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荒川洋治『文学のことば』を読んで

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文学の言葉/荒川洋治
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-87.html

2015_0806
口の悪い人、心のねじれてる人は居て、なるべく付き合わないようにしてきた。そんな性悪は自分自身で充分だったというのが理由の半分、もう半分は意地悪な人と付き合うとエネルギーが削がれるから。なので、おれが書いたものを読み「あなたは好き勝手やってて、あなたの色が出ていて、とてもいいね」と言われてきた、あれは、彼ら彼女らの感想はおそらく揶揄じゃなかった。皮肉を込めて物を言う人とは付き合いがない(なんらかの理由があるんだろう、何も言わない人がほとんどだ)んだから、そうである、はず。

本人がどう自覚しているかというと「発想がちいさく、あったイメージもしょぼくれ、窮屈になった」と毎度毎度感じる。頭の中の図像や世界がストレートに出せたらどれだけか、そこまで一〇年も二〇年もかかる? いやそれだけやっても無理かもしれないと自分を励ましてきた。見当違いの努力や工夫をやり散らかし、一貫性に欠け、ぶれ続けた揚句にくじけることを繰り返しつつ、やってはきた。もしかしたら小説じゃないのかもしれない、おれの体質は小説に向いていない……? 根本的な疑問も抱えながら。

何をどうやってもいい、という決まりごとも制約もないところで書くことの難しさがある。内容がとっちらかってどうにもならなくなったり、おれはこれでいいんだと依怙地なところが出て、時間をかけた箇所だったりすると削りづらい。がんばったり苦しんだ自分がかわいくなってしまうから鬼になりきれない。説明したつもりになってるケースもある。書こうとしてる人物や状況は書き手である自分には感じ取れているが、だからこそ、言ったつもり、書いたつもりになっていて、初見の読者にはぜんぜん伝わらなかったりする。

荒川さんは物を書くという行いに「好きなものをただ書いているのではなく、その原稿によって生計を立てている」かどうかが重要だと言う。物を書く、その原稿が買われる→必要とされ、そのオーダーに適うよう頭を使い手をふるって書き(客観性、自意識や一人語り、内面の吐露や一方的な思弁の垂れ流しから距離を取る書き方、気持ちの向き……執筆と公開の背景に置かれる他人の目、存在への意識、公開性……)、そして書いた原稿で依頼主を納得させ、その対価として報酬をもらえという構図を説明してる。この場合、一人で書くのとは全く違うんだよ、と。
「いくらかの制限がかかる。文章は制約と役割をもつことで一定の質が保たれるのだ、それもまた文学の世界を生きるということなのだ」

文学の世界に生きるには原稿を買ってもわらわなきゃならないのか。買ってくれる人がいないと文学の世界では生きられないのか。じゃあ買ってもらうようになるにはどうしたらいいのか。どこかで自分や作品を知ってもらい、「こいつの文章は買える/売りになる」と認めてもらうしかない。そのために(一時だから……)と先人やフォーマルな型を真似、どんどんフォームが崩れ、自分や書き物の動機を見失ったりする。すべては経験になり、そこから復活できる人間がプロとしてやっていくんだろうが、人に認めてもらうことを前提とする書き物暮らしはつらい。上に書いたようにだんだん内容がつまらくなるし(本人の適正や資質とかけ離れたものになっていく)、たとえある程度の評判を読んだとしても、その後に常時人からの評価、後ろ盾、励ましや歓声、見つめてくれる存在が必要になる。それは立てられた梯子に登りダンスするようなものだ。自分で昇った高みじゃない。いつも誰かに支えてもらわなきゃならず、その梯子は自分で握れないのだから不安定で不安、他人はいつどこで心変わりするかだって見当もつかない。飽きられて梯子から手を放されたら即落下だ。たぶん、こういった心理バランスで物を作ったり活動してる人は少なくなくて、とくに若い頃ほど危うい。おれもそうだった。使い捨てにするほうは相手の人生のこと、心理のことなど考えもせず、具合のいいコンテンツを作り出すマシーンかなにかだと思っていれば心も痛まない。いいときだけ付き合い、ダメになれば(売れなくなれば)次のマシーンを探す。そういう編集者、関係者は何人もいた。特に書き物をする連中、関わってる連中は言葉で本音を覆い隠したり、別の立ち位置、人格を演出するのに長けてるので厄介だった。おれが基本的に批評や評論を信じてないのは、さもそうであるかのように書かれている書物が、こういう連中の吐き出す言葉の塊だからだ。文面には作家やアーティストに真摯であることを求めながら、自分は人間関係において、自分自身に対して不誠実で、約束はやぶるし嘘はつくし、それで調子よく自分に利があるように世間を、業界を泳ぎわたっていく。難しいことが書けるからなんだ。情報や動向に詳しいからなんだ。あたらしい解釈を説明できるからなんなんだ。おまえらは権力的なシステムで上昇できる素質に恵まれただけ、いまや趣味と名声に生き、表層を舐め、作り手にたかるクズじゃねぇか。

誰と出会うかも本人の実力だ。運がなければ活動は続けられない。知り合ったそいつがクソで、クソと付き合いクソまみれになったなら、当時のおれも似たようなところのあるクソ野郎だったと思うようにしてる。これからはそうじゃなく生きていたいなら、いまからそうするまでだ。どうやればいいかわかってないのでまたクソにまみれるだろう。いまもクソだろう。クソなりにやっていくしかないんだよ。それは垂れ流さないようにするってことだ。匂いや汚れ、雑菌で人に迷惑をかけない。腹が痛んだら野グソで道を穢すんじゃなく、人にぶっかけるんじゃなく、そういうスカトロチックな行為は秘密の部屋でやるからいいんだ、自分の処理は自分で行う。自分のクソは自分でどうにかする。そう思うから、荒川さんの「要請され、報酬をもらえるかどうか」にも納得する。できるかぎり自分のエゴやナルシシズムから離れて書きたい。ナルシシズムで書くとしても(それが売り物になるとしても)いったん距離をとり、作家の支点から捉え返したい。

書いて、それを買ってもらえるなんてありがたいよな。必死で適おうとし、頭や情報を駆使し、一本の小説やエッセイをものするんだ。「オーダー応える」という身構えに育つだろう、文体も思考力も、構成もポジティブに変化していく。だが、買ってもらえないからといって書くのをやめたら導かれない。ヘンライも、片岡さんも、宮崎さんも、口をそろえる。「続なさい」と。おれに真剣に話してくれた先輩方、恩人たちも同じようにいった。「過渡期は苦しい。でもあなたにしかできないことがある。いまも近づいてる。続けなさい」。続ける、続けるだけ、続けるのみ。たぶん、そういうことなんだろう。だから「文学は原稿を買ってもらえる環境にある。文学者は原稿を買ってもらえなきゃいけない」というのは大嘘だと思う。荒川さんのことは好きだし、何冊も本を読んできたけど、これは嘘だ。ご本人も葛西善蔵のくだり、「ひとりの人間が生きることを伝える、簡素なもの、純粋なもの」として、こう書いてる。
「何かがあると感じて、見えないままに求めつづけた。そのような姿はいま、多くの人の心のなかにも見られる」
多くの人の心のなかに見え、しかし、形にならず、求めなければ霞でさえ見えないもの。それをたったひとり見つめようとすること。それが文学の生業じゃないのか、物書きの矜持じゃないか。おれはそう思って学ぶし、読むし、さみしくて息がつまる夜も小説のことを考える。下手糞で、馬鹿らしくて、売るあてどころか読ませる人すらいない原稿でも書いている。



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