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響きの生態系/藤枝守(2000)





響きの生態系/藤枝守(2000)
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●平均律から十二音技法、無調へ 16
近代以降の作曲手法の変遷にも、平均律は多大な影響を与えていく。平均律が提供した均質な音程関係は、ワーグナーの音楽にみられる不協和音の多用や転調の連続によって調性の秩序を揺るがせ、ついには、シェーンベルクによって十二音技法のような緻密で構築的な作曲手法が展開する環境となったといえよう。そして、「無調」というユニバーサルなスタイルが確立されたのである。
「調性がない」という調。このパラドキシカルな「無調」という音の組織化は、十二音技法以降、セリアリズムのような数理的思考を積極的に取り入れながら、構築性や複雑性のレベルをさらに高めていった。そして、シュトックハウゼンやブレーズなどを中心とした戦後の西欧の前衛運動の風にのって、無調のスタイルが全世界に拡大し、いわゆる「現代音楽」という特異な音楽のジャンルが生まれたのである。
このような無調のスタイルにみられる「現代音楽」という音響イメージをつくりあげた平均律は、さらに、楽器の特殊奏法による非音楽的な効果や、クラスター(音塊)などにみられるノイズ性の高い音響テクスチャーを生みだす要因にもなった。

近代以降、今日に至るまで、音楽の姿はますます構築的な方向に傾いていった。つまり、要素化された音の属性を時間的な設計のうえで緻密に積み上げることに、多くの作曲家たちが没頭したのである。 56

●《四分三十三秒》~ケージのレトリック 28
《四分三十三秒》から、周囲で起こっている事象に対して、注意を払い、心を開きさえすれば、意味がないと思われた事象も興味ある対象になりうるのだということを学んだ。このような認識の転換によって、あらゆる音が興味ある対象として音楽の素材に生まれ変わり、楽音/非楽音といったような音のあいだのヒエラルキーが消滅したのである。
しかしながら、そこにケージの巧妙なレトリックが隠されていることに気づかなくてはならない。つまり、聴取という行為によって、あらゆる音の営みは「音楽」という文脈に収斂してしまうおそれがある。たとえ、風や波のような自然環境の音であろうと、昆虫や鳥の鳴き声であろうと、最新のデジタル・テクノロジーが可能にしたヴァーチュアルなサウンドであろうと、すべての音は「音楽」になってしまう。
すべての音は「音楽」なのだ。すべての音は「音楽」を内包している。すべての音から「音楽」を見つけることができる。ケージの思想や実践からもたらされたこのような教えを容認するまえに、「彼(ケージ)は、音楽と呼ばれる一組の文化的コードによって永遠に定義され、操作されうるような、脱文脈化された産物として音を利用するための論法を作りあげよとした」(デヴィッド・ダン)という意味合いがその背後にあることを知らなくてはならない。
( 中略 )すべての音を「音楽」として受け入れるとき、音楽の外延は無限に拡がり、そして、解体しながら、やがて死を迎えることになるだろう。サウンド・アートのあらたな音の表現や実践を「音楽」に殉死させない方向が、ケージ亡き後、求められている。

サウンド・インスタレーションやサウンド・パフォーマンスも、このような聴取という行為によって、音楽の内側にとどまってしまう危険性(38)

・ジレンマを突破する鍵 ―― 外部との交信 ~ポーリン・オリヴェロスの「ディープリスニング」 39
彼女の聴き入るという実践は、このようなサウンド・アートでの音の捉え方を考えうるうえで重要である。「ディープリスニング」において、音は自己の内部で対象化され、また意味づけされることによって完結するものではなく、他者や環境とインターラクションするための媒体となっている。つまり、外部との交信を前提としているのが、「ディープリスニング」での「聴く」という行為なのである。「ディープリスニング」において、耳は、自らの身体と外部の環境をつなぐインターフェイスであり、イルカやこうもりがパルス音を放って環境の特性を察知するように、音を媒介として他者や環境とのインターラクションが行われる。ここで生まれる交信の綾の集積は、聴覚的なレベルを超えて共感覚的な世界へと拡がっていく。

・藤枝さんの「聴くこと」の実践 241(要約)
学生を集めてセミナーきラ・モンテ・ヤング《中国の四つの夢》を流した。倍音列の関係にある四つのピッチが、八人のトランペット奏者によって断続的に重なりながら延々と保持される。学生には、この保持音を聴きながら、暗くした教室内の気に入った場所で座って目を閉じ、いずれかのピッチと同じ高さの声を出してもらった。はじめは弱弱しかった彼らの声が、しだに倍音の関係が作用しながら、静かな共鳴が起こり、音響的に豊かさが増していった。ときどき声を出すのをやめて、全体の響きのうねりに身を任せ、周囲から聞こえてくる声に耳を傾けながら、その音と同じ高さで声を出すような指示も加えた。すると、自分の声が他者の声と触れ合ったときに、言葉にならない触覚的な感覚を味わったとか、自分が出している声なのか他人のものなのか曖昧になったという感想を彼らから聴くことができた。

●今世紀の音楽の革新 36
今世紀の音楽の革新は、音素材の拡大によって推進された( 中略 )。サティからルッソロ、ヴァレーズ、ケージへとつらなる系譜の中で、ファウンド・オブジェクト(楽器に転用された素材)や創作楽器などによるあらたな音素材が音楽のコンテクストにもちこまれ、さらに、音の増幅や記録を可能とする技術的革新が、有用となる音素材を生み出していった。

●ハリー・パーチ 56
ハリー・パーチは、自らの身体を具体的な存在としてラディカルに意識した作曲家だといえよう。手でしっかりとつかむことのできるような実在としての身体。その身体の内部から放出される振動としての声。喉から絞りだされたその振動は、口のなかで共鳴し、舌や唇とぶつかる。そして、振動の倍音成分の微妙な変化が生みだす抑揚がアーティキュレートされて言葉になる。このような身体から言葉へとつながる振動の連鎖を通して、パーチは、純正調の世界に深くのめりこんでいった。
(純正調は 1.言葉の抑揚の微細な変化に対応できる 2.身体をダイレクトに共振させるパワーを持っている)

●コンロン・ナンカロウ 60
アメリカ中部のアーカンソー出身のコンロン・ナンカロウは、ジョン・ケージと同じ1912年生まれ。ジャズ・トランペッターとして音楽活動をはじめるが、ストラヴィンスキー《春の祭典》を聴いたことが、リズムとテンポというナンカロウが一生涯を捧げた主題への興味をよびおこした。ナンカロウ自身、「ハーモニーとメロディには全く関心がなかった」と語っているように、リズムとテンポに絞ったアプローチから独自の緻密な作曲語法が導き出されている。
ナンカロウによって音楽史上もっとも緻密で複雑な微分的時間の世界が創造された。それも、時代遅れのプレイヤーピアノによって。 64

●ポーリン・オリヴェロス
彼女の聴き入るという実践は、サウンド・アートでの音の捉え方を考えうるうえで重要である。「ディープリスニング」において、音は自己の内部で対象化され、また意味づけされることによって完結するものではなく、他者や環境とインターラクションするための媒体となっている。つまり、外部との交信を前提としているのが、「ディープリスニング」での「聴く」という行為なのである。「ディープリスニング」において、耳は、自らの身体と外部の環境をつなぐインターフェイスであり、イルカやこうもりがパルス音を放って環境の特性を察知するように、音を媒介として他者や環境とのインターラクションが行われる。ここで生まれる交信の綾の集積は、聴覚的なレベルを超えて共感覚的な世界へと拡がっていく。  39

・「ディープリスニング」実践の場
《Deep Listening》というCD(New AlbiOn 022)は、ワシントン州にある空っぽになった貯水槽でのセッションが収録されている。深さが十四フィートもあるこの貯水槽は、なんと残響時間が四十五秒にも達するという。( 中略 ― むやみに音を出せば音のカオスと化す)自らが出した音の残響に耳をかたむけ、そして、相手の音の軌跡に最新の注意を払いながら、次なる音を慎重に選ばなくてはならない。(残響時間の長い貯水槽空間が、聴くという行為を提供している→アフォーダンスへの接続) 81

●フェルドマンのストーリー 102
「来年、またここに来るから、そのとき、レッスンの続きをやろう」と言い残してフェルドマンがサンディエゴを後にしたのは、一九八七年の三月半ばごろであった。その後、バッファローの病院にフェルドマンが入院しているという話は聴いていたものの、その年の九月三日、フェルドマンが亡くなったという突然の悲報は、僕をはじめ多くの人たちに大きな衝撃を与えた。折しも、九月五日から、ロサンジェルスでは、ジョン・ケージの七十五歳を祝うフェスティバル「ケージ・セレブレイション」が開かれたばかりであった。フェルドマンもこのフェスティバルに駆けつけ、ケージの多数の曲をコラージュした《ミュージサーカス》というパフォーマンスのなかで、《ドリーム》という短いピアノ曲を弾くことになっていた。当日、配られたプログラムの変更を知らせるチラシのなかに、「だれもモートン・フェルドマンの代わりはできない」という一文が書き添えてあった。

●藤枝さんの作曲哲学 ~ケージの影響 177(要約)
出発点にケージの考え方が大きく作用してる。自分なりに解釈、実践すること ―― それが僕の作曲だった。ある結果を想定して、意図的に音という素材を扱うのではなく、音と戯れるプロセスに意味を見いだそうという行為。あるいは、何らかの音が生み出される状況を設定して、発声した音を積極的に体験しようとする態度。これらをケージの音楽が引きずっているストイックな音響結果から逃れながらやれるかの模索だった。

●机上の空論から逃れている作曲家達の共通項 179(要約)
テリー・ライリー、ポーリン・オリヴェロス、デヴィッド・バーマンたち「コンポーザー=パフォーマー」の活動は多彩だ。さらに作曲作品にパフォーマンスが反映され、机上で繰り広げられる概念的で緻密な操作に没頭している前衛作曲家たちとまるで違う。
音自体と正面で向き合い、音という実態と相互作用しながら、自らのあらたな感性を発見したり、より柔軟な音作りを実践しているからだろう。楽譜という存在や演奏という制度に煩わされる、やりたいことを、たえず自分の心身および楽器メディアに働きかけ、結果として実験的な音の領域が広がる。


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