和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

黒髪ボブの三十路ピーターパンがWakayamaライフを着流しでスケッチ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鈴木志郎康/極私的現代詩入門(1981)

0   0

鈴木志郎康/極私的現代詩入門(1981)


鈴木士郎康/極私的現代詩入門(1981)
------------------------------------
●三島や大江のように文学が国家に結びつかない 68
文学というのが、常に私自身の関心以外のことでなかったから、私が関心を持ち、又私が書く詩が、世間一般の人や少くとも他の文学をやる人たちと関心が一致して、私が関係している文学がそのまま他の人たちの文学というものになるとは少しも考えられなかったのである。 例えば「自分の書く詩が日本の詩の全体に影響与えるものであるなどという視点は全く持ち得なかったのだった。勿論、今でも、自分の書いた詩が世間に少し認められていくらか影響しているとは思っても「私のやっている文学と本屋の書棚にある「日本文学」とが結ぴつくようには思えないのである。つまり、私は私がその一人として形成している社会全体に対して、自分のやっていることによって参加しているとは思えないのである。テレビの勝海舟のように、自分のやっていることがこれか日本に絶対に必要なことであるなどと全く思えないのだ。しかし、多くの文学者といわれる人たちはそう思っているように見える。森鷗外などという人は、自分がやっている文学によって、日本に新しい文学が生れると思っていたことは確かだ。いや、近年センセエショナルな自殺をした三島由紀夫という人もそんなような考えでいたのであろうし、私と一つ二つしか年令が違わない大江健三郎という人も、日本という国という発想を持っている。
私は、日常会話の中ではそんな会話をしても、自分のやっていることを国家的な発想に結びつけることが出来ないでいるのだ。 


●詩が存立する地点から社会を組み上げたい 71
詩では食っていけない。現在のこの社会では詩は数多くの人に読まれないし、そのために充分に生活を支えて行くだけの金は入って来ないからである。詩は娯楽にもならないし、活力を生み出す観念でもない、ただこの社会に生きて行くときに自分の存在を自分の姿として確保する場でしかないからそんな耐え難いものを求める人が少いからなのだ。だが、天皇の赤子などと呼ばれて虫けら同然に命を奪われたり、社会に貢献するなどとおだてられて道具の一つのように使い捨てされたりすることには、誰も耐えられない筈なのである。誰でも、社会の中で自分が名前のある存在として生きていたいと思っているのだ。そこに、詩というものの存立があると考える。だが、現在の社会では一人一人の人問がそれなりに存在を十全に認められているというわけには行かないから、多くの人々から詩が読まれないのである。詩が存立する地点から、つまり一人一人の人間がそれなりに存在していることを主張するところから社会を組み上げることは考えられないものなのであろうか。


●書く肉体と書かない肉体の区別、および階級制 79
先日、私は新宿二丁目のヌ一ドスタジオに友人と一緒に入った。新宿二丁目のヌ一ドスタジオに行ったのは、始めてだった。それも事のなり行きで、友人と一緒にその店の女の子に引っぱり込まれてしまったのだったが、そこの女の子が、私たちに身体を見せるその問、喋りまくっていたのだった。その女の子が喋りまくるというのが 、同じように女が身体を見せるストリップと大いに違うところだと思った。そして、その女の子が、勿論私が詩を書く人間であるとは知らずに、自分は詩を書いており、小説も書きたいのだといったのには驚いてしまった。確かに、私たちの恰好は一見してジャーナリストぐらいには見えるから、私たちに合わせてそんなことをいったのかも知れない。だが、他人に身体を見せることを商売にしている女が、詩を書きたい、つまり言葉の上に自分の生をきざむことをしたいといったのは、私にとってシaックだった。自覚しているかしていないかは別に、更にそういうことが新宿では流行なのかも知れないが、自分の見せる肉体を書く肉体に変えたいと思っていることがショックだった。当然、精神とか思想が問題になっているのではないのだ。書く肉体と書かない肉体が区別されて、それが意味の上で階級的になっているのである。勿論、このことが、書かれる言葉に影響してくれる。


● 
肉体によって個別的に存在している私らが、言葉によって飛躍して行くところは、何らかの意味の全体なのである。この全体というのはいろいろとあったのだ。現在では、日本語という全体として、私らは国家の成員ということになってしまうのである。私はあらがいようもなく、日本の国民なのである。そして、全く奇妙なことに、このことがいかにも残念に思えてしまうのである。いや別に私が何処か外国の国民であったらよかったと思っているわけではないのだ。私は日本語を使う日本人であり、それ以外にはなれる筈もなく、それでよいと思ってはいるものの、自分がこの現在の日本という国家の一成員であると思うと残念になってくるのである。それは、国家の一成員であるということが残念なことだというのではない。現在のこの国家の構造がそういう気にさせるのだ。それは、その構造を自分から肯定出来るものに変えるという行動が、自分につきつけられているように。漠然と感じていながら、その感じというのは言葉によって飛躍するというときにあるのだが、その行動へ単純に行きつけないところの状態を強いられているように感じるところに、残念だという気持になってしまうのである。 83

●    
「つまり、私は個人主義の論理の中で、徹底した地点まで行ってしまいたいという気持で一杯になる。私は私自身の文化を持つことになる、という、しとは、正に狂気以外の何ものでもない。もしも、私があの雑踏の中の束の間ではあるが解き放たれた地点を寄りどころにした現在の私にとってはこの世に実在しない組織か又は共同体といったもの心の底で求める気持ちを持っていなければ、私は恐らく狂気に向かってまっしぐらに走って行くことだろう。だが、私は自分が現在そうである個人主義的な生き方、そしてそれに伴う表現上の主観主義を克服したいと思っている。」(極私的な極小資産者の精算は人が詩と雑踏を潜る」 ―― 「現代詩手帖」昭和44.7) 84


『自分の言葉の現実を考える』 88
詩というものをあれこれ考えながら、ずうっと書いて来て、今更のように感じることは、詩が恐ろしいばかりに言葉であって、言葉というものを除いては詩はありようがないということなのである。実際、詩を書こうとするとき、先ず言葉を思い浮べないことには始まらないのだ。そして、言葉を書き始めて、言葉を書き終えない限り、詩というのは現われてこないのだ。ところが、その言葉を思い浮べるにしても、書き始めるにしても、私自身がやらなくてはならない。詩を書こうと思えば、どうしても私は言葉とかかわらなければならないのだ。そして、言葉は単に語を記憶している私がその場に適切に合っているのを選び出してくるという仕方で成立するものでもない。言葉を思い浮べる。更に言葉を書きつけるといったとき、その瞬聞に私は言葉を楽しむなり、言葉を苦しむなり、してしまうのだ。私の生活の中に、詩を書く時聞がある以上、そういう言葉とのかかわり方をしてしまうのである。

この言葉とのかかわりの瞬間というのを自覚して以来、私は詩のことを考えると、うんざりするし、詩を書こうなどと思うことも、時には思わず知らずそんな気持ちになったりするけれども、うんざりしているのだ。詩のことなんか考えたくもないし、詩を書こうなどという気持ちにならなければよいと思っているのだ。しかし、そんなふうに、詩についてうんざりしてくればくる程、詩について考えてしまうし、詩を書きたいと思うというのはどういうことなのであろうか。うんざりする、というのは一時的な心理的な反応であるが、その心理的な反応を生むところの私自身と詩との関係が固定してしまったということなのであろう。詩が、私にとってきまった意味のものでしかなくなってしまったというのであろう。詩と私自身との関係は、以前はもっと生き生きとしたものであったことは確かだ。それは、その関係がもっと自由であったからなのであり、現在ではその関係が極めて不自由なものになって来たということなのだ。
恐らく、現在の私は詩について固定的に考えようとすれぱ出来るように思う。私は、今詩に向い、対して私自身の方が強いということを感じる。詩は、ここで考えを固めてしまえば、私の手の内のものになってしまうように思えるのだ。つまり、現在の私にとって、私がとうてい至れないような言葉の存在を可能にした詩というものがあっても、その詩は恐ろしくない。それはそれ、私は私だという態度が私に出来てしまったからである。私自身の現在の身体のありようが詩を殺しているのだということがよくわかっていて、それで詩に対するから、うんざりしてしまうのである。
しかし、詩がきまリ切ったものでないことを私は知っている。絶えず、もっと別の詩というものがある筈だと思っているから、一層のこと詩を書きたいと思い、詩にっいて考えてしま一のである。もっと別の詩というのはどんなものなのであろうか。全然わからない。しかし、それは私自身が書いてしまわない限り、もっと別の、ということにならないのだ。明らかに、詩を書くということが私と言葉とのかかわりであって、もっと別の詩ということは私と言葉とのかかわり合いの運動なのである。私が、詩を前にして現在うんざりするということは、この運動を運動として動かせないから、と推量できるのだ。何故、その私と言葉とのかかわり合い運動を動かせないのであろうか。
私の生活は、ここ何年問か少しも変っていない。その上、私はもう三十九歳になろうとしていて、何かしら固定し、個体としての私の身体は衰弱する一方である。何年か前までは別の生活の可能性みたいなものを何処となく期待していたものであったが、それも無くなった。私は、どちらかといえばあるがままの私自身というものの上にどっかりと腰を落着けてしまったように思う。それは、私自身の変革を蹄めてしまったということではない。変革しようという考えだけでは、変革は出来ないと自覚でやって来た、自分で、自分に向って吠え立てて来たようなものであった。それを止めた。いつまで経っても同じであり、吠え立てられる自分は一向に変化していないことに気づいた。私は自分の言葉とのかかわり合いの構造の余りにも静的であることに思い至り、もっと本質的な自己改革の運動を思い描いたのであった。私は私自身を眺め廻して、うんざりした。私自身の生活的なあり方というものの、卑小さはどうしようもないのだ。
恐らく、詩は、この卑小な私自身から抜け出る一つの通路となるであろう。だが、現在の私は私の生活的なあり方を守るものであるから、私自身が詩というものよりも勝った存在であり、私が書く詩には私の名前がかぶせられて、私は脱出することが出来ない。私が書く詩は、私によって書かれなければないが、私の言葉であっては面白くないのだ。私は詩を書き、私が関心を持たれることを期待するという、全くのつまらないところに詩を貶しめてしまっていることになるのだ。今の世の中の関心の持ちようからすれば、どうしてもそういうことになってしまうのだろう。それを嫌うことも出来ないし、それを受けているままにいることも出来ない。それを受け止める、ということが私にようやく出来ることなのだ。


『現代詩年鑑 ‘72』の詩を全部読む 192~
詩を書いている人たちがもれなく自分の開心の中で、自分の書き方で、不特定の読者に向って、個人的な行為で詩を書き発表している一方に、「72アンソロジ一」と題して全体を形成する仕方というのが、あるのだ。ここには選抜があって、入るか入らないか、認められるか認められないか、ということがあるのだ。NHK紅白合戦なら、歌謡曲歌手になろうとするものは誰もがこれに入れることを目差すのだが、「現代詩手帖」の年鑑ではそこまで行かないのが、ちょっと残念だった。しかし、これは確実に、全体に向けての個人のエネルギ一の出し方を決定してしまうと思えた。勿論のこと、各詩人はこんなものを目差して詩を書いているわけではない。だが、通読してみると、そこには明らかに統一があるのだ。どの詩の言葉にも、それぞれ作者が乗ってもう既に席を占めていて、読むものは入り込む余地がない。これは歌謡曲や小説とはまるで正反対の言葉の使い方なのだった。従って、私自身の気持を入れて酔うとか、世の中にはこんなことがあるのか、又世の中はこんなものだよ、等の感想を持つことも、よく書けてるとか、ほしくなるとかという気持を持つこともないのだった。確かに、現代詩日常的な言葉の使い方ではない文脈の中にあるということはわかった。実際、私自身そうして来て、今でもそうしているのだ。だから、これらの詩を読むには、そこでの関心によって関係して行く以外にはない。つまり、それは表現の言葉なのである。それは全体に対して自分の個を起立させるための言葉なのである。だから、それらの言葉を読むということは、全体に対して起立した個人の意歳の様相を読むことになるのだ。どの言葉も自らの個から出発して、全体に向っている言葉になっている。どの言葉も自分の意識を自立させようとするエネルギーを感じさせるものであった。だが、この自らの意議の自立は言葉を介さなけれぱならないということによって矛盾としてしか存在しようがないのだ。しかし、その矛盾の言葉としての実現は身体に行為の幻想をかぶせることになるので、それは、その幻想を感じ取りさえすれば、生きているという感じを与えることになるのだ。そこには、自由の幻想がある。従って、表現の言葉を読むものは自分も表現者になりたいという気持ちになるのである。詩が書かれ、詩が読まれ、そして新たに詩人が生れることになるのだ。それは、確かに詩人を生むことによって、全体に対する主体意識の持ち主を生むことになるのだ。だが、この秩序が固定することで、いわば表現者の神格化現象が起ってくるのだ。今の制度のもとでは、個人は侵しがたいものになっている。それにも増して、表現者は侵しがたいものになっている。個人を侵さず、表現者を侵さずというこのことこそ、詩が対時して否定し去ろうとしているところの全体を支えている基底なのだ。何故、私鈴木志郎康がこの文章を書いていられるのかといったら、いわば、私は表現者の神格化現象に支えられて、私自身の表現者の神格化現象に支えられて、私自身の書く言葉の抽象性が、私の文章を商品とすることを可能にしているのである。このことは更に、表現ということにこだわっていえぱ、表現者の神格化現象がある以上、何を書いても書かれてしまったことはすぺて表現と見なされてしまい、それは読者の抽象的な関係、つまり商業的な関係の中で表現そのものとなってしまい、作者を人間疎外してしまうのである。実際、今の世の中では、書き続けながら、一切の抽象性を排除して、表現を拒み、尚かつ作品として成立させることはとても出来ることではない。


関連記事
スポンサーサイト

Category :

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/tb.php/79-ef784232
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。