和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

黒髪ボブの三十路ピーターパンがWakayamaライフを着流しでスケッチ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

生き方が文章に出る

0   0

P5083878.jpg



肩書きや名声が人を惹くし、仕事の依頼も届くだろうが、文章の質は権威ではなく人柄に拠る。
難しいことが書けようと気持ちがクソだったら文章もクソの臭いがするし、たくさんの言葉を知らなくても質のある詩は書ける。「市井の人々」なんて軽く見てる言葉だと思う。コツコツ仕事をし、暮らしている人たちには知恵があり経験がある。大学の教師がなんだ? 会社の社長がなんだ? 有名な芸能人だからなんだ?
多くの言葉と知識を知っていることをアピールする文章の向こうに、幼稚であり、だからこそ権威にすがろうとするファザコンが透ける。ファザコンが偉くなり、またファザコンを惹き付ける。父親に構ってもらえなかった子供達が幼さを隠すために知識や書物、言葉で飾り立てている。


自律した精神の向き合い、対話、励ましや筋の通った批判はどこにあるのか。
退屈な能弁と揚げ足の取り合い、陰口、嫉妬心にはじまる言葉ばかりだ。ツイッターもそれでやめた。


とうぜん自分にもそういった弱さ、ズルさがあるから気にかかるんだろう。同属嫌悪、自己投影。
東京暮らしの最後のほうは自信をなくす出来事が多かった。人にすがりたくても頼れる人がいなくて、なんでも自分でできなければプロになんてなれないと方向違いのやせ我慢を強いたり、バランスも崩れていた、心のバランス。


書き物のテーマがどれだけ壮大だろうと、内容が技術的に巧みだったり仕掛けが斬新だったりしようと、書き手の心意気が出るのが文章であり、書かずにいられない何かが書かせるもの、それが散文だし小説も同じだ。
おれが人を妬み、利用し、取り込もうとして生きれば、心も邪悪になる。邪悪の極みなら文学にもなりえようが、いままで道徳や常識、誠実さを念頭に過ごしてきたおれがいまから方向を悪に転換しようと、よっぽど突き詰めなければ半端なものにしかならないだろう。おれには両親があり、愛してくれる祖母がいた。途中途中でおれを励ましてくれた友人がいた。いまさらこの世の全てを憎んだり、つながってくれる人を裏切ったり、取って使って捨てるような生き方には染まれない。


張りのあるもの、瑞々しいもの、冴えているもの、張り詰めているもの、漲っているもの、学んでいるもの、模索したい当たりし痛みを感じ、そこから逃げないでいるもの ―― おれはそういった人物や小説を書きたい。
なにかしら新しさがあり、切り口があり、アイデアの豊かな結実であるように願うが、それも小説や作品にとっては副次的な産物に過ぎない。根っこのところで人間への真摯さ、精神へのまっとうさ、人間ではない存在への敬虔さがなければ人に通じないし、書き接ぐ意味もない。おれがそう生きていなければそのような風景も精神も見えないし、であれば、いまどうやって生きていればいいかもおのずと見えてくる。


さみしさから逃げようとしてここまで来た。逃げずにいられなかった理由もたくさんある。でも、逃げっぱなしで感じず、想像力もヴィジョンも理想も捨て、現実の生活のことだけを考えて生きていくとしたら、それは矮小化じゃないか? もちろん、そういう人間、人物、おれの一部分があることは事実だし、切り離したところでの執筆なんてあり得ないが、ヘンライがいうように「自分の声を見つけ、入れ物を作らなければならなくなり、いつの間にか芸術を遂げるのは、心に響く本物を聞こうと努め、日々そう生きた人物だけ」だ。


いま傑作が書けないからやめる? いま評価されないからやめる? いま必要とされない、いま受け入れられない、いま迎えられないからやめる?
その判断は違うと思うし、後悔する。
散文でもメモでも、批評でも批判でも愚痴でもいいから、おれはその日のおれと向かいあって、声をすくいたい。




■●―  ―■△■――●●△■●――――

関連記事
スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/tb.php/82-5926bfa3
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。