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『シュルレアリスムとは何か』/巖谷國士(1996)


2015_0808




シュルレアリスムとは何か』/巖谷國士(1996)(抜粋・要約)
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シュルレアリスムとは
主観というのを排して、客観にいたろうとしたのがシュルレアリスム 12

日本では「シュル」と「レアリスム」で切られがちだが、シュルレアリスムはもともと、「シュル」で切られることのない言葉。「シュルレアリスム(surrealisme)(真ん中のeには付点)」という表記で書かれてきた。「レアリスム」に対する「シュール」でなく、「シュルレエル(surreeal)(並びのe、左は付点あり)」、これは「超現実」の意味です。超現実によってたつ物の考え方、あるいはその実践こそがシュルレアリスムです。15

フランス語の「sur」は日本語の「超」という語の意味、「越える」「超越する」に限りません。たとえば「過剰」や「強度」というニュアンスも含まれている。つまり現実の度合いの強さ、「強度の現実」とか「上位の現実」、「現実以上の現実」を言っている。この点を瀧口修造は「超現実主義の“超”は、超スピードの超に近い」と書きました。アルフレッド・ジャリの『超男性』や少女言葉の「超カワイイ」のニュアンスです。日本で使われる「シュール」とはずいぶん違う。フランス語の「シュル」は現実離れした世界だとか、ユートピアみたいな世界を指しているわけじゃないのです。 16

人間に客観がおとずれる瞬間をとらえようとした芸術運動 44


自動記述
二十三歳のブルトンは詩人としてデビューしていて、象徴派の流れの難解な詩派の雑誌に発表していたが、1919年にはそういうことがすべて疑わしくなった。物を書くとは何か。それを考えたら先へ進めない。そんなわけで一時、書くことができなくなっていた。
そういう状態だったからこそ、こんな実験(自動記述)がはじまったとも言える。 30

自動記述というとオートマティック(自動的)という言葉から、人間がオートメーションの機械みたいになることが連想されるが、ここで重要なのは「書くこと」を根本的に問う体験です。
1.ゆっくりしたところからだんだん速くし、ほとんど記述不可能になるスピードまで高めて行く。(速くなるにつれて私という主語が消える傾向。かわって何者かの現在が描かれる。しだいに狂気に近づいていく。幻を見たり)
2.一人でやらない。二人で向かい合ったり、一方が書いているときもう一方が見ているというような形で書いていく。自動記述×自動記述のインプロビゼーション。

→主観にもとづいて幻想を展開するのではなく、むしろ、人間に客観がおとずれる瞬間をとらえるのが、シュルレアリスムの文学や芸術のありかただということがわかってくる→客観的な世界→オブジェクティブ→この言葉はもともと「オブジェの」ということ。オブジェの世界=客観的な世界→シュルレアリスムの要点 44

エルンストコラージュ 62
エルンストコラージュには「コラージュ」の本質があらわれている。
日本の国語辞典が「シュール」の項でいうような「主観に基づく勝手な幻想を作る行為」なら「シュジェ(主体)」の芸術ですが、エルンストが見出したのは「オブジェ(客体)」のほうです。「既成の図版のXとYが、おたがいに結びついていく状況を自分が観客のように見た」とエルンストは言いました。観客のように客観的に見ながら、創造に参加する結果になったということです。
絵画、美術作品は人間主体が創造するもので、人間というのは創造する力をそなえているという一種の神話を疑うようになります。「創造するんじゃなくて、創造される何かに立ち会うのが画家」では、と。ランボーや錬金術師に通じる考え方です。


●日本におけるシュルレアリスム受容 ~澁澤龍彦と瀧口修造 66
おなじ平面上で意外な要素が結びついている、それが渋澤さんの考えるシュルレアリスムでした。これは「自動記述・デッサン」の流れとは別のデュシャン、エルンスト、マグリットらに代表される「デペイズマン(転置=本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、出会わせて異和を生じさせる)」の潮流です。計算され、意外なもの同士が結び付けられていて、画面(オブジェ)が魔術的な力を発揮する。ダリにしてもデペイズマンの系譜にあたりますが、彼は伝統主義的な技法や技量に憧れ、再現しようとしていて、自動筆記のスケッチ/作風とはまったく違う。

若い頃、ダリに惹かれていた澁澤さんは、エルンストは別格ですが、キリコ、マグリット、デルヴォー、ベルメール、スワーンベリなど、どちらかといえば「デペイズマン」系統のシュルレアリスム/シュルレアリスト、さらにはシュルレアリスム本来の運動に加わっていなかった、あるいは批判的だったレオノール・フィニ、バルテュス、ピエール・モリニエを好み、思索していたように思える。ミロやデュシャン、マン・レイについて語りません。彼は見て何なのかすぐわかる、いわゆる具象的な絵しかとりあげなかった。専門がイコノグラフィー(図像学、絵画の意味内容をさぐる学)だったので当然の帰結ですね。

瀧口修造は、とくにジョアン・ミロを中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。ダリやミショーに言及することはあれ、デュシャンとミロ、この二人が核心です。彼自身の体験にしても、「自動記述」と自動デッサンやデカルコマニーのような美術上のオートマティスムを連続させたもの、それがまさに瀧口さんのシュルレアリスムだったと思う。



meji
《コメント》
1996年にメタローグから出版された『シュルレアリスムとは何か/巖谷國士』。巖谷さんは日本語辞書のメモを参照し「ここではシュールと一緒くたにされる。さらには“作者の主観”とある。この定義は間違っているんです」と語り始めるシュルレアリスムの講義/抗議録だ。シュルレアリスムとは「超/現実じゃないよ、越えたり異世界へ旅立つ狙いはない。“超現実”で一つづりなんだ」と。

すげぇ雷鳴だ、2015_0808の和歌山県。
ここ一週間、いやもっとかな、雨なんて降らなかったのでにわか雨だろうと待ち遠しい。

「書き物に行き詰った。なにも書けない……」という点でブルトンにシンパシーを感じる。卒業したつもりになっていたシュルレアリスム関係の本や作品にあたるようになったのは、アイデアそのものとは言わないが、刺激やヒントが欲しかったからだ。

シュルレアリスムの自動筆記は速度がポイントで、かつ、一人ではなく複数での試みだった」と巖谷さんは言う。自動筆記を行ったシュルレアリストは「書き終えたあと窓から飛び降りそうになった」らしい。このストーリーは身に覚えがあって懐かしい。おれの場合は初めて聴くアルバムや、初めて見る映画を体感しながらその体感を作品の終わりまで記述していた。執筆を終えて生活に戻ると、人の声も色も動物もオブジェもひとしく感覚に流れ込んで来、処理能力がおいつかずにパンク ―― 食べると野球の審判の声が大きく聴こえ、恋人に触れれば数年前のキッチンでの大失敗がオーバーラップ、見たことのあるドラマは知らない絵画作品のように停止し、あべこべの知覚は五感を通じいっぺんに流れ込んでくる。風景から文節を見失った精神状態だった。このとき「開け放した窓枠に脚をあげるのは止せ、見下ろしてるうちにバランスを崩しすかもしれない、落下するぞ。危険だ」という因果は解体されている。

なぜあんなことをしたんだろう。パラレルな書き物の話だ。ひとつには「失われてしまう/見逃してばかりの現実・対象・感覚を書き留めたかった」んだろう。生きているとこぼしてばかりで、忘れていくばかりで(忘れたいことにかぎって覚えているっていうのに)、無駄にしているようでいやだった、たまらない気持ちだった。感じていること、それを意識より広いエリアまで拡張し、感じ取りたかった。それが主な動機だった、ように思う。時代性のある内容やテーマを提出したり、特定の心境を生きる人物を描きたかったのとは異なる(この点を見誤り、ふつうの小説のフォームを身につけようとしたところにおれの失敗、限界、青さがあったのだが、それはまた別の話)。

なんらかの命題があり、主張があり、あるいは研究してきたテーマを描くのだとしたら要約も説明もできる。というか、圧縮するなりシェイプアップさせるなりしなければ際立つ物言いにならない。他人に、長文からメッセージを汲んでもらうには技術と濃縮が不可欠なんだ。だから小説家にしても詳しくメモをとったり多くの資料を読み込み執筆する。でも、ここで問題が起きる。要約や説明ができるものを長々と小説に(散文に)することの意味はどこにあるんだ?と。往々にして動機を見失ってしまう。自分が言いたかったのは、この、言いえるものだったのか、と。あたかもそうであるように書かれてきたが、思い込んできたが、これなら実は一言で言える……ブルトンが関わっていたという「難解な詩」というジャンル(?)にしても特定のアカデミズム的な土壌・風土・学閥に依拠してるとか、ある程度のフォームやルールがあったはず。でも、そこで詩にされるのは「難解」さだろうか? 難解というムードの塊であり、詩そのものではないのでは? 

ブルトンがそう思ったかどうか知らないが、おれには思い当たる節がある。もしテーマや主張をしたいなら、小説や詩は適切な器じゃない。主張を徹底して書いたものは小説や詩にならない。やがて、書き手はそれを小説や詩として提出する不誠実さに責められるようになる→書けなくなる。

なにを書くのか、書けるのか。あらためて考えるため、こないだから『意識の透明化』についてメモしたりしてる。友人のピアニストが聞かせてくれた二年前の演奏も思い出される。あそこには一切の思考がなかった。彼女は考えたり狙ったりしていなかった。弾かれたのはベルクやベートーベンの作品でありインプロではなかったが、あたかも初見のように、生まれて初めて見る炎と踊るように、彼女自身から火のでるような打鍵の連続に、冷たくなっていたおれの感覚まで火まみれになった。どうして彼女はあんなピアノが弾けるのか、いや、理屈ではない(と書きながら、言葉で原理・原則をトレースしたがってるが、貪欲というより欲深い。というより情けない)。おれはそれを見た。あの通りにすればいい ―― と直感し、以来、さぐりさぐりにせよ、道を踏み外しそうになることはあるにせよ、土壇場で踏み堪えることができるようになった。

ブルトンを辿るのは、シュルレアリストの試みに教わるのは、ブーストが欲しいからだ。
自分でやれよ。
ああそうだ、そのとおり、言われても反論できない。
怠け者だな。
そのとおりだ。
人の書いた本に知ろうとし、他人の行いに刺激をもらおうとしてる。
稲光だ。
言えよ。
また光った。
言えって、ほら。「パクるつもりはないから許してほしい」ってさ。

シュルレアリスムは作者の主観に基づかない。シュルレアリスムはオブジェクティブに、客観的に芸術を再認識しようとした運動であり、《私/一人称/創造主としての芸術家》という固定観念へのカウンター、フランスに集いし堕天使どものヌーヴェル・バーグだった。おれはエッセイを試みてる。いまはメモやスケッチがほとんどだが、なんらかの記述を入れ、さらにそれを自意識から離れたところから興したい。最近読んだ本によると「エッセイは楕円形の世界。書き手の私の閉じ篭った世界を他者に拓く、客観への旅立ち」らしい。この点だけ抜き取ればシュルレアリスムとの相性は悪くなさそうに思える。

この本、『シュルレアリスムとは何か』に、大好きな小説への新しい読みをくれそうな指摘があったので書きとめる。

●メルヘン~『眠れる森の美女』 (意約)99
眠れる森の美女を読むと不思議な印象を受ける。出来事は不思議なことばかり起こるし、登場人物の心理、主人公の心理というものがほとんど描かれていない。ただお話がポンポンと運命にみちびかれるように先へ先へと進んでいってしまう。それでいてなぜか懐かしいし、何かわれわれ自身にとって重要なことを語っているような気がする。

メルヘンへのこの指摘はアゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』に通じる。ドイツとハンガリー、ソビエトとハンガリー、政治や歴史に翻弄され、離れ離れになった双子への“超現実”的な眼差しに貫かれた『ふたりの証拠』がメルヘンだった……? その不穏で残酷な前触れ、人類の定めを予言したオイディプス神話からの越境を果たした大傑作、あの『悪童日記』がメルヘンだった……そういえば音楽家の友人は『悪童日記』を「超一級のハードボイルド」と呼んでいた。孤絶し、ありきたりな情緒は抑制され乾いてて、それでいてこの上なくハーモニック。デモーニッシュな即興演奏のようだと。

稲光が止んだ。はいいろの空をわたる暗雲も流れ去り、かわって金色の陽が差している。
雨 ―― 待望は叶わなかった。暑くなる。

2015_0808 15:35





めじ
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