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透明度《プリズム》のために ~片岡球子にうたれて ―― 01

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こないだの日曜美術館片岡球子』の回、ご本人が「新境地を切り開いたのは60歳の頃」と語っていた、ような記憶がある。

「苦節」と書けばたった二文字だが、若くして評価され、それから小学校教師を勤めながら出展→落選の繰り返しに耐え、苦しんだであろう彼女が苦節に挫けず60歳まで絵を続けられたのはなぜか ―― というのは個人的な体験を本人から教わったり、彼女と親しかった関係者などから聞かせてもらわなければ現実的・具体的には考えられない。かつ、教われたとしても彼女に固有の話し、絵を続けられた動機 ―― それは片岡球子独自のものだ。都合よくおれの境遇にカット&ペーストしたり、部分的な移植はできない、できないが……参考までに日曜美術館の内容を思い出すと、球子さんが評価されずとも描き継げたのは子供ら(担任していた学級の生徒)の存在が大きかったらしい。

自分自身への叱咤激励や理屈、将来性への希望(夢物語・寝物語・ギャンブル性の高いヴィジョン・宝くじに当たるような話し)だけで制作を続けられるかというと、それは難しい。球子さんのように「自分でない誰か、何か、何処か」の刺激や励まし、幸運に近い巡りあわせに立ち会うとか、なんらかのフォローがある、気がする。それは火が酸素なしでは燃えないことに似ている、かもしれない。助けは酸素のようなもの。

ちいさい種火であろうと、心に熱いものがあるかどうかが前提となる、炎の話だ。
火 ―― 自分にそれがあるかというと、現在、「燃えている」と言えない。でも、以前はあった。ある、と思えていた。

消えたのか? 
消えたかもしれないが、また点くかもわからない、まだ何も達成していない……一生懸命、学んで噛み砕いて書いていた日々、あのとき直面してたイメージや問題意識に解決は訪れていない。まだ結実も溶解も果たしていない ―― にもかかわらず「書きたくない、書けない……」のは情熱がないから? いや、どうだろう。たぶん……そうじゃない。

一つには、おれは本当に書きたいことを書いてないのではないか?
書きたいことを書いていれば時間を忘れ、疲労感を忘れ、先々への不安や売れていく人間への嫉妬を忘れ、夢中になって取り組むだろう、だろうというか、おれも経験がある。読むものがすべて制作につながり、書いた内容が読書や観劇にフィードバックをもたらす、あの豊かで刺激的なイマジネーションの循環は、どうしても書かなければいられないという心理状態に渦巻き、未熟な自分への批判や疑念なんて追いつかない速度だった。やるしかない、という心境。ヘンライの至言をたより、再確認するコツも多くあるが、コツから制作への熱意が得られるかというとそうじゃない。むしろ、情熱がありさえすれば、ほかのすべてはいずれ身に付いたり感じ取れたりするもののように思える。

もう一つ気がかがある。それは、トラウマ、疲労が回復していないという重たさ、体や気持ちのくたびれやすさだ。
七年、八年の書き物暮らしにくたびれ、うんざりし、孤立して社会からますます遠ざかり、パソコンの椅子に座ってキーボードを叩き始めたら……ペンを握って原稿用紙にメモをし出したら……怖いこと・痛いこと・辛いことになる、いう刷り込みの果て、おれは書けなくなっているんじゃないか?
食事のたび電流を流されるラットへのシンパシー。

書けない理由の主な理由がラット、いやラスト、上に二つ察したなかの後者だとしたら、これからはいかに書ける心身であるかが大事になる、休養と回復も含め。

球子さんは転機のひとつに「子供達を前に、心づくしの授業をやろう。ひとつの授業が一枚の絵を描くことと思って、一生懸命取り組もう」と職業への意識を改めたシーンを挙げてらした。いい授業をする ―― そう開き直ってから(開き直りではなかったかもしれない。近々、彼女についての本を読んでみる)事実、絵画が変わり始めた、というナレーションがあった気がする。それはおそらく直接的に絵画を行わなくとも、絵が変わる、自分自身のアートや信条に近い絵画へと近づけるという発見だったんだろう。

おれには生徒はいない、どころか、いまは自分が初心者であり丁稚であり、通い始めてたった三ヶ月の生徒だ。毎日、担任にどやされ、バカにされ、軽んじられ、その態度に憤りつつ、下手糞な自分がいるという事実からは目を背けられない。不当な扱いを受けてはいるが、事実、この世界のなかではビギナーに過ぎない、どやされて当たり前の未熟さ、習熟度の低さ、物覚えの悪さ……書き物云々ではなく、自尊心を保つだけで精一杯の日々だ。初めての土地に暮らし、友人も恋人もいない。自炊の出来に満たされることでギリギリやっている。年齢相応の能力の目減り感もあり、物忘れも増えてきた。ジム通いで体力が戻ったのは幸いだが、肉体にも頭脳にも、そして将来にも ―― 明るい展望は見えづらい。


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おれとってポジティブな作品や文章に触れよう。有名な作品や作家、その道の権威であろうとネガティブに作用しそうなものは極力遠ざけよう、という按配でやっていけばいいのだろうか。過去救われたり、深い刺激を受けた作品や作家であろうと、いまはそうじゃないかもしれない、と過信せず、いまの自分の素直な反応を感じ取れるようにいればいいか。「これはだめだ、よせ、無理をするな、近づくな」という内声を聞きとるだけのメンタルの透明度 ――

凝り固まらないように、諦めないように、不感症にならないように、そして濁らないようにいればいい?
理想は情熱をストレートに執筆の意欲とするような体質、燃えるものに自然と火がつくようなコンディションへの復帰と持続か。

何もかもが遅すぎるかもしれない。感覚の鋭さや無限の吸収力に恵まれた時期はとうに過ぎ、現在のおれのありありは濁りきっているのなら、割り切るしかないな、おれは濁りを認め、ただ、それを書き起こせるような想像力、技術、構成力が欲しい。妥協し、割り切り、なるべく傷つかないように身の回りの事柄や関係を無視することが可能になったバランス(思春期に嫌悪していた大人になった?)だとすれば、それを包み隠さず書き上げるのが(私小説じゃないとしても、文体や文意の底に現在のリアリティがきちっと染み渡るように)務めのような気がする。

では、濁らないため、澄んでいるため、濁りをそのまま書き起こすため ―― 日々、どう過ごせばいいのか。
片岡球子が生徒の似顔絵をスケッチし続け、やがて『面構え』シリーズへと至った軌跡をマイルストーンに、透明《プリズミック》なカクテルの作り方を考え、酔いの冷めない夜は明かない。覚醒の波よりさきに眠りの漣が寄せるだろう。すると悪夢の底にあいた一穴に落ち、フォーマルな兎の呼び声に揺すられる。















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片岡球子日曜美術館ヘンライ

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