出版社とリック・クルーチー白身の許可を得て、ここに『サミュエル・ベケット ―― 「クラップの最後のテープ」劇場ワークブックⅠ』から再掲載する。


私が最初にベケットの芝居を演じたのは一九六一年で、カリフォルニア州サンクウェンティンで終身刑に服している最中だった。仲間の多くの受刑者たちと一九五八年からベケット劇への関心を共有してきたのだけれど、当時の刑務所長が芝居の上演ができるような実験的ワークショップの試みを特別に許可するまで、私たちは辛抱強く待ち続けなければならなかった。そして一九六一年に、私たちの小さな劇場の誕生とともにベケットの三作品の上演を始めた。このささやかなワークショップから生まれた最初の作品である。
私たちの最初の上演作品は『ゴドーを待ちながら』で、そして『勝負の終わり』、最後に『クラップの最後のテープ』だった。三年間のあいだにベケットのこれらの作品を七回も上演した。すべての芝居が、受刑者である観客のために受刑者によって演じられ、演出された。サンクウェンティンの小さな劇場は、毎週末、アメリカ人服役囚で大入り満員となった。それも当然だ。ベケットは、彼の芝居はすべて閉じられたシステムであると言ったが、刑務所もそうなのだから。サンクウェンティンは閉じられたシステム、しかも厳密に密封されたシステムだ! と個人的には言いたいところだ。
ベケットの登場人物は、すべて彼のダブリンでの昔の生活 ―― つまり、路上、沼、溝、ゴミ捨て場、精神病院など ―― に由来するという批評家の主張は正しいかもしれない。それに対して、ベケットの「人物たち」を演じるために、最も見聞が広く、知識があり、適しているのは刑務所の囚人だってことを付け加えておきたい! 世界中のどの場所よりも、ここには真のベケット的人物が住んでいる。見捨てられた者たち、狂人、路上の詩人、システム全体に「ミンチにされた肉」たちのすべて。現代の荒地の真の住民。
当時、特別に興味深かったことをここで述べたい。ベケットの芝居に世界中の観客が困惑し、魅了され、批評家たちが驚愕した一方で、われわれサンクウェンティンの囚人にとっては、芝居の状況はまったく普通のものだった。そう、われわれは待つことを、無を待つことを理解していた! われわれがベケットの芝居に「親しみ」を持ったという事実は多くの批評家を困惑させたが、われわれの観客は困惑などしなかった。
サンクウェンティンでベケットの芝居に取り組んだとき、私の最初の役は『ゴドー』のヴラジーミルだった。人間が「恐れとおののき」とともに待ち続けているという単純な状況に、そのときは庄倒され、そして今でも圧倒されている。たしかにそれはその当時のサンクウェンティンでの自分白身の状況でもあった。また、キルケゴールを読んで、理性を超えた神という考えについて知っていた。確かだと思ったことは、『ゴドーを待ちながら』は神を待つことに似ているということだ。言うまでもないが、サンクウェンティンのような場所では、神が姿を現わすことなどとてもありえない。つまるところゴドーが本当はなんであるか、私にはまったくわからなかった。しかし、そんなことは問題ではなかった。私はヴラジーミルのキャラクターにとても親しみを感じており、それはあまりにも自然で調和の取れたことたったのだ。一九六一年から一九六三年のあいだ、『ゴドー』の二つの上演が行なわれ、その双方で私はヴラジーミルを演じた。
そう、私の人生とそっくりの芝居を作ったのはどのような人間か、心の中では気にかかっていた。当時、私は日程表作成者のせいで頭がおかしくなりそうだった。刑務所長とカリフォルニア州のことだ。私がベケットの登場人物の仮面をつけたのも必然だった。ワットとマーフィー、モロイとマロウン、名づけえぬもの。[ベケットの]作品の登場人物とともにいると安心できた。いろいろな点で彼らはサンクウェンティンの人々と似ていたから。深まる断絶、堕落、疑い。「私たちが自由でないなどということがありうるのか? 考えてみる価値はありそうだ」。最終的に私に自由を与えてくれたのは、刑務所長ではなくベケットだった。身体的自由ではなくても、精神の自由。しかし、時を過ごすこと、ゲームをすること、そして物語を語ることはその後も続いた。
そのようなわけで、一九六三年の中頃、『クラップの最後のテープ』を再演することに決めた。私自身が以前演出したことがあり、また私の仲間の一人が演出したこともあった。今回は、自分がクラップを演じなければと感じたのだ。二年間で三回目の上演だった。サンクウェンティンでは『クラップの最後のテープ』の上演に勝るものはなかった。バナナをさする仕草は、性に飢えた観客たちの前ではフロイト的な焦らしとなった。サンクウェンティンで私が演じたようにクラップが欲求不満の男ならば観客のすべての囚人もまたそうだった。クラップは、背負いきることのできない無惨な過去という重荷を捨て去ってしまうようだが、砂を噛む思いの囚人も同じ状況にあった! 『ゴドー』に「死んだ声」という一節があるが、それはクラップの状況を物語っているようだ。彼は時間を、失われた時間を、彼自身の過去を取り戻そうとしている。囚人たちも同じだった。クラップは少女とポートに乗った思い出を取り返したい。観客の囚人たちの現実に最も近いのはこのような欲望なのだ! シンボルは明らかだ。バナナ、ボートに乗っている少女、失われた時間、光と闘、なんとか過去を生き直したいという欲求。サンクウェンティンで、私の演じたクラップは民に閉じ込められていた。観客もまたそうだった。
実は、サミュエル・ベケットに会おうなどと考えたことは少しもなかった。でも彼のことを知っていた、あるいは、知っていると感じていた。私の仮釈放がついに実現したとき、ヨーロッパに行こうと決めた。そして、偶然パリでベケットに会うことができた。それが永く変わらない友情の始まりだった。演出家ベケットとのより深い芸術的な交際へと私を導く出会いだった。サンクウェンティンからパリへと至る道のりは長く険しいものだったが、その報いはこのうえないものだった。
一九七四年十二月、サンクウェンティン演劇ワークショップはパリのアメリカ文化センターで、ベケットに敬意を示すために『勝負の終わり』の特別公演を行なった。そしてまた偶然なのだが、私はベルリンに招かれて、フォーラム劇場で、ある作品の演出をすることになった。さらに運命がそのように導いたのか、一九七五年一月から二月そして三月の第一週まで! シラー劇場でベケット自身が演出をする『ゴドー』の上演においてベケットとともに作業することが許された。ベケットは畏怖を与える演出家だ。彼はとても自立していて、舞台を完全にコントロールし、自分の歩む道のりのあらゆる行程を熟知している。特別な芸術の形式を自在に使いこなしているようだ。芝居を上演化するさいに固有の困難な問題を容易く解除してしまう彼の手法を理解するためには、彼と俳優たちとの作業を観察しなければならない。
劇場をめぐる伝説は、自分の演出を試みようとする作家への警告を多く孕んでいる。ベケットにとってはこのような忠告は無意味だ。しかし自作の演出は、作者が自分自身の作品をその最も劇的なコンテクストに置いて観客の前に提示できる、非常に稀有なことであるのは確かで、ベケットはまさにそれをする作家なのだ。他の演出家の手にかかると彼の作品はまとまりなく、平坦で、あまりにも現実的で、散文的に見えてしまう。役者たちにとっては他の問題が顕現する。おそらくはベケットの特別な形式への理解が欠如しているという過失のため、他の者の手による彼の作品は、舞台上で重苦しいものとなってしまう。何よりもこのような理解の欠如が、ベケットの演劇作品の評判をあんなにも落としてしまったのだろう。過去、論争を巻き起こし、厳しい批評を招いたこれらの戯曲が、今では観客にとってもっと理解しやすく、飲み込みやすくなったという事実に、今は批評家たちも納得するであろう。たぶん、ベケットに追いつく必要があったのだろう。ベケットは自身の作品を正確に理解しており、この点で彼は無比の存在だ。そして彼の戯曲の登場人物たちも近代文学全体において無比の存在なのだ。
シラー劇場で彼が演出をした『ゴドー』の上演は、他のすべての上演の規範となった。いまや世界各地で多くの上演がなされているが、その多くはベケットがなしたことを発見するためにベルリンに参じた者たちによって演出されている。彼の『ゴドー』が見事な成功を収めたのは、ベケットが自身の画布を完璧に制御したからである。彼の『ゴドー』における形式とスタイルは、その音楽性と身振り、抑揚と音声の美しさ、動きと黙した風景が交じり合い、豊潤な流れとなり、その優雅さは風に弄ばれるモビールのようだ。
自分の作品においてこのようなことを舞台上で実現できる劇作家を他には知らない。シラー劇場での上演のあと、クラップを演じる若いフランス人俳優[ピエール・]シャベールと、ベケットとのリハーサルを見るために、私はパリに行った。パリで数日過ごしたあと、私の幸運は尽きてしまった。合衆国に帰らざるをえなくなったのだ。しかし、いつかまたクラップを演じようという誓いを立てた[実際に、彼は、のちにそれを演じる多くの機会を得た]。



ローレンス・ヘルド 238
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ベルリンで最も気に入っているものについて尋ねてみた。彼がこの街に引きつけられていることを、私はすでに聞き及んでいた。そして私もこの街を好きになってきていた。再び、間があった。「家と家のあいだにある空間が好きだ」と彼は答えた。家と家のあいだにある空間に注意などしたことはなかったが、それからは私も建物と同様に、あいだの空間も都市の一部として見るようになった。家と家のあいだにある空間に対するサムの愛着が、彼の文章にも関係があることにも気づいた。対話の中の間、舞台装置の間、登場人物同士の間に至るまで(登場人物と装置の間、登場人物と観客の間もだ)、登場人物の物質的な存在と同様に、彼らの重要な一部なのだ。



ジェイムズ・ノウルソン
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主知主義とは別に、彼の作品には、感情の深い水脈がしばしば流れていることを、私はより強く意識するようになった。彼の人生について話をしながら、彼をとても深く突き動かした経験が、とても鮮明に浮かび上がってきた。母親への深い愛、よく知られている通り、とても難しい関係にあって、めったに彼が話す気になれなかった母親のこと。大学の職を辞することで父親を失望させてしまったことへの罪の意識。父の死を語りながら思い起こす鋭い心痛。シュザンヌに対する大きな負い目の感情。すべてのフランスの出版社が彼の作品をボツにしていたのに、彼女は彼の文学の才能を信じてくれたのだ。常に彼の作品の鍵であった傷みと苦しみに対する感受性が、くっきりと見えてきた。彼の感受性、傷つきやすさが、どれだけその創造的営みの前提となっていたかを私は感じ取った。彼の慎ましく簡素で小さな部屋に座りながら、「全身が感情」と自分のことを称していた、初めの頃の彼の言葉をしばしば思い出した。それは完璧に正しかった。 291



S・E・ゴンタースキー
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演劇的パフォーマンスに対するベケットの貢献は並外れている。彼は演劇から演劇性を剥奪し、自信に満ちた造形芸術である演劇に形而上学と不確定性を再導入し、作家と物語の力が共に減じられ、覆されているこの時代に、言語と物語と詩と劇作家の優位を再び主張した。ベケットは、アメリカの出版社のバーニー・ロセットへの手紙の中で、自分の作家としての権能が制限されていることを表明している。


……サー・ラルフ・リチャードソンとのインタヴューはまったく不満足なものだった。彼はポッツォの詳細を知りだがる。彼の住所から履歴書から。こういった情報から、ポッツォの役柄を具体化するために骨を折ってくださるというわけだ。うんざりしてしまい、彼を満足させる気は失せた。ポッツォについて私が知っていることはすべてテクストに書いてあるって言ったのだ。もしもっと何か知っていたら、テクストに書き込んだだろう。これは他の登場人物にも当てはまることだって。これであのスターの尋問を終えることができるだろう。


同じように、一九八〇年のロンドンにおける『勝負の終わり』のリハーサルのとき、ハムを演じるリック・クルーチーが、ハムの物語に出てくる少年は若き日のクロヴなのではないかと、ベケットに直接尋ねた。「少年が若いクロヴだなんて知らないよ、リック」、ベケットは答えた。「本当に知らないんだよ」。
ベケットは、前例がないほどに劇作家の優位を唱え、作家の力が及ぶ領域を拡大すると同時に、作家の無力さ、作家の権威の失墜を公然と示した。その結果、イデオロギー的・美学的な真空が生まれ、その真空を多くの演出家と俳優たちが必死になって埋めようとしたのだ。しかしそれは、誰も埋めることができないとベケットが想定した真空であり、それこそがベケット的パフォーマンスを規定し、他の作家のパフォーマンスから区別するのだ。俳優や演出家がこのスペースを埋めてしまったならば、ベケットはイプセンになってしまうだろう。 299



マイケル・ラドマン
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具体的な質問に関して彼が答えることを拒否するのは、彼には答えることが不可能だからだと私は思う。
この芝居は純粋に彼の頭の中での出来事であり、この芝居に可能な風景はそれしかないのだ。(彼自身が私や他の者に言っているように)小説執筆の気晴らしとしてこの作品を書き、再びこの作品によって気晴らしをしたい、という満たされぬ願望を彼は持っているのだと思う。彼は「ゴタゴタしていない」舞台を望んでおり、過度に色をつけることを望んでいない。彼は軽蔑的な言い方で、他の公演を「ゴタゴタしている」と評していた。
私の最大の悩みは次のようなものだ。彼はとても滑稽な舞台を望んでいるのだが(本当に滑稽なことを彼は望んでおり、滑稽なことを彼は本当に望んでいるのだ)、また一方で動作の様式化を、おそらくマイムのようなものを望んでいるのだ。( 中略 )ベケットが望むものを彼に提供するよう、われわれは努力しなければならないと思う。 310



ヤン・ヨンソン 311
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ヤン・ヨンソン(一九四七~)はスウェーデン人演出家、俳優、作家。ストックホルムの演劇芸術アカデミーで勉強したあと、王立劇場で俳優として活動。カリフォルニアのサンクウェンティン刑務所における公演以前に、スウェーデンのクムラ重警備刑務所で『ゴドーを待ちながら』を演出した。このときヨンソンはサミュエル・ベケットに様々な相談をしている。二〇〇二年から二〇〇三年にかけて、オスロのイラ重警備刑務所で『勝負の終わり』を演出。以下の文章はこの本のための書き下ろし。ヴィベケ・ケネア・オッテセンによる翻訳を、編者が改訂。


裸足のまま、長袖のシースルーのシャツと膝下までの青白いズボンを身につけて、十四歳の私はスウェーデンのイェーテボリにある市民劇場の舞台袖に立っていた。照明の光で体を温めながら、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のヴラジーミルとエストラゴンを演じる役者たちの演技を見ていた。私の役は、「一人の少年」だ。一晩に二回、登場する。第一幕と第二幕の終わりに「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」と一息で言う。幕開きから終わりまで、舞台から隠れるように暖かな照明のもとにいることが、次第に私の儀式となっていった。ヴラジーミルとエストラゴンにメッセージを伝えるために用心深く入場する前に、私は俳優たちの感性に耳を澄まし、物語の展開を追い、舞台の「体温」を感じとりたかった。私の中に何かが点火されていたのだ。
数年後、ストックホルムの王立劇場におけるアラン・ドルリーのモノローグ劇『その男自身』に出演したあと、スウェーデン矯正局から、クムラ重警備刑務所で囚人のためにその作品を公演してほしいと言われた。このモノローグ劇は囚人たちの人生をうまくとらえているというのだ。芝居が終わったあと、囚人たちは拍手をしなかった。彼らが見たのは、自分たち白身の芝眉であり、それは拍手に値するものではないのだ。その代わりに、前列から一人の男が立ち上がり、赤らんだ鼻をこちらに見せながら、「どうかまたここに来て芝居を教えてください」と言った。彼の顔はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に出てくる「エストラゴン」を思い起こさせた。「芝居を教えることはできないけれど、今度はサミュエル・ベケットというアイルランドの戯曲家が書いた芝居を一緒に読みましょう」と私は答えた。別の男が、「ベケットは俺のヒーローだ!」と叫んだ。私は彼らに、サミュエル・ベケットと彼の作品に対する愛を語った。またすぐにここに戻ってきて『ゴドーを待ちながら』を一緒に読もう。暗闇に生きる人々によってそれが読まれるとき、そのテクストに何が起こるか体験してみようと提案した。「近いうちまた来いよ、俺たちはどこにも行かないから」と彼らは答えた。
ベケット自身がフランス語から英訳した『ゴドーを待ちながら』の台本数冊を持って、私はそこに戻った。みなに会い、互いにテクストを読み合い、また聞き合いながら、やり方を見出した。それぞれの場面で読み手を変えるようにして、それを続け、約一週間たったある日、一人の男が台本を手に椅子から突然立ち上がり、はっきりとした声で、「これは台本じゃねえ。俺の日記だ」と言った。「ヴラジーミルの言うこと、考えること、待っていること、笑ったり、泣いたりしていることは、ほとんど俺の人生と一緒だ」と続けた。
私はとても感動し、この芝居は人々に見せなければならないと感じた。刑務所長も上演することに同意してくれた。五〇人の中の五人が、「ゴドー」の五人の登場人物にぴったりだと思えた。一年間のリハーサルを経て準備は整った。刑務所内の他の囚人と従業員の目の前で行なわれるドレス・リハーサルは、俳優と観客の魅惑的な出会いでもあった。刑務所はもはやそこには存在していない。初日は「外」からの招待客のために上演された。最も重要な観客は、俳優たちの家族だった。
私の役者たちは正当な評価を得た。刑務所管理部の者たちは、何か新しいものをそこに見出した。彼らの目の前にいたのは囚人ではなかった。人間だった。これまで見てきたものの中で最高の矯正の仕事だと言った。その結果、刑務所の門は開かれ、私たちは、衣装、小道具、エストラゴンの石、刑務所の裏手の畑から前夜盗んできた貧相な木を積んだ快適なバンに乗って、巡業に出た。イエーテボリの国立劇場での客演公演に招かれたのだ。役者たちは自由を体験した。何年も彼らには許されなかった音、色、においを体験したのだ。私たちが上演したのは第一幕だけだった。全部を公演する権利がなかったのだ。観客は、俳優たちの言葉に敬意と注意をもって耳を傾けており、彼らに対する赦しの感覚が宙に漂っていた。閉ざされた刑務所に戻り、役者たちがそれぞれの監房で翌朝目覚めると、アイデンティティも人間的価値もない囚人へと戻っていた。
ベケットは、私の仕事について耳にしていた。待ち合わせの場所と時間を指示する美しい手薄さの手紙を彼から受け取って、私は喜んだ。会うと彼は、次のような質問をした。「暗闇に生きる人たちに私の作品を上演させたとき、テクストに何が起こりましたか? 劇中の沈黙はどうでしたか? リズムはどうですか?」。リハーサル中は、みなテクストを自分の言葉とするまで練習をしたこと、その結果、役者たちは作品の真髄に近づき、信頼に足り、美しく、感覚的な公演になったことを答えた。まっすぐ私の目を見るサミュエル・ベケットの視線は私を射抜いていた。優しく微笑みながら、彼は穏やかにうなずいていた。「どうして第一幕しか上演しなかったのですか?」と彼は尋ねた。「第二幕は気に入らなかったのでしょうか? 何か不都合があったんでしょうか?」。みな芝居を愛していたが、全幕を演じる権利を手に入れるだけの資金がなかったことを私は伝えた。「ということは、すべて金銭的な問題なのですね?」とサムは聞いた。私はその通りだと答えた。すると彼は、私たちの隣のテーブルからとったナプキンを広げ、全幕を上演する権利を私に与える旨を、美しい書体でしたためた。彼は丁寧にナプキンを折りたたみ、私に渡して言った。「このナプキンを大事にしなさい。そしてお仲間のもとに……全幕上演しなさい……みなで巡業するのです……そしてまた私に会いにここに来なさい。どうなったか教えてください!」。
喜び勇んで仲間たちに会うためにクムラ刑務所に戻り、力を新たに芝居全体の練習を開始した。今回は、真髄に近づくのがより容易になっていた。すでに一度体験していたのだから。新たなツアーが予定されていた。三か所回る予定で、イエーテボリの国立劇場が初日だった。ところが、記者会見のあと、五人の役者のうち四人は、こっそり見つからないように舞台出口から抜け出し、素早くヨーロッパ中へと旅立ってしまった! 劇場は大混乱となり、この出来事に対する大々的な警報が国中に発せられた。全席完売の会場で、観客は何が起こっているかも知らずに幕が上がるのを待っていた。私の頭は冷静であったが、体は混乱し、飢え、渇き、眼鏡なしでは何も見えない状態だった。片手に椅子を、もう一方の手にはペリエを持ちながら舞台に上がり、洗いざらいぶちまけた。「ようこそ、イエーテボリ劇場へ。残念ながら、今晩『ゴドーを待ちながら』の上演はありません。五人の役者のうち四人は、今、この劇場にいないのです」。
観客はまるで呼吸を止めたかのようだった。分厚い眼鏡をかけ補聴器をつけた年配の男性が、最前列から立ち上がり、私に尋ねた。「すいません、ここに何がいないのですか?」。「役者たちです!」と私は叫び返した。私は、ベケットが『ゴドーを待ちながら』で描いた田舎道の上の石と木にはさまれながら、舞台上から、ショックを受けている観客に向かってクムラ刑務所での体験談を話した。
そのすぐあと、私は、パリでベケット氏の目の前に座っていた。彼は私の顔を見て優しく尋ねた。「どうでしたか?」。「幕が上がる六時間前、ポッツォ役の役者を除いてみな逃げ出してしまいました……」と私は低い声で答えた。束の間、サムは息をつめたあと、大笑いをして、穏やかに言った、「書いて以来、あの芝居に起こった最高の出来事だ!」。


クムラでの私の公演の情報が、カリフォルニア州のサンクウェンティン刑務所の管理部に届いた。最初の打ち合わせのあと、刑務所の「芸術矯正」のチーフであるジム・カールソンが私の連絡係となった。囚人たちにベケットの芝居を与えたとき、どうなるか見てみようというのが計画だ。
サムに会いにパリに戻り、大興奮しながらそのことを話した。その刑務所の囚人たちは生きているあいだそこを出ることができないことを彼に告げた。「もしそこにとどまり、私の芝居を上演するように頼まれたら、どうか私の願いを聞いてほしい。絶対にやってくれ! 放免されるという望みのない人々が私の芝居に出会ったとき、何が起こるか見てきて来てほしい」と言うのが彼の答えだった。
私は、サンフランシスコに、つまりサンクウェンティンという巨大な場所に戻った。そこで私が出会ったのは、自分を表現する形を、小さな監房にいるという事実に何とか耐える術を、必死に探し求めている何百人という囚人たちだった。密度の濃い会話と読書会を数か月続けたあと、私はついにその芝居の登場人物にぴったりの四人を見つけ出した。ポッツォ役だけは見つからなかったので、彼の台詞は私が読んだ。ある日、十人くらいでテーブルを囲んで座っていると、部屋のドアがゆっくりと開いた。部屋にいた者はみな台本を読んでいたので、誰もそれに気がつかなかった。ゆっくりと顔が現われた。ドア枠に部分的に隠れていたが、大きなサングラスの背後に見える顔は沈黙と深い集中で満たされていた。部屋全体が静止してしまったかのようだった。この男こそ私のポッツォだと感じた。私はポッツォの台詞を読み始め、彼の顔を時折り観察し、その男の変化を見守った。彼はポッツォの台詞を集中して聞いていた。まるで私の口から放たれた台詞が、部屋の中を飛んで、その男の心臓に突き刺さっているかのようだった。用心しながら、私は隣のジム・カールソンにメモを書き、折りたたんでから、ゆっくりと彼に渡した。「ジム、ドアのところにいる男が見えるかい? 彼をポッツォにしたい」。彼は答えた。「あのドアの男は使うことができない。彼は話さない。何も言わないんだ。もう三年以上この刑務所で彼がしゃべるのを聞いたやつはいない」。私は彼に書き返した。「それでも、あの男が必要だ」。
翌日、読み合わせを再会してから約半時間後、ドアが再び開いた。あの男が来た。足を大きく広げ、大きな体でドアをふさぎ、タバコを吸いながら、前回と同様に私がポッツォの台詞を通して伝えていることに集中していた。次の日も、彼はドアのところに同じ格好で現われた。その翌日には部屋に入った。一週間かけて彼は徐々に部屋の内部に入り込んできた。七日目には、彼は点けたばかりのタバコを口にくわえ、椅子を肩に担いで現われた。彼はジムと私の後ろに座り、タバコを吸い終え、火を消すと、私に近寄ってから、彼の椅子の背を私の椅子の背に向けて置いた。注意深く二脚の椅子が触れ合うようにしたのだ。彼は椅子に座り、目前のレンガの壁をまっすぐ見据えたまま黙っていた。私は読み合わせを中断し、ポッツォの台詞を探した。次の台詞を、私は声を出して読んだ。「女たちは墓石にまたがってお産をしているようなものなのだ、ちょっとばかり日が輝く、そしてまた夜」。静かに毅然と、彼は自分の椅子を私の椅子に向けて押してきた。私の椅子が数ミリメートル動くほどだった。私たちはすばやく立ち上がり、椅子を脇によけ、黙ったまま面と向かった。彼は足を広げ、サングラス越しに私を見つめ、タバコに火を点け、ゆっくりと吸った。彼がこの世界の時間をすべて支配していた。彼は時に急かされていない。彼はタバコの火を消し、サングラスをはずし、ポケットにしまい、しばらく私の目をまっすぐに見据えた。突然彼は手を差し出し、私たちは握手をした。
「俺はスプーン・ジャクソンと言うんだが」、彼は言った。「この芝居をやるためにここにまた来るんだよな?」。「ええ、」と私は答えた。スプーンは続けて言った。「頼みがあるんだ。ポッツォの役を俺にやらせて、自分を表現する手助けをしてくれないか? 俺の人生を取り戻してくれないか?」。「ぜひ、君が君自身を表現する手助けをして、君の人生を取り戻してあげたい」と私は答えた。「信じていいのか?」とスプーンは聞いたので、「もちろん!」と答えた。彼は誇らしげに台本を取り上げ、脇にはさみ、サングラスを再びかけ、新しいタバコに火を点け叫んだ。「よし! じゃあ良い週末を。月曜の朝にまた会おう」。ジムは私に尋ねた。
「いったい全体、君はどうやったんだ?」。私はわからないと答えた。圧倒的な気持ちがこみ上げていた。月曜日の朝、スプーン・ジャクソンはやってきた。彼はどうやら世界への扉を開けたようだ。席につくと、彼はポッツォの台詞をあたかも自分自身が書いたものであるかのように読み始めた。
私たちはリハーサルのために美しいレンガ造りの部屋を与えられていた。しかしそこから遠くないところに「死刑囚監房」とガス室があった。厳重装備した警備員がいたるところにおり、外のきちんと刈り取られた青々とした芝生のなかには警備塔が数基建っていた。そこから顔が現われ、すべての歩み、すべての動きを強力な双眼鏡で追っていた。「挙動不審者は警告射撃抜きで即射殺する」という張り紙が張ってあった。
これがわれわれの素晴らしき任務 ―― サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の上演 ―― の背景だった。
作業中、私は、ベケットに会うためにたびたびパリを訪れ、進行具合を報告した。みな彼の言葉を通じて意思の疎通を図ってはいるが、そのリズムと聞き取り方には彼ら自身の育ちが反映していることをベケットに伝えた。時に、役者たちが台詞のあとに「俺の言うことわかったか(You dig what I`m saying)」〔スラング〕と付け加えることがあることを、また、会話を終えたあと握手することがあることを彼に伝えた。
刑務所内の大体育館に、私たちは見事な舞台を作り上げた。衣装と小道具はサンフランシスコのアクト・シアターから借りた。すべてがうまく収まった。刑務所管理部はこのプロジェクトを信頼していた。彼らのサポートと、ジム・カールソンがいてくれたおかげで、初日にこぎつけた。役者たちの家族が最前列に座っていた。彼らは母親に、彼らに生を与えた女性に、またおそらくは彼らを無条件で愛してくれる唯一の女性に、彼ら自身の物語を伝えた。「ハッピー」というエストラゴンを演じた役者が、石の上にじっと座りながら、母親の目をまっすぐに見据えて、静かな声で「どうにもならん」といって舞台の幕を切って落とした。
サムのアメリカにおける出版社のバーニー・ロセットが公演を見に来た。サムの要請で、私たちの三回の上演が撮影されることになった。撮影するのはプロではなく、刑務所の「芸術矯正」プログラムに従事する他の囚人で、俳優たちが信頼しうる者たちだった。バーニー・ロセットは、サムがこの映像を必ず見ることを請け合った。
最終的に私は、サンクウェンティンから名残りを惜しみなから立ち去ることになった。再び、私はパリに行き、サムの目の前に座っていた。彼はジェイムソンの瓶を取り出し、私の目を見て言った。「遠慮せずに飲んで!」。そして彼は私に尋ねた。「どうしてこのような大変な苦労をあえでしたんだい?」。私は答えた。
「私はあなたの作品の沈黙を愛しているからです。あなたの顔の沈黙も愛しています」。私たちは立ち上がり、サムは私の額にキスをして言った。「君は私の戯曲の核心をつかんだようだな。お願いがある。また彼らのところに行ってくれ。今度は『勝負の終わり』を持って」。



アント二・リベラ
  ―― ベケットの祝福 333
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アント二・リベラ(一九四九~)、文芸評論家、翻訳者、演出家。ベケットの多くの戯曲と散文作品をポーランド語に翻訳している。彼はまたポーランド、イギリス、合衆国で、多くのベケット劇の演出をしている。
彼の小説『マダム』は一九九八年にポーランド語で出版された。以下の文章でも述べられているが、この本は二〇〇〇年にファラー、シュトラウス&ギルー社から出版され、批評界で大いに評価された。一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけてのポーランドの政治的激変期に、ベケットは彼に大変親切だった。そのことは『ベケット伝』(下巻、三四四~三四五ページ)に書かれている。彼はまだワルシャワに住み、活
動している。本書のための書き下ろし。


一九八六年五月初旬、パリでのこと。私はサミュエル・ベケットの八十歳の誕生日を祝福するために開催されたシンポジウムのためにパリに行った。ベケットは私にとって最も重要な現代作家であり、私は長年にわたりその作品を翻訳し、注釈し、劇場で上演していた。彼とは一九七〇年代半ばから定期的に連絡を取っていた。
長年の慣例どおり、私たちはシンポジウムのあとで会う手はずになっていた。いつものように、サン=ジャック街をはさんで彼の住まいの向かい側にある、PLMホテルのカフェ・フランセをベケットは提案してきた。私は少しだけ早く到着し、数年前にそこで会ったときと同じ席についた。ベケットはいつものように十二時きっちり、一秒も遅れることなく時間通りに現われた。創作に関するいかなるプランやプロジェクトにも関係のない面会の場合、いつもは、彼の好んだ表現を使うと「手ぶらで」やってくる。だが、そのときは小さな本を持っていた。それは、読み込まれ手垢のついたテオドール・フォンターネの『エフィ・ブリースト』だった。
ベケットの親しい友人や彼の作品の研究者なら知っているだろうが、それはベケットお気に入りの小説の一つだった。それを彼はたびたび読み返し、作品の中でも言及している。「急いで家に帰ろう」、ラジオドラマ『すべて倒れんとするもの』の中でルーニー氏は年老いた妻に言う。「暖炉の前に座って、ブラインドを降ろそう。本を読んでくれ。エフィは少佐と不倫すると思うぞ」。『クラップの最後のテープ』でも、年老いたクラップは録音をしなから思いにふける。「エフィ……彼女となら幸せになれたかも、バルト海で、松の木、砂丘」 ―― こんな描写が出るのは、この小説の舞台がシュテティーンだからだ。つまり、今はシチュチンとしてポーランドに属している街の近くなのだ。
これらの言及に私も気がついていたので、会話の終わり近く、この作家と会ったことのある者なら誰でも経験したことがあるはずの、伝説的な沈黙が小さなカフェのこのテーブルに訪れたとき、おずおずと尋ねてみた。
「また『エフィ』を読んでいるのですか?」
彼はクラップの台詞を言い換えながら答えた。
「そう……一日に一ページずつ。目を傷めながら」
「また涙をためて?」引用の糸を辿りながら言うと、彼はかすかに微笑んだ。
「いや、そこまで言う気はないけれど」。
勇気を振りしぼって最も重要な質問をしてみた。
「どうしてその小説がそんなに好きなのですか?」
答えが得られるまで長い間があった。
「かつてはこのようなものを書きたいと夢見ていたのだ。まだ少しだけそんな夢は持っている。でも書かなかった。まったく書かなかった……」彼は話を止めた。
「書かなかったのですね……」私はあつかましくもその続きの言葉を引き出そうと試みた。
もう一度かすかに微笑んでから、握っていた手を広げて彼は言った。
「私は……生まれたのが遅かった。最近ではあんなふうに誰も書かない。最近はみな輪をかけて書くのが下手になった」彼は私を一瞥して、冗談めかして付け加えた。「でも気にしないで。世界は変わりつつある。たぶん、なんとかなるよ」
これがベケットとの最後の面会となった。その後は電話でしか話をしていない。彼は一九八九年十二月に死んだ。
二、三年後、私は自分で小説を書こうと決意したとき、師と同じ道を歩もうとは計画していなかった。私の着想はもっと控えめなものだった。しかし何らかのかたちで(ヒッチコックが自分の映画に登場するように)私の本の中でも彼に登場してもらおうと思ってはいた。私はすでにそのような幽霊現象を作り出す方法に関して二、三のアイデアを持っていた。そこで突然私は、パリでベケットと最後に会ったことを、そして彼が会話の最後で話した言葉を思い出した。そう、もちろん! 私は考えた。あの言葉で書き出すべきだ!
事実、それが私の小説の冒頭の一句となった。
一九九九年、その小説が英語に翻訳されていたとき、私はもう一ひねり加えた。
ベケットは音楽と詩に関して特別優れた耳を持っており、とくに美しさと韻律に優れているあらゆる種類の楽句と詩を記憶にとどめていた。そのような引用句の一つは、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の有名な文章である(若き日にベケット白身がフランス語に訳した文章の一部である)。それはダブリン南部ドーキーのヴィーコ・ロードを描写した部分である。それは弱強格の韻律で書かれている。こんな具合だ。「ヴィーコ街道はぐるぐるめぐって終極の始まるところへといたる」〔『フィネガンズ・ウェイク』〕。
私はジョイスのこの文章を引用しなから、英語の翻訳者にこのことを伝え、私の小説の冒頭の一句を同じ韻律で訳してもらえないかと頼んだ。そして彼女はそうしてくれた。冒頭の一句は次のようである。「長年のあいだ、私は生まれたのがあまりにも遅すぎたと考えていた」。
今にして思えば、『マダム』の成功はベケットの「祝福」と、すべてを見守ってくれた彼の魂に負うところが大きいことは間違いない。



レイモンド・フェーダーマン
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私が最後にサムに会ったのは、彼が時制の異なる世界へ行く、二、三か月前のことだった。彼のアパートの通りをはさんで向かい側にあるカフェで、私たちは昼食をともにしていた。サムはすでにル・ティエール・
タン(彼の住まいから遠くはないところにある老人ホーム)に引越していたが、気分がいいときは元のアパートまで散歩がてら行き、郵便などをチェックしていたのだ。私は窓際に席を取っていたので、彼が通りを横切ってくるのが見えた。彼は弱々しく見え、やや足を引きずるようだった。握手をしたとき、彼は私の手を長く握った。二人でしばらく黙ったまま座っていた。それから彼がエリカ(私の妻)とシモーン(娘)について尋ねた。娘は二十歳のときにベケットに会っており、今、ベケットの芝居をニューヨークで演出している。それからベケットは私の養子スティーヴについて尋ねた。彼は写真家で、彼の撮ったベケットの写真は、本の表紙に何度か使われていた。私は彼に、何か書いているか尋ねた。『いざ最悪の方へ』をフランス語に訳しているところだが、行き詰まっていると彼は答えた。「タイトルを訳せそうもない」と、彼は言った。「タイトルは飛ばして、本文から始めたらどうだい?」と私は提案した。サムは微笑んだ。それは戸惑いと愛情を同時に示したような微笑だった。「それはごまかしだよ」と彼は答えた。『いざ最悪の方へ』はサムがフランス語訳したわけではないが、Cap au pireというフランス語タイトルは彼のものだと私は確信している。サムのじゃないとしたら、あまりにも良くできすぎている。昼食を終えると、私はサムとともに彼の老人ホームに向かって歩き出した。彼は突然立ち止まり、私の肩に手を置いて尋ねた。「マラルメの『けがれなく、生気にみちて、美しい今日という日が……』という詩を覚えているかい?」。私はうなずいた。そして彼は、通りの真ん中で、その詩全文を暗唱した。私は何も言わなかった。毎日、白紙に向かうたびに、彼はマラルメが詩で明かしたような白い苦悩に耐えなければならなかったのだ。私はずっとそうだと思っていたが、とうとう明らかになった。


けがれなく、生気にみちて、美しい今日という日が
酔った羽ばたきの一撃で ついに打ち砕こうとする、
堅く凍って忘れられたこの湖を、湖の白い氷花の下には
遁れなかった数々の飛翔の 透明な氷塊が棲んでいる。


かつての日白鳥であった一羽は思い出す、不毛の冬の倦怠が
燦々と光を放ったあの時に、生きた境地をうたわなかった
そのため、華麗な姿をしてはいるが
解き放たれても希望を持てぬ、これが今の自分なのだと。


空間を否定しているこの点に 空間が科した
この白い苦悩を 鳥は頸全体で揺ぶりつづけるだろう、
だがそれは 羽が捕らえられているこの地上に対する恐怖ではない。


その純粋な輝きが この場にあらわす幻は、
益もない追放のさなか白鳥が身にまとう狷介孤高《けんかいここう》の
醒めた夢想にじっとひたって、身じろぎもせず動かない。
〔『マラルメ詩と評論』松室三郎訳、筑摩書房、28-29ページ〕


通りの真ん中に立ち、この詩句を暗唱し、白い苦悩のところでわずかに間をおいたサムのことを、私は、決して忘れないだろう。私が今までもらった中でも最高の贈り物だった。そして別れ際に彼は言った。「レイモンド、書くことよりも書かないことのほうが悪いときもあるもんだ」。
私たちは抱き合った。彼の背後でドアが閉まるのを私は見ていた。鼻水が出た。涙も出てきた。コートの袖で顔をぬぐった。ハンカチを持っていなかったのだ。風の強い日だった。




スケッチ------------------------------------
『サミュエル・ベケット証言録』はベケットの一生を年代別に分けた略歴と、彼の家族・友人・知人・仕事仲間からの証言録で構成された一冊。
ベケットを懐かしみ讃美する言葉だけを収録していないところに編者のフェアネスを感じる(「彼はへんくつで礼儀知らずでした」というようなコメントも載っている)。
彼ら彼女らの言葉の端々から、ベケットが散文や演劇(散文のスタイル、哲学、演劇の演出 ―― もろもろの脱構築)でどれだけ世界に影響を与え、ベケット以前とベケット以降に時代が割れたか(もちろん影響をまったく受けてない世界・人・場所もたくさんあるが)を感じ取れる。

ベケットは散文や戯曲の執筆時に監獄や囚人のことを考えていたのだろうか?
それはわからないが(どこかで喋っているかもしれないが、まだ読んでいない)、重警備された刑務所や終身刑に服した人々がベケットの作品に自分の境遇を見出し、監獄内での『ゴドー』上演に至るくだりには、ベケットの洞察力、想像力、その心意気や核心の一端が証左されているように感じられ、忘れられないエピソードだった。また、上演後(というか再演の寸前だが)の顛末 ―― 囚人が逃げ出した ―― という結末を聞き、彼が言い放った一言に(それが事実であればだが)ベケットという人物の人となりが現れている気がする。こういった反射的な身ぶりや発言から、ベケットが偽りなしで自分の感覚や心情を描いていたことが知れる(もしポーズだったら、ああいう態度にはならないのでは)。

ひとつ気になるのは、社会に馴染みルールの中で平穏に暮らしている人々のことだ。このような人々(と、ひとくくりにするのは乱暴だが、囚人の日常や現実感とはかけ離れているだろう。そういう対比をもって、上に「平穏に暮らしている」と書いた)はすぐ傍で四人の重犯罪者が消え、自分たちが暮らすシャバのどこかに潜むようになった社会の変容を喜ぶだろうか? 安全や生活が脅かされることを嫌がったのではないか? 囚人の演劇を観にいった人たちは自分たちが何を期待し、何に守られ、何を嫌っているかをあらためて考えただろうか? 囚人は生まれたときから囚人だったのではないとしたら、彼らに囚人化のすべての責任を負わせるのはアンフェアじゃないか? また、監獄に囲われている囚人の生活と、そうでない人間の生とに、大きな違いがあるのだろうか? 「ある」と感じさせるなら、その文脈とは? 「ある」と思い込んでいる人々は、そのような差異は 「ない」と考えていたかもしれないサミュエル・ベケットの作品を理解しようとしているのか?

一方、ベケットは囚人の脱走に歓喜した。この、平穏に暮らす人びととベケットの心理・現実感・人生観をわたる溝は大きく、深く、無論ここには評論・アカデミズムに位置する識者からの脚色や断定、思い入れ ―― 割り切られた解釈やジャーゴンに沿った定義づけと、ベケット本人が執筆や演出でもってまっとうしようとしたリアリティとがかけ離れているというベケット学の問題=ギャップも見出せる。

(生まれてから大人になるまで、家庭や教育システムの中で優等をとり続け、エリート学生として注目された出来る学生たちは、食えなかったり分からなかったり人とうまくつながれなかったり……貧乏から抜けられない暮らしにおける所感だとか、犯罪に行き着いた人々の感覚 ―― 刑務所での生活などを思い浮かべることがあるか? そこにシンパシーや鋭いイマジネーション、実存の本性を認め、一生の注目とするだろうか? そうしない人間(そうする必要などまったくない人間)に、ベケットの核心や作品を心から求めたり分析したりできるだろうか? また、分析や定義づけ、もっともらしい言葉での解釈や受け答えを何より嫌った(他でもない自分自身にそれを許さなかった)ベケットに対し、穏やかで幸せに暮らしている識者は、もっともらしい言葉から離れたところでの彼への評論や批評をイメージ・執筆できるのだろうか?)

長らくルールやメソッドを内破できずにいた演劇の場(※1)は、おそらくベケットにとって「はみ出し者」を隔離し、なぜ彼ら彼女らが「はみ出た」のかを考慮せずに捨て置き、「違う連中」として割り切り否定し差別化で終止符を打ち、それからは無視するという想像力を失ったままの閉鎖的な状態にある「社会」と重ねられた。矯正プログラムの試行中 ―― 上演の直前で囚人が控え室から消えて無くなった事件は、この点への威力の大いなる揺さぶりとして ―― 比喩的・象徴的なエピソードが現実に痛快な(とベケットは思っただろうか?)ダメージを与えた! ―― 身震いが止まなかっただろう。
ベケットは鎖をかけられた<もの・ごと>や、慣習・偏見に封じられた意識を、この世におけるとても低いところからの目線だとか、みすぼらしく擦れていて貧しいと思い込まれ無視されてきた現実感や人物のありありですすぎ直した。読み物にも書き物にもできるだけ不確定要素を引き込めるように、予定調和を砕けるようにと心がけ ―― 「今日何か新しくてわくわくするようなことが起こっているとすれば、それは、存在を芸術に導入しようとする試みだ ―― 混沌、秩序づけられないものを入れる試み」 ―― 「在る」と確信はできず、されど「捉われている」現実は認めざるをえず、一方で「確信」や「拿捕・収監」という状態、「認識」や「自己」という言葉のリアリティもまた言い得ない……それらはいつまでたっても現実にはならないし定義づけも立証も不能だ ―― という実感のなかで、なにが誠実なのかという透明な命題を徹底的に考え、そして、宙ぶらりんや空振りまでもをまっとうしようとした ―― サミュエル・ベケットとはこのように、白い苦悩と連れ添った人だった ―― というフレーズで結べば、このスケッチに収まりと情緒でピリオドを打てる。余韻も発する。
しかし ―― 省みよう、ベケットを。
情感の再生、おさまり・おきまり・おきどころの発生、繰り返されてきた物語の誕生 ―― それらを疑い、安易に寄りかかることをせず、書きはじめの契機と定めたベケットをなぞり、ここは「あくまでも、つづく」とする。


(※1)ステージ・ホール・フロアで行われるあらゆる芸術・パフォーマンスが、作品・ジャンルを成立させるフレームやルールを壊さなければならないという意味ではない。ベケットだってそうは思っていなかったはずだし、おれもそんな必要はないと考えている。ただ、特定のジャンルに対して反省も点検もなしに盲目的な状態でいる人物に会ったり、そういった言葉・論考に触れれば、ベケットは「どうして先に構造が決められているんだ? なぜそのルールに従う? そられは君のリアリティに適っているのか? もしくは、そのように考えること自体がないのか?」と疑ったのではないか、と思っている。



●ベケットノート
ベケットとヴァン・ヴェルデ シャルル・ジュリエ 吉田加南子・鈴木理江子訳 (1996
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-65.html


疎外の構図  ―安部公房・ベケット・カフカの小説―  ウィリアム・カリー 安西徹雄訳
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-64.html


ベケット論/リチャード・N・コー 諏訪部仁訳(1972
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-58.html http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-59.html" target="_blank" title="http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-57.html">http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-57.html


なぜベケットか/イノック・ブレイター 安達まみ訳
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-58.html


ダブリンの4人―ワイルド、イェイツ、ジョイス、そしてベケット
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-59.html


ベケット 果てしなき欲望/アラン・バディウ 西村和泉訳(2008
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