和歌山バガボンド  ~読書と木工、ときどき空想~

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文学の淵を渡る

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http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103036206/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4103036206&linkCode=as2&tag=u02c-22">文学の淵を渡る</a><img src="http://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=u02c-22&l=as2&o=9&a=4103036206" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />" target="_blank" title="文学の淵を渡る/大江健三郎 古井由吉(2015)(要約)">文学の淵を渡る/大江健三郎 古井由吉(2015)(要約)
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●見捨てられてから復活する
古井 ―― 芥川龍之介は花形だったけど、彼自身が望む文章の方向を世間は望まなかった。ここが芥川の一番の挫折では。

大江 ―― モダンで知的な文章ですね。僕は芥川龍之介という人も、いったん時代から見捨てられて埋もれたように生きていき、そして泉鏡花のように復活する、というのが幸福なあり方だったのだろうと思うのですけど。正宗白鳥もそうした。実は僕もそれを狙っています(笑)。(芥川のように)最初から天才的と評価されて、文壇の評価と大衆の評価が一致した人間はいつも不安だと思います。 82


●解体の予感
古井 ―― 老年の明晰さってあるんですよ。病、老、死という必然の縛りの中から見るので、その分だけ明晰になる。それが人には成熟と言われますけど、その明晰さは混沌と紙一重の境なんです。言語の解体の方向にいきなり振れてしまうかもしれない。でも、それだからこそ老年になっても物を書き続ける気になるのではないでしょうか。 135


●ダメになり、文体と主題を発見した 162
大江 ―― オーデンのような人間の見方を小説に書きたいものだ、しかし自分にはできない。エリオットの書いたプルーフロックのような人物像を軽快に語りたいものだ、いや、自分にはそういうこともできない。そういう当然な苦しみ方をして、私は小説を書き始めて一、二年経つか経たないかに、完全にダメな小説家になっていました。

古井 ―― でも、一旦ダメにならない作家っていますかね。やっぱりダメにならないようじゃ、ダメなんじゃありませんか?

大江 ―― ( 中略 )私は自分の主題と文体を発見していきました。とくに知的障害を持った子供が生まれて、かれと一緒に生きていくほかない、それはそのこと自体を小説に書くことだと覚悟したのが転機で、私小説でいいじゃないか、それを方法的に工夫しよう、と開き直った。それが現在に至っているのですから、やはり当然な結果として私の小説は狭い。こんな狭いところのことを書く、それも七十歳を越えた小説家が語ってゆく小説を、今誰が読むだろうかという気持ちに落ち込みます(笑)。


●おわりに舞台が出来上がる小説 178
大江 ―― (古井の小説は)舞台を最後に実現する設定を作家が作り、しかし、それをやりとげるにはどうすればいいか苦しいほどの仕方で考えていく作業が続き、そしてついにくっきりとその舞台が出来上がったことを見せる仕方で書かれています。
世界にはいろんな小説家がいますが、「このように一瞬実現する舞台を作り出すために書く」のは古井さんだけだという気さえします。はじめはその舞台への積みたてのいちいちの場面をつかみにくくて、読者が難渋することもこともあるけれど、最後まで行き着いて、その舞台に乗ると、明快なカタルシスがあるように整理されている。それが、あなたの小説です。


●推敲の根拠はどこにあるのか 219
大江 ―― 古代も今のわれわれも使っているのは同じ日本語だし、自分たちの古典に深く広くつながる文学を新しく作る基盤はあったはずなのに、実はその逆のことをやって貧しくなってしまっているのかも知れません。

古井 ―― 普遍化された分だけ失われるものがありますね。文章を書いて、推敲するわけですが、何をもとにして推敲するか。自分の根っこは何か。今の時代はこれが難しい。


●文体上の渋滞 219
古井 ―― 僕は、もう文章の由来がわからないと思って書いてる。東西の古いものを勉強してるけど、わからない。由来がわかったとき、ようやく自分の文章が成熟するのでは、と。一方で、熟したら書かなくなるかも。

大江 ―― 僕の出発点は海外の翻訳者を読み、着想を得、書くものだった。このやりかたが行き詰まってからは自己流の方法を立てた。

 こまごました部分のノートを作り、それを編集する方法で草稿を作る
 小説の最終稿がはじめの発想のままであることはない
 何らかの本能に導かれて、あれこれの発想をする
 それをもとに第一稿を書いていく

短編は二十代、三十代に十五篇ほど書いた。四十代は単独の短編を止め、ひとつ書いて推敲し、仕上げた余波をつぎの短編にするという連作をはじめた。やがて長編だけを書くようになった。作家の晩年が来たと感じ始め、時折書くようになった短編が六篇。

古井 ―― 僕はここ二、三年、短編を書くときは、まず音律が聞こえる気がするところから書き始め、しばらく書くと、それが尽きる。また次の音律が聞こえるまで待つ、ということを繰り返します。四十歳頃の作品でも、一篇の内にも音律が何色かある。でも三十代はじめの短編は、一篇を一つの音律で押し通してる。これは意外だった。はじまりに自分の正体が出てるんじゃないか。その正体をさまざまに表すために、自分は長い間やってきただけなんじゃないか。年を取るにつれて正体を見失い、見失うことを表現の原動力にしてやってきただけなんじゃないか。そう感じて唖然としました。

大江 ―― 古井さんの作品の文体の「一つの音律」というのは日本語の近代文学でまさに独自のものです。これは「一つの音律」のただの持続というのじゃないんです。

僕は小説家として人生は苦しかった。それは決意をして初期の短編の文章を捨てたからです。
あの頃は弱いなりに音律が固定していたんです。弱さを自覚していたのに捨てられずに書いていた。こんな自然発生的な文章ではダメだ、職業作家として生き続けることはできないという強迫観念に捉えられた。
それと、最初になにより自然な、自発する勢いとしか言いようのないものがあって、そのまま言葉を選び、主題を選び、文体を作っていた。ところが、転換期に熱を出して倒れたんです、衰弱して誰の本も読めず、自分の書いたものを読み直したんですが、これが酷く息苦しかった。こんな本を他人に買ってもらっていたのかと、当の自分が書いたものを、しかもきれいに印刷された形で読んで文体から主題まで息苦しいのはどういうことなのか。自分が生きていることに小説が逆行している。もうこういうことはやめなければいけないと思いました。
自分の文章を『万延元年のフットボール』で壊した。強くて複雑、人工的な文体に作り替え、文体上の渋滞が始まったわけです。文体がそういう方向にゆくと、主題もヤヤコシイものとなってゆく。あの転換がなければ、僕は小説家をやめてただろうと思います。

古井 ―― 僕も最初のスタイルで書いてたら書けなくなっていました。

大江 ―― それまで「私小説」を敵だと考えていたのに、僕は、僕と家内の生活の中心にいる障害児として生まれた自分の息子を小説の中心に置くことにしたんです。自分の子供の、普通文学の言葉とはならない、書き手にも他者の言葉である、その障害のある子供の言葉をとり入れよう、と考えました。
結局、出来上がった作品はやはり自分の声だと言うしかなくても、あのとき、他者の声を自分の声より大切だと認識したのは大きいことでした。知的な障害のある子供の言葉を通じてそれを発見したんです。 226


■●― メモ ―■△■――●
ダメになれてよかったと思う、このごろ。

まえは違った。生きてる気分じゃない、なにもかも終わりだ、おれを認めなかった奴らは見捨てた奴らは諦めた奴らは死ねばいい、もっとも辛い時期に孤立した、あの境遇もそうさせた連中もみんな消えればいいと思い込むくらい、つぶれるまでやったから挫折があった。じゃなきゃ、こっちに越してきてない。逃避行だったとしても、飛び出すしかないところまで追い詰められた(自分自身の追い込みだけど)幸運。死ぬという行為は積極性にかかってるので、はげしい落ち込みにあれば茫然としている状態で、まさしくそうやって干からびるゾンビだったのもよかった。皮肉なもので、あれもまた生きてるふちに立つひとつの状態で、生の円弧に乗り、感じるべきものを感じていた。ダメになれるのが幸運。ここを通過できたのだから、やっぱりまだ先があるんだろう。つぎに書くものも見えてきた。

ものを書いてくなんて、それが商売になってる人がいるってだけで、そもそも個人的な作業で、「続ける/やれない/やめる/やめない」なんて他人からしたらどうでもいい話、書いてる人間はそんな意識に捕まって絶望的な気分に陥ったり、ときどき死んだりする人もいる。書くとか書けないとかで? いちいち死ぬ死なないのと騒ぐの? バカみたいだと思うし、バカだと思う。でも、書き物暮らししてるとそうなる(そうなる傾向の人しか書き物暮らしなんてしない)。

生きてることより書いてることのが大事で、書けなければ生きててもしょうがなくて、書けてれば天国に暮らしてる心地だったりし、書き上げたら昇天する。いちいちが大げさ。大げさな暮らしをやっていくとしたら、どんなふうにやっていけばいいか、やってきたのかって話が何度か繰り返される、この本の登場人物、古井さんと大江さんの間で。大げさな二人は経済と評価と権威の世界で認められ、公の場で大げさな話をすることを許され、生活してる。二人はもう老人なので、死ぬまでポジションは安泰だろう。書けば文芸誌に作品が乗る。作品が乗れば対談や公演のオファーが来る。こっちからすればバカみたいに恵まれた状況に生きてる二人だ。内面の危機については知らない。人のいい悪魔がいて、「ある出来損ないの小説家の肉体」に「おまえのいまの頭脳や小説の技術・体験・知識」をそっくり移し、評価も名声も得てない時点から再スタートできるが、どうする?と問われたら、二人は受けるだろうか? そんな漫画があった。この人のいい悪魔はおれに対しどんな条件を持ち出し、納得させるだろう。そうだ、悪魔は人間をかどわかすが、かならず魅了する。そこに悪の華がある。つまり暴力は悪魔の所業ではない。

『文学の淵を渡る』 の話しだった。おおざっぱにいうと古井さんは個人的な関心や動機、ナルシシズムを突き詰めたところで書いてきてて、大江さんは社会活動や共同体とリンクしながら仕事してきたって対比がくっきり浮かび上がってる対談だ。なので、おれは古井さんのコメント部はかなりの読み飛ばした、読んでられなくて、自分が喋ってるみたいで嫌気がして。彼が書く小説が誰のなんのためになってるのか。実利や生産性がないものは滅びればいいなんて今の政府や官僚が大学や文学部を潰していくような気分はおれにないが、読みづらくてなにが書いてあるのかはっきりせず、作者にいわせても「音律が聞こえる」とか「文章や自己の正体が見えるかもしれないから」書かれた作品なんて、それで仕事になるなんてどういう仕組みなのか意味がわからない。翻訳者で偉いから? 大学で教える教授で権威者だから? あたまがよさそうだから本になるの? 人が群がるわけ? という指摘の半分は、おれの拗ねと妬みという成分で出来てる。畜生。おれが書いたものもそのように受け入れられてほしかったんだと思う、おおまかなところでいえば、おれもそれを願っていた。多少の収入が得られるくらいになりたいと。

大江さんは、現代に生きててなにを描くべきかとか(それも世界的な想像力や同時性への眼差しを元に。過去にある大作・巨匠のあとで仕事するとしたら何をすべきかというアングルから離れずに)他人や社会、世界を念頭に置いて仕事してきてる。それは他の本も読んでるので知ってる。「最終的に自分の声」になるのが小説だが、書き始めるとき「他人の声、息子の、我々健常者が使ってる日本語とは別のなにかから発される障害者の声」を小説に取り込むという発言からも伝わってくる。ひょっとしたら、書き続けたいというエゴが、見栄のいい動機、都合のいい主題、やりやすくて評価も得られるスタイルを探させたところもあったのかもしれない。だとしても、文体を作り替えるのは大仕事だし、聴こえてくる声をすくいとっていく方法を取らないとしたら、人工的にやるとしたら、それは大変なことだ。
大江さんの「自分の書いたものを読み直したんですが、これが酷く息苦しかった。こんな本を他人に買ってもらっていたのかと、当の自分が書いたものを、しかもきれいに印刷された形で読んで文体から主題まで息苦しいのはどういうことなのか。自分が生きていることに小説が逆行している。もうこういうことはやめなければいけないと思いました」という発言も、おれが喋ってるのかと思うくらい腑に落ちる。古井さんは、大江さんのこの気持ちを味わったことがないんじゃないか。

疲れてきた。書きたいことの1/5くらいしか書いてないが、なにを書いてるのかよくわからなくなってきた。メモだからまあいいんだけど。

結論から書くというやりかたを思い出した、おれは励まされたんだ。二人の老人に元気付けられた。

「挫折」なんて記憶はドラマであり、思い込みに過ぎない。でも、そう呼びたくなる出来事や時間があり、なかなか肯定できずにいた。見放されたり、見捨てられたり、バカにされた気がして、やってきたことにも経験から得た事柄からも目を逸らし、なにも考えなかった/考えられる心境ではなかった/ひどい徒労感に襲われてホワイトアウトしていた。いくつかの出来事と人との出会い(思いがけない場所で、「小説を書いてる」という友人ができたり)、忘れられないテレビ番組に後押しされ、この本にも元気をもらったというわけ。社会性とか歴史とか国のなりたちとか、それはいまのおれにつながってきて大事なことと思うが、おれが書くのもうちょっと違う小説のはず。傑作を描くために自分を知ることは大事だが、いまやれることからあんまりに外に理想があると必ず頭でっかちなものになるし、身の程をしろうとしすぎれば粗末で矮小な、つまりワクワクしない書き物になる。それはなんとなく体でわかるというところまでは、いちおう書いてきたんだろう。

情けなくても、ちいさくても、乏しくても、そういう自分の心情や現在に刺さることば、突き出ることばをつなげていく以外、質のある小説の書き方なんて存在しない。人にはバレないかもしれないが自分は欺けない。パクったり着せられたり、盗んだ主題や技術でやってると心が削られていく。そのうち書けなくなる。書いてる間ずっと盗んでる気分なんだから、あたりまえだろう。

いや、どうだろう。人から盗んでて高揚したり、盗んでることに無自覚だったり、あつかましくて浅ましい人間の書くもが案外おもしろいかもしれない。それはそれで、おもしろいかも。

おれはそのタイプじゃないからな、苦しいことだが砂漠や荒野、密林にあり、歩き方から見つけるしかない。ただ、おなじように歩き方から模索している人が、この世には存在している/生きていたという事実に励まされる。おれはこの本から、そんな元気をもらったんだ。才と運に恵まれた老人たちには、これからも生きていかなきゃならない人間に、ノウハウでも体験でも薀蓄でもなんでも渡してってほしい。


●いくつかの文学系リンク
文学の言葉/荒川洋治 http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-88.html
http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-87.html

鈴木士郎康/極私的現代詩入門(1981) http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-79.html

サミュエル・ベケット証言録 http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-74.html

悪童日記 http://bibobibobibo709.blog.fc2.com/blog-entry-73.html

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